ラストダンスは私と一緒に                      


 目の前の男が一瞬見せた隙を、カレンが見逃すはずはなかった。
 鮮やかな身体捌きで突進してくる相手の懐に潜り込み、その太い腕を取る。男の巨体を自らの身体のバネで跳ね上げると、男の身体は宙を舞い、そして床に激しく叩きつけられた。
 痛みに悶える男に追い討ちをかけるように、カレンはマウントポジションを取り、野戦服の両襟を締め上げた。男はもがいて必死に抵抗するが、劣勢が覆らないのは火を見るより明らかだ。苦悶の表情を浮かべるその顔が見る見るうちに真っ赤に染まっていく。
 男はついに観念したのだろう。抗うことを諦めたその手が、カレンの腕をポンポンと二回叩く。
 降参の合図だった。二人を取り巻いていた観衆から歓声が上がる。
 カレンは即座に手を離した。絞められていた気道が急に開放され、男は激しく咽こむ。
「すげぇな。ロイでも勝てないのかよ」
 どこからともなく皮肉めいた声が聞こえてきたが、カレンは気にする素振りもない。
 立ち上がり、手を伸ばす。その手を取ってロイが身体を起こすと、不意にカレンの髪が崩れた。
 ひっつめた髪が解け、艶やかな長い黒髪がふわりと広がる。
 二十二歳という年齢にしては随分と幼く見える顔立ちだが、東洋的な、どこか一本芯が通った美しさがある。だが、独特の女性美を湛えるその顔に表情はない。
 体格差のある男性隊員に格闘技で勝利した喜びはおろか、疲れの色さえ見せない。身体の線も露なランニングはわずかに汗ばんでいるが、それは春の陽気のせいであって、動きに無駄があった証拠にはならない。
 どこまでもクールな彼女に、他の男性隊員たちは賞賛半分呆れ半分にため息をつき、そして散り散りとなった。
「ったく……容赦ないな」
 ようやく落ち着いたロイは苦々しく言ったが、その顔は笑っていた。
「もうちょっと手加減してくれよ。訓練だぞ? ケガして本番使い物にならなくなったらどうすんだよ」
 カレンは答えず、傍らに置いてあった野戦服の上着を掴んだ。先程の一戦で格闘技の訓練は終了し、今日はもう帰る時間だ。背を向けてつかつかと歩き出すカレンを追いかけて、ロイは彼女の横に並んだ。
「なぁカレン。お前今度の休みヒマだろ? オレとドライブ行かないか。新しい車買ったんだよ」
 このロイという男、優秀な先輩であることは確かなのだが、何かにつけて誘ってくるのでカレンはいい加減辟易している。
 何度断っても相変わらずなので、面倒と無視し続けていると、じれったいと言わんばかりにロイの腕がカレンの肩を抱いた。
「つれないなぁ。たまには付き合ってく……ぐあっ」
 突如カレンの肘撃ちと裏拳のコンボがロイを襲った。多少の手加減をしているとはいえ、行動に躊躇がない。
 隙を見て素早く距離を取ったカレンは、ロイに言った。
「お断りします」
 透き通ったアルトの声が、言葉の冷たさを引き立たせる。
 ロイを置いて再び歩き出したカレンを、後ろから呼び止める声があった。
「カレン、隊長がお呼びだ」
 声の主は副官のウィル・レイトンだった。今の一部始終を見ていたのか、優男の顔が微妙に笑っている。
「ロイ、君も懲りないな。いい加減学習したほうがいいんじゃないか」
「カレンが薄情すぎるんですよ。オレは隊員同士の親睦を図ろうとしてるだけです」
 親睦とはよく言ったものだが、カレンにとっては迷惑以外の何物でもない。
 親睦を図る前にやるべきことはたくさんあるだろうに。人のプライベートに侵入する暇があったら、己を鍛えるためにもっと時間を使うべきだ。
 カレンは二人に軽く会釈すると、隊長室に向かって足早に歩き出した。
「ケッ……お高くとまりやがって」
 ロイの吐き捨てるような呟きが聞こえた気がしたが、カレンは振り返ろうともしなかった。

 ドアをノックすると、中から欠伸のような返事が返ってきた。
「レッドフォード、入ります」
 隊長室のドアを開け、静かに入る。夕暮れ時の眩しい西日に照らされた部屋の奥に向けて敬礼を捧げると、カレンはその人物をじっと見据えた。
「よぉ、早かったな」
 机の上に乗せられた両脚の向こう側、寝ぼけ眼で自分を見つめる人物──
 エリシオ陸軍統合特殊作戦部隊第四STFG(通称マジシャン)M中隊隊長・アレックス・バーネットは部下の素早い来訪に目を細めてみせた。
「お呼びでしょうか」
「ん、まぁな」
 バーネットは大きく伸びをすると椅子から身体を起こし、手招きしてカレンを呼び寄せた。
 確か今年で三十五歳だったと思う。日焼けした浅黒い顔に無精ヒゲをはやして、栗色の短い髪はいつ見てもボサボサだ。整っているところをカレンは見たことがない。
 軍に数ある特殊部隊の中でも、カウンターテロに特化した精鋭部隊『マジシャン』──その中でも最優秀(トップガン)と名高いM中隊を率いる隊長としては、とてもらしくない人物に見える。
「そういやナイフ戦でウィル相手にいいセン行ったんだって? アイツと互角なんてオレじゃもう相手にならねぇな」
 耳が早い男だ。訓練場にはいなかったはずなのに、成果をもうはや聞きつけたようだ。自分は絶対に訓練には参加しないくせに、謙遜を口にするところが何とも気に食わない。
「素手じゃ負けなし。射撃は正確無比。真面目で品行方正、ついでに美人とくりゃ文句の付け所がねぇわなぁ。ますます男どものメンツが丸つぶれだ」
 褒めているのか貶しているのか、よくわからない口ぶりだ。ニヤニヤしてこちらを見つめる顔が余計に真意を見えなくしている。
 正直なところ、カレンはこの上司があまり好きではない。嫌悪というよりは苦手といったほうが正確だが。
「なあ、レッド」
 何故かバーネットは自分をこう呼ぶ。
 他の隊員は皆ファーストネームで呼ぶのに、バーネットだけは自分がつけた愛称を気に入っているのか「レッド」と呼ぶのだ。それがまたカレンの神経を逆撫でする。
「お前がウチに来てもう一年か」
 バーネットは妙に感慨深げに呟いた。
 合格率一割以下という超難関の試験をパスし、厳しい入隊訓練を受けてようやく配属されたM中隊。ルーキーとして初の女性隊員として、無我夢中のまま過ぎていった一年だった。
「この一年、よくやってくれたと思う。何度か実戦に出したが失態もないし、訓練の成績も申し分ない。この分だと来年には分隊のサポート任せてもいいんじゃねぇかと思うくらいだよ」
 口の悪いバーネットにしては珍しいくらいの褒め言葉にも、カレンは眉一つ動かさない。
「おいおい、これでも褒めてるんだぜ。もうちょっと嬉しそうな顔しろよ」
 それでもカレンの表情は変わらない。嘲笑うかのようにバーネットは頬を歪めた。
「そんなんだから男どもに陰口叩かれるんだぞ、なあ【人形】」
 カレンの瞳が鋭く光った。射るような視線でバーネットを見つめるが、彼はそれでさえも愉快といわんばかりの顔だ。
「その顔じゃ知ってたようだな。男どもがお前につけたあだ名。誰がつけたか知らねぇが人形たぁセンスはあるな」
「私は人形ではありません」
 咄嗟にカレンは答えていた。
 なかなか本題を言わないバーネットに対しての苛立ちが募っていた。この男ののらりくらりとはぐらかすような物言いは、カレンが最も苦手とするところだ。
 同僚が自分のことをそう揶揄していることは知っていた。
 無口で無表情で、感情を外に表すことのない、それはまるで人形のよう──確かにそう見えるかもしれない。
 だが外面だけでそんな風に評されるのは非常に心外だ。自分にだって感情はある。ただ……
「確かにな。お前は人形なんかじゃない──感情がないんじゃなくて、それを表現するのが人よりちょっと下手なだけなんだよな。嬉しいときに嬉しいと、悲しいときに悲しいと、表情や言葉に上手く出せないだけなんだよな、お前は」
 カレンは息を呑んだ。
 バーネットが、自分の思っていたことを口にしたからだ。
 自分のことをそう見ていたなんて、思いもしなかった。
 本当の自分など誰もわかってくれないと、そう思っていたのに……
 一見漫然として、何も考えてないように見えるバーネット──その彼が自分の弱点とも言える部分をしっかと見抜いていたことに、カレンは驚きを隠せなかった。
「……鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔、してるぜ? 図星だったか?」
 気づくと、目の前でバーネットがニヤついていた。
 いつの間にか自分の口がポカンと開いていたのに気がついて、慌てて顔を背ける。心なしか頬が熱い。それを隠すように片手を当てると、バーネットは追討ちをかけてきた。
「そんな顔もできるんじゃねぇか。いいねぇ、乙女の恥じらいを感じさせるいい表情だ」
 冷やかされるとついついムキになってしまうのが常だ。恨みがましくバーネットを睨み付けたが、それでも彼は楽しそうに笑っていた。
「お、その顔もいいねぇ。強気な女ってのもそそるものがあるなぁ」
 こうなっては相手の思うツボである。これ以上の抵抗は無駄というものだ。ため息が自然と漏れ出た。
「そういう表情をアイツらにも見せられればいいんだけどな。お前が弱い部分も持った【人間の女】ってのを男どももわかってくれりゃいいんだが」
「弱みなど他人に見せたくありません」
 落ち着きを取り戻したカレンは即答した。
 愚弄された、その逆襲とばかりに言葉が堰を切って出てくる。
「弱みなどいりません。私に必要なのはテロリストを倒す強さだけです。敵を素早く、そして確実に制圧できる力があればそれでいいんです」
 カレンは一気に喋って、息をついた。そしてバーネットの答えを待つ。
 だが彼は答えなかった。ただ静かに微笑み、凪いだ海のような青い瞳でカレンを見つめるだけだ。
 バーネットはデスクの引出しを開け、一通の封筒を取り出した。カレンは差し出された封筒を手に取り、恐る恐る開けてみる。中から出てきたのは細長い紙切れが二枚。
「……何ですか、これ……」
「見りゃわかるだろ。映画のチケットだよ」
 確かにどう見ても映画のチケットだ。
【ラストダンスは私と一緒に】
 カレンもタイトルだけは知っている。確か古典的名作のラブストーリーだったはずだ。だが問題はそこではない。
 カレンの怪訝な顔に、バーネットは我が意を得たりと満足そうに微笑んだ。
「厚生から回ってきたんだけどな、どういうわけか二枚余っちまったんだよ。期限切れも近いし、どうしようかと思ってたんだけどな、お前にやるよ」
「いりません」
 カレンはまたもや即答した。チケットを封筒に戻し、バーネットに突き返す。
「映画は好きじゃありません」
「いいから見てこいって。次の休みに、できれば誰か男誘ってな。ロイなんかどうだ?」
 そう言われると尚更行く気になれない。
「お断りします。これは他の方に差し上げてください」
 バーネットは封筒を再度カレンの前に置いた。
「んじゃ命令だ。映画でも見て気分転換してこい。お前は気を張り詰めすぎだ。力に自信を持つのもいいが、息抜きの仕方も覚えないとこの仕事続かないぜ?」
「しかし……」
「上司の命令は絶対だぞ。行かないと査問委員会にかけちゃうぞぉ」
 それはないだろうと思ったが、口には出さなかった。上司の命令であることは確かなのだ。
 それでもまだ躊躇うカレンに、バーネットは諭すように言った。
「テロリストってのはな、力だけでどうこうできる相手じゃない。弱み見せて、相手を油断させる──そんな駆け引きも必要な相手なんだよ。四六時中殺気立ってたらいつか潰れるだけだ。ちょっと肩の力抜いてこい」
 男ばかりのM中隊の中で、ただ一人の女として他の男性隊員に負けないよう必要以上に肩肘を張っていたのは確かだ。弱いところを見せたくなくて、余計に力に頼っている部分もあった。
 隊長の肩書きは伊達じゃないらしい。その青い瞳は何も見てないようで、全てを見透かしてしまう不思議な力があるのかもしれない。
「ほれ、しまっとけ」
 カレンはしぶしぶ封筒を胸ポケットに納めた。
「二枚あるんだからな。誰か誘えよ」
 そういわれても、カレンには友達らしい友達は殆どいない。こんな性格だから無理もないのだが。
 かといって同僚を誘うのも気が進まない。特定の誰かを誘えば、男どもが酒のつまみ代わりとばかりにあれこれ噂するのが目に見えている。
「──オレが一緒に行ってやろうか?」
 急に声をかけられて、カレンは飛び上がらんばかりに驚いた。
 ──自分と……隊長が?
 まるで心の声が聞こえていたかのようなタイミングのよさ以上に、そんなことを一瞬でも考えてしまった自分に、カレンは愕然としてしまった。冷静と言葉を失って、思わず首をブンブンと横に振ってしまう。
「おいおい。冗談でもそんなに拒まれると、オレだって傷つくぞ」
「……ご、ご用件はこれだけでしょうか」
 動悸を抑えながら何とか言葉を発したが、胸の内の動揺はなかなか隠せなかった。
「そんだけ。帰っていいぞぉ」
 やはりこの男は苦手だ。一時も油断ならない。こっちの調子が狂うどころか、完全に彼のペースに乗せられて何をされるかわからない恐ろしさがある。
 カレンは敬礼と挨拶もそこそこに、逃げるようにドアに向かった。ドアノブに手をかけ、勢いよく引いたところで背後から声がかかった。
「レッド」
「……はい?」
 振り返ると、バーネットがまっすぐ自分を見つめていた。
 黄昏の薄暗い部屋の中で、瞳のサファイアブルーが鋭い光を放っている。カレンは一瞬立ちすくんだ。
「……本当の強さってのは、腕っ節の強さじゃない。『最後まで生き残る』その意志の強さだ。忘れんな」
 胸にずしりとくる言葉だ。
 バーネットはただの軍人ではない。トップエリートのM中隊を率いる隊長なのだ。それ相応の重荷を背負ってきた、その重みがこの言葉に表れている。
 カレンは再度敬礼をすると、静かに部屋を出た。




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