芝生の魔女〜萌える季節の約束〜


プロローグ

「笑わないで、聞いてくれる?」
 由佳里は確かにそう言った。
 夕暮れ時の公園。長い髪を風に遊ばせ、はにかむようにうつむきながら、それでいて瞳だけは内面の意志の強さをはっきりと映し出して。
「あのね……私、ダービージョッキーになりたいんだ」
 ダービージョッキー。
 その言葉に、「オレ」は彼女に気づかれないように、唾を飲み込んだ。
「騎手なら誰でもそう思ってるはずさ。笑うようなことじゃないよ」
 オレがそう答えると、彼女は顔を上げ、笑顔の中で疑わしそうに眉をひそめて見せた。
「本当にそう思う? お父さんに言ったら大笑いされたわ。『バカ言うな』ってね」
「シゲさんは厳しいからな。オレなんか初めてダービー出たときに『テメエなんざ百年早えよ』ってどやされたよ」
「ひがんでるのよ。自分がダービーに出られるようになるまでに十年かかってるから、八つ当たりしてるんだわ」
 オレも由佳里も、声を上げて笑った。
 ひとしきり笑った後、彼女は深く息をついて、長いまつげを伏せた。
「各務(かがみ)さんって本当に優しいのね」
「え? 急にどうしたの?」
「だって、厳しいこと言わないんだもの」
 胸を突かれて、オレは彼女から目を逸らした。
「三十年騎手やってるお父さんだって、ましてやリーディングの各務さんだって勝ててないのに、若手の、しかも女の私がダービージョッキーになりたいだなんて、笑われて当然だわ」
「そんなことないさ。頑張れば、いつかなれるよ」
 そう言いながら、それが本心から出た言葉ではないことに、オレは気づいていた。
 シャツの半袖から伸びる、由佳里の細い腕。美しい顔に似合わず、擦り傷でいっぱいだ。
 ケガの絶えない身体。憂いを帯びた横顔を見つめていると、胸が苦しくなる。
 これ以上、彼女に何を頑張れと言うのか──
 言葉に窮していると、由佳里はオレの顔を覗きこんできた。
「とりあえず、各務さんがダービー取るのが先かな。今度の馬、期待大なんでしょ?」
「まあね。皐月賞には間にあわなかったけど、昨日の青葉賞見ただろ? トライアルとはいえ同じ東京の二四〇〇を大差勝ちしたんだ。結構な人気になると思うよ」
「絶対勝ってよね。勝って、ダービージョッキーのお手本、見せて」
 そう言って、由佳里がニッコリ笑う。
「ああ、勝つよ。せっかく掴んだチャンスだ。今年こそダービー、勝って見せるよ」
 オレは力を込めて、そう言った。
 負けるつもりなど、欠片もない。
 何よりも、オレにはダービーに負けられない、大きな理由がある。
「ダービーに勝ったら……」
 そこまで言いかけて、オレはその後の言葉を飲み込んだ。ダービーまであと一ヶ月ある。今はまだ言うべき時じゃない。
 幸いなことに、言いかけた言葉を由佳里は聞いていなかったようだ。
 物思いにふける、彼女の横顔。
 何を思っているのだろうか。じっと見つめられているのにも気づかないくらい、深く考え込んでいる。
 その白い頬にそっと手を伸ばすと、由佳里は穏やかに笑ってこちらを向いた。
「ね、各務さん……いつまでも優しい各務さんでいてね」
 約束するよ──君のその笑顔を、ずっとずっと大事にしたいから。
 いつものように視線を合わせ、キスをする。
 この腕に彼女の温もりを感じながら、オレは心の中で呟いた。
 ──君を、愛してる。




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