ヒヨクノトリ                      


 コクピットで、梨緒は震えていた。
 目の前に広がる空と海の青。いつもなら心を癒してくれるその色も、今は恐怖以外の何物でもない。
 穏やかに響くジェット音を耳障りなロックオンアラートがかき消す。操縦桿とスロットルを引き絞り、懸命に敵を振り切ろうとするが、アラートが途切れることはない。酸素マスクに荒い息を吐く。操縦桿を握る手は震え半ば痺れているが、気を抜いたら最後、後ろから追撃してくる敵のミサイルの餌食となってしまう。
 助けてくれる者はもう誰もいない。仲間たちは皆撃墜されてしまった。頼りとしていた隊長機ですら、ミサイルの追撃を振り切れずに被弾して、ベイルアウトするのがやっとだった。
 ただ一機の存在──コンドルのマークをつけたテージス軍機に、梨緒の部隊は壊滅という信じられない事態に追い込まれてしまったのだ。
 だがまだ恐怖は終わっていない。ヤツは一機残った梨緒をも仕留めようと、執拗に狙い続けてくる。
 新兵の梨緒がたちうちできるような相手ではない。技術も経験も、何もかもに差がありすぎる。逃げることしか梨緒にはできないのだ。
 もうどれだけの間、ヤツから逃げ惑っているだろう。時間の感覚さえなくなってきた。疲労と急激な重力変化の連続で、思考能力もかなり欠落してきている。軽く頭を振ったが、まだ頭にもやがかかったようだ。
 そんな一瞬の隙を、ヤツは見逃してはくれなかった。
 不意に背中に感じるプレッシャー。気がつけばロックオンアラートがけたたましく鳴っていた。後ろを取られたのだ。
 ブレイク(回避動作)──いや、遅い。一瞬の判断の迷いが、梨緒に死を覚悟させる。
 全身が総毛立つ。息が、止まった。
『【ヴァルチャー1】、お前の相手はこっちだよ』
 突如、無線に飛び込んできた男の鷹揚な声。
 と同時に、ミサイルの轟音がすぐ横を走っていった。ミサイルアラートは一切鳴っておらず、突然のことに梨緒は度肝を抜かれた。
 だがそれで呪縛がとけた。無我夢中で操縦桿を倒し、低空へと逃げようとする梨緒の上空を、二機の戦闘機が相次いで追い越していく。先を行くのはヤツ──ヴァルチャー1と呼ばれたテージス軍機。そして後を追うのは梨緒と同じランティア空軍の機体だ。さっきの声の主であろう、IFF(敵味方識別装置)では友軍機【セイレーン1】を示している。追い詰められて、掩護機が近づいていたことにも気付かなかった。
 あっという間に空を駆け上がっていった二機は、遥か上空でドッグファイトを繰り広げる──かと思ったのだが、どうもそうではないらしい。
 セイレーン1に追われてヴァルチャー1は応戦するかと思いきや、そのまま彼方へと遠ざかっていった。戦闘限界時間が近いのだろう。セイレーン1も深追いはせず、行く先を見据えるかのようにゆったりと旋回している。
 敵機の姿が見えなくなって、梨緒はようやく息をついた。
 遥か彼方にはランティアの遠隔領土メルヴィナス島、そして敵国テージスを有する大陸が見える。そのメルヴィナス島にテージスが侵攻を開始して早一ヶ月。この美しい海も戦場と化してしまった。
 宙に浮かぶ白い雲。そこに混じって残る黒煙の跡は、仲間たちが無残に散っていった証だ。本国一のエリート部隊と言われたワイバーン隊──それが本領を発揮することもできないままヴァルチャー1に翻弄され、完膚なきまでに叩きのめされてしまうとは。
 ぎり、と歯を食いしばる。何もできなかった。誰も助けられなかった。もっと自分に力があったなら……
 コクピットでうなだれる梨緒の横に、いつの間にかセイレーン1が並んでいた。自分もそうだが、向こうもヘルメットに酸素マスクで顔は見えない。
『こちらセイレーン1。そこの友軍機、迷子になってビービー泣いてたのか?』
 梨緒はカチンときて、無線に怒鳴るように言い返してしまった。
「こちらワイバーン8。泣いてなんかいません!」
『……女?』
 甲高い声に意表を突かれたようだ。
『……これは失礼、お嬢さんでしたか』
 いちいち癇に障る男だ。、さっきまでの感傷的な気分も吹き飛んでしまった。
 こっちの気持ちを知ってか知らずか、男は陽気に続けてきた。
『まあいい、とりあえずついてこい』
 必死で逃げ回ったせいか、本土まで帰還するだけの燃料は残っていなかった。ここから一番近い基地と言えば──いまや最前線となったガミュー島ヴィグラス基地。セイレーン1はそこの所属らしい。
 旋回し、機首をガミュー島の方角に向けた彼の後を、梨緒は暗澹たる気持ちで追いかけていった。

 メルヴィナス島の所有権については、ランティアとテージスの二国間で何百年も争われていたことは周知の事実である。
 だが元々この島を発見したのが大昔のランティア人であったこと、そして前世紀にランティアが軍事基地を建造し既成事実を作ったことでこの百年ほどは表面上沈静化していた。
 風向きが変わってきたのは、テージスで軍事政権が誕生した数年前だ。
 度重なる弾圧で国内に政権に対する不満が燻りはじめ、時のテージス大統領はその不満の矛先を逸らすかのようにメルヴィナス島の問題を持ち出したのだ。悲願とも言える大国ランティアからのメルヴィナス島奪還を成し遂げるのだと、大統領は巧みに愛国心を煽った。
 かくして二国間の緊張は高まり、ついにはテージスの国粋主義者が島に上陸するという騒ぎが起きた。テージス軍は彼らを保護するという名目で即座に上陸、駐留していたランティア軍を駆逐し、メルヴィナス島は完全にテージスの支配下に置かれた。
 これによりランティアとテージスは全面戦争に突入。「メルヴィナス戦争」の始まりである。
 当初は軍事力で勝るランティア軍が優勢で紛争はすぐに終結するかと思われていたが、テージスは地の利を活かしてしぶとく抵抗してきた。
 メルヴィナスの基地を失ったランティアは陸軍そして海軍を送り込み包囲網を敷こうとしたが、海軍の艦隊を軒並み撃沈されてしまった。
 ランティア海軍を恐怖のどん底に陥れたのが、機体にコンドルのマークをつけた通称ヴァルチャー隊である。ヴァルチャーとはテージスに生息するコンドルの一種、ランティアが名づけたコードネームだ。彼らの中でも【ヴァルチャー1】と呼んでいる機体は、その一機だけで恐ろしいほどの戦果を上げていた。優雅に飛ぶその機体をエルコンドルパサー──テージス語で『コンドルは飛んでいく』の意──と賞賛半分、やっかみ半分に揶揄することもあるくらいだ。
 彼らを撃破し、島周辺の制空権を確保しようとランティアは本国から空軍のエリート部隊を次々と投入しているが、空戦をも得意とするヴァルチャー1を前にして全く歯が立たなかった。

 ガミュー島はランティア領でメルヴィナスに一番近い島である。
 亜熱帯に位置する一大リゾート地であるが、空軍における重要な拠点の一つにも数えられている。
 白砂のビーチに沿って建つリゾートホテル群を見下ろし、梨緒はため息をついた。
 初めて降り立つこのガミュー島、できれば純粋に遊び目的で来たかった。旅客機ではなく戦闘機で、水着も持たずにこの島に来るなんて最低としか言い様がない。
 青い海に続くような滑走路に着陸し、駐機してキャノピーを開けると、燦々と照りつける太陽とアスファルトからの照り返しと、そしてこの島自体が持つ熱気のようなものが一気に襲ってきた。
 ヘルメットを外し、軽く頭を振る。
 黒く艶やかな髪が肩の上でさらりと揺れた。モスグリーンのパイロットスーツに映える色白の肌は上気して、頬をほんのり赤く染めている。時折吹き抜ける海風が心地よかった。
 コクピットから降りると、先に止まっていたセイレーン1の機体の横で大柄な男が梯子に寄りかかっていた。栗色の短髪をかき上げたその顔は意外にも整っていて、イメージしていたのとは少し違う。彼はこちらに気付くと、驚いたように琥珀色の瞳を丸くしていた。
「こりゃ随分とまた可愛らしいお嬢ちゃんだな」
 子ども扱いされて、梨緒はキッと男を睨みつけた。だが彼は怯むこともなく、微笑さえ浮かべている。
「……涙目だぜ?」
 慌てて袖で目を拭うと、彼は滑稽だと言わんばかりに笑い声を上げた。
「オレはアイザック・レイン。大尉だ。ヴィグラスにようこそ」
 そう言って差し出された手を無視しようかとも思ったが、一応は階級が上の相手である。渋々握手に応じ、梨緒は敬礼を捧げた。
「第七航空団第二五戦略航空隊所属、梨緒・ハートレイです」
 名を聞いたレインは一瞬眉をしかめたが、すぐに笑顔を取り戻した。
「ワイバーンか……その若さで配属されたってことは、可愛い顔して相当な腕前なんだろうがな……怖くて撃てなかったか」
 レインの言葉に、梨緒は黙って頷くことしかできなかった。
 いくら訓練で抜群の成績を残したといっても、戦場はまるきり別の世界だった。
 実弾の飛び交う空。刻々と変わる状況の中で、即座の判断が求められるギリギリの精神状態。目の前で黒煙を噴きながら堕ちていく敵機、そして仲間たち。
 誰かの命を奪い、誰かに命を奪われるこの世界で、梨緒の手はどうしてもミサイルのボタンを押せなかった。自らの臆病さに負け、ただひたすら逃げ回ることを選んでしまった。
 その躊躇が、隊の仲間たちを危険に晒してしまったのだ。
 唇をかみ締める梨緒を慰めるように、レインは肩に手を回してきた。
「──オレが人殺すよりもっと気持ちいいこと教えてやるよ。今夜ベッドの上で、どうだ?」
 梨緒はカッとなって、レインの頬を殴っていた。
「ふざけんなっ!」
 硬く握り締めた拳が痛い。八つ当たりだとはわかっていても、殴らずにはいられなかった。
 昂ぶった感情を抑えようと肩で息をする梨緒を眺めて、レインはニヤリと笑った。吊り上げた唇の端は切れて血が滲んでいる。
「思ったより根性あるじゃねぇか」
 血を親指で拭うと、彼は梨緒に背を向けた。
「……決めた。お前、オレの相棒になれ」
「ええっ」
 レインの突然の言葉に、梨緒は怒りも忘れて呆然となった。

「やっぱりあんたの娘でしたか」
 レインは椅子にふんぞり返り、両足を机の上に投げ出した格好で、電話の相手に呼びかけた。
『よりによってお前に助けられるとはな、レイン。お前にだけは預けたくなかったよ』
 年齢を感じさせる低い声が耳に響く。
 電話の相手は本土の司令部、空軍准将のジェラルド・ハートレイ──つまりは梨緒の父親である。レインが訓練兵だった頃、鬼教官と恐れられていたのがこのジェラルドであった。
『だが仕方あるまい。ワイバーン隊はほぼ壊滅、隊長は生還したが両足骨折で全治三ヶ月じゃな。お前のセイレーン隊も補充要員を欲してたところだ。このご時勢、人員を遊ばせておくわけにもいかないし、お前のところでしごいてもらうのが一番だろう』
「じゃ、そういうことで、オレんとこの二番機にしますよ」
 そういって、レインは目の前に立つ梨緒にウインクして見せた。
 会話の内容が半分しかわかっていない梨緒だが、話がまとまったことは伝わったようだ。しょうがないといった風にため息を漏らしている。
 電話の向こうでも、ジェラルドが同じようにため息をついていた。
『梨緒が軍人になった時に、今生の別れはすませたんだがな。だが……私もひとりの父親だ。軍人にあるまじき言葉かもしれないが……あの子を頼むよ』
「あんたにしては随分としおらしい言葉じゃないですか」
 レインは鼻で笑う。
『これでも孫の顔を見てから死にたいんだよ』
「なんだ、そんな簡単なこと。オレが今からでも種付けしてきますよ」
 目の前の梨緒がギョッとしている。
『……蜂の巣にされたいか、え?』
「冗談に決まってるじゃないですか」
『お前が言うと冗談に聞こえないんだ』
 レインは笑い声を上げたが、ジェラルドはつられないどころか神妙な声で尋ねてきた。
『──で、まだそこを離れる気はないのか』
「……ええ」
『まったく、お前というヤツは……まあいい。手続きの件はこちらでしておく』
 そういうとジェラルドは返事も待たずに電話を切った。せっかちなところは昔と変わっていないらしい。
 やれやれと思いながら受話器を置くのとほぼ同時に、梨緒が身を乗り出してきた。
「父はなんと?」
「お前の子どもの顔が見たいっていうから相手に立候補したら却下された」
「……蜂の巣にしますよ」
 真顔でこのセリフ。あの父にしてこの娘ありだ。
 だが名教官ともいわれた父の背中を追ってパイロットになったあたり、飛行技術の腕もしっかりと受け継いでいるようだ。あのヴァルチャー1から逃げ切れただけでも大したものである。
「できるもんならやってみろ。ここは本土ほど生ぬるくはないからな」
 ここは離れ小島の基地であるが故に、限られた人員、限られた装備で戦うしかない場所だ。新兵といえども贅沢は言っていられない。だがそれはレインにとっても同じだ。猫の手も借りたいこの戦時下、使える戦力を逃す手はない。
「わかりました。これからよろしくお願いします、隊長」
 そう言って敬礼した梨緒の顔は、少し緊張して見えた。






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