芝生の魔女〜萌える季節の約束〜
第4章 4コーナーの魔法
「カズくん、何ムズカシイ顔してるの?」
萌黄の腹立つ笑顔が、うつむき加減で歩く「オレ」の視界に割り込んでくる。
オレはな、お前をブン殴りたくなる気持ちを必死でこらえてんだよ。
大体な、引退をかけて各務さんと勝負するなんて……何考えてんだ? 正気じゃない!
バカだバカだと思っていたけど、これほどまでバカだとは思わなかった。本当に引退の意味がわかってんのか?
「もし負けちゃったら? 各務さんにおヨメにもらってもらうに決まってるじゃなーい。カズくん、わかりきったこと聞かないでよー」
お前に聞いたオレがバカだった。本気で勝負する気あんのかよ……
オレは、絶対お前を助けてやらないからな。
オレもむらさき賞に出ること、忘れんなよ。オレがお前に勝って、各務さんにも勝って、その勝負、無効にしてやる。
その上で、オレの望みをお前に突きつけてやる。首洗って待ってやがれ!
とは言うものの……勝負の当事者がちっとも盛り上がってないのに、オレ一人が気合入ってるっていうのはどういうことよ?
各務さんは相変わらず、ただ自分が勝つことだけを考えて、他は関係ないといった素振りだし、萌黄は萌黄で鼻歌交じりに馬に乗って、緊張感のカケラも見えやしねえ。
世間はダービー一色だ。
いつも以上にトレセンはマスコミであふれかえって、調教の様子を見ては、やれ皐月賞馬が二冠を取るだの、やれトライアル馬が好調だの、好き勝手に騒ぎ立てている。
ダービーにまったく関係ないオレとしては、マスコミがウロウロしてるだけでもかなり迷惑なのに、兄貴のことまで聞かれていい加減ウザイんだよ。それでなくてもイライラしてんのに……
各務さんが今回ダービーで乗る馬は、皐月賞では三着だった。距離適正的には二千メートルの皐月賞よりも、二四〇〇のダービーのほうが向いてるって言われてるな。
土曜日の時点で、皐月賞馬を押さえて一番人気。今年もまた、この人が主役になっちまうのかな……
なんてのん気に構えてる場合じゃない。今はダービーよりむらさき賞だ。
むらさき賞は芝の一八〇〇。四歳以上、賞金一六〇〇万以下の準オープンハンデ戦だ。一六〇〇万下までのレースは条件戦と言われていて、これを勝てばオープン入り。重賞にも出れるようになるんだ。
オレはパブリックエネミー、各務さんはレールフレックス、萌黄はラブリーウィッチに乗る。
オレや各務さんの馬が一六〇〇万下クラスでいつも上位につけて、いつでも条件戦脱出できそうな位置にあるのに対して、萌黄のラブリーウィッチは常に最下位あたりをさまよってる。しかも六歳の牝馬。いつ引退してもおかしくない馬だ。
唯一の救いは最軽量ハンデということくらいで、それでもブッチギリの最低人気。単勝で二五〇倍超えてるぞ。
調教でもあんまり走らなかったようだし……まあホントに、筋書きどおりの馬がそろったってカンジだよな。誰がどう見ても、萌黄が負けるシナリオだよ、これは。
「お前……どうするつもりだよ」
あまりにも気にする素振りがないので、前の日の晩、調整ルームでオレは萌黄に訊いたんだ。
「どうするって? 何が?」
「むらさき賞だよ! まさか勝負のこと、忘れてたわけじゃないだろうな」
…………
「忘れてないよー」
「ウソつけっ! 今の間は何だ! 絶対忘れてただろっ!」
「あはは。大丈夫だよー。私、負けないよ」
「その何の根拠もない自信は、どっから出てくるんだ? 馬は明らかに格下、騎手はデビューしたてのペーペー、人気は最低。これで勝てっていうほうがムリだろうが」
「カズくん……心配してくれてるの?」
見つめ返されて、オレはまた言葉に詰まった。
別に……心配なんて……してねーよ。
お前が心配するだけムダな人間だってことは、骨身にしみてよーくわかってるからな。
鉄でできてんじゃねーかと思えるくらいの強心臓。神がかり的な本番強さ。オレが心配すればするほど、お前はその心配を裏切るんだ。
「……明日はオレが勝つからな」
「えー、それじゃ各務さんとデートできなくなっちゃうー」
「オレだって勝ちたいんだよ!」
「でも」
萌黄は微笑んだ。
柔らかで、すがすがしい、爽やかな風を感じさせる笑顔。
「私が勝つよ」
口調は穏やかでも、有無を言わせない、静かな迫力。
いつもヘラヘラして、失敗ばかりしているかと思えば、時に威圧的ですらある存在感を発する。
こんなつかみどころのない、うなぎみたいな女、初めてだ。
そしてこんな女に付き合ってしまったのが、オレの不幸の始まりなのかもな……
上質のベルベットのような若駒の毛並みが、燦々と降り注ぐ陽を浴びて美しく輝いている。
このところ降り続いていた雨もようやく上がり、東京優駿という晴れ舞台にふさわしい晴天が広がった。
晴れ渡った空にようやくお目見えした太陽は、光を待ちわびた大地をじりじりと照らし、湿った芝生から熱気を立ち上らせる。
いや……この熱気は何も太陽のせいだけじゃない。
スタンドを埋めつくす、幾重にも折り重なった人、人、人。そのうねりは、意思を持った別の生き物のようにも見えて少し怖くもある。人々のざわめく声は押し寄せる大きな波のようだ。飲み込まれそうな感覚に陥って、思わずツバをゴクリと飲んだ。
昨日の土曜日とは段違いの観客数だ。先週のオークスだって牝馬クラシックの最高峰だが、ここまですごくはなかった。
これがダービーの力か──
この日、この地に、騎手として立てたことはうれしいが、前座の一役者でしかないことが悔しくてたまらない。
今年はしょうがないか……来年は絶対、ダービーに乗ってやる。
朝早くからお客さんが詰め掛けているから、第一レースからして独特の雰囲気だ。ゴール前なんか、ダービーのために朝から場所取りしてる人もいて、ヤジがものすごい。やりづらいったらありゃしねーな。
これだけの大観衆を前にしても、人生をかけた大勝負を前にしても、萌黄はいつもどおり間の抜けた笑顔を晒している。
オレばっかり緊張して、なんでお前はそんなに脳天気でいられるんだよ! もしかしたら、今日のむらさき賞が騎手人生最後のレースになるかもしれないんだぞ?
それでも今日は、萌黄が少しおとなしく見える。各務さんにむやみやたらに話しかけることはしてないようだ。そこはやはり勝負事、相手にスキを見せるようなマネはしないってことか。
いやいや、萌黄のことばっかりを気にしているわけにもいかない。むらさき賞の前にもレースはあるんだ。
そう思いながらも、どこか心あらずといったカンジで、気がつけばあっという間に八レースが終わっていた。は、早いな……
今日はここまで五レース乗って、二着一回、三着二回、着外二回。まずまずと言えるだろう。ま、今日だけで既に二勝している各務さんには遠く及ばないけどな。あの人は別格だ。
それに比べて萌黄は……二レースしか乗ってない上に、掲示板にも載っていない。昨日も全部着外だった。
でも、むらさき賞はオレが勝つから安心しとけよ。各務さんには絶対勝たせない。誰が何と言おうと、オレが勝つんだ。
萌黄は最内枠の一番、その隣の二番がオレ、そして遠く離れた七枠十番に各務さんという枠順だ。
パドックで整列したとき、二人にチラっと視線を投げたが、直接声をかけることはしなかった。二人とも、何事もないかのような顔でまっすぐ前を見つめて、自分の馬に向かっていく。
直前のオッズでは、オレと各務さんが人気を二分してるカンジだな。
パブリックエネミーに跨り、スタンドの上階まで超満員のパドックを周回する。この馬に乗るのはまだ二戦目だけど、オレがずっと調教つけてきたし、相性はバッチリだ。スムーズにゲートを出て逃げることができれば、十分に勝機はある。
目の前では萌黄のラブリーウィッチが悠々と闊歩している。栗毛の馬体はそんな悪くは見えないな。特に汗もかいてないし、落ち着いてるようにも見える……けど、キャリアがキャリアだからな、最低人気もしょうがないだろ。
各務さんのレールフレックスも万全の仕上がりだ。文句の付け所がない。
それにしても……なんで萌黄は、各務さんとの勝負の場にこのむらさき賞を選んだんだろう。
シゲさんにあんな話を聞かされたからか?
萌黄は萌黄なりに、各務さんの目を覚まさせようとしてんのか?
それにしては、あまりにもリスクが大きすぎる。
各務さんが自分で言ってたとおり、むらさき賞だからってこの人の緻密なレース運びに狂いが生じるとはとても思えない。むしろ逆だろう。
それとも、五年前とまったく同じレース展開にすれば、各務さんの中で何かが変わるとでも思ってるんだろうか?
ムリだ。
あの時、由佳ねーちゃんが乗っていたアスピルクエッタは逃げ馬だ。
それに対して、萌黄のラブリーウィッチは逃げの戦法を取ったことがない。いつも後方からの競馬で、過去に勝ったレースも全て後方待機から大外まくって──という勝ち方だった。
それにこのレースでオレの馬が先頭切って逃げるであろうことは、みんなわかってる。そういう前提で、みんな自分の位置取りを考えてるんだ。それに競りかけてムダにスタミナを消費してちゃ、元も子もない。
つまり、萌黄はハナを切って逃げることができないんだ──オレがスタートでコケない限り。
いくらアイツがバカだからって、オレがスタートに失敗するのを見込んで大バクチを打ったり、競馬のセオリーを無視するような無謀なレースを仕掛けるとは思えない。
各務さんだって、そのことは当然警戒してくるだろう。
『萌えろ! 早川萌黄』
パドックのフェンスに張られた、萌黄を応援する横断幕が目に飛び込んできた。この春デビューしたばかりなのに、もう固定ファンがついてるんだな……
萌黄には不思議な魅力がある。キレイとかカワイイとかじゃない、もっと別なもの。
それが何かは上手く言えないけれど……とにかく萌黄を見てるとおもしろくて、飽きないんだ。
もし、萌黄がいなくなったら──
そうだ。
五年前、由佳ねーちゃんはこのレースで死んだんだ──
萌黄の一枠一番……由佳ねーちゃんと同じだ。今更ながら奇妙な符合に気づいてしまう。
急に息が苦しくなった。見えない手に首をじわじわと絞められるように、呼吸が上手くできない。
これは緊張なのか、それとも恐怖なのか?
気がつくと、目の前の萌黄の馬が、本馬場へ続く地下馬道に向かっていた。
ああ、レースが始まる……
本馬場に入って返し馬をしても、馬は落ち着いてもオレの心臓は落ち着かなかった。
迫りくる次の大舞台を前に、スタンドにあふれかえる大観衆が地鳴りのような歓声を上げた。それがまたオレの緊張を盛り上げ、不安な心を煽り立てる。
落ち着け……何をそんなにアセることがある?
五年前とは違うんだ。馬も人も、役者が違うじゃないか。
今これから、このレースで、何かが起きるとでも?
自慢じゃないが、オレのカンはよく外れるんだ。何も起こりゃしないさ。
萌黄はめずらしくうつむき加減で、馬の背をじっと眺めている。口元に笑みはあるものの、コイツにしては真剣な表情だ。うーん、不吉。
何を考えてるかまったく読めないだけに、余計に恐ろしい。
気にするな、気にするな……
一八〇〇のスタート地点、口を開いてオレたちを待つゲートの前で、輪乗りしながら気を落ち着かせる。
何もない、何もない……
合図があり、奇数番の馬からゲートに入る。萌黄の馬がスムーズに一枠に吸い込まれていく。
オレが勝つ、オレが勝つんだ……
何事もなく奇数番の馬が入り、今度は偶数番の馬だ。
呪文を唱えるようにブツクサ独り言をつぶやきながら、オレは馬の首を二番の枠に突っ込んだ。
東京競馬場は左回り、オレの左側に一番の萌黄がいる。けど、オレは萌黄の顔を見ないように顔を伏せて、ゲートが開くその一瞬に意識を集中させた。
が──外枠のほうが何だか騒がしい。
最外枠の十二番の馬が、ゲート入りを嫌っているみたいだ。前肢を突っ張り、首を上下に大きく振りかぶって、全身で嫌がる素振りを見せている。
そりゃイヤにもなるよな。走るためだけに生まれてきた動物とはいえ、鉄製の狭いゲートに好き好んで入る馬なんでそうそういないだろう。訓練されて、ようやく慣れるんだ。馬だって気分が乗らないことだってあるだろ。
とはいえ、おとなしくゲートに収まってくれないことには、レースは始まらない。ムリヤリゲートまで引っ張っていくが、これがなかなか入らない。一度ゲートから離して、また引っ張っていく。そして嫌がる。それの繰り返しだ。
「ね、カズくん」
呼ばれて振り向くと、萌黄の丸い目がゴーグル越しにオレを見つめていた。
「な、なんだよ……もうスタートだぞ。前向けよ」
萌黄の口元がニッコリと笑った。
「カズくん、ありがと」
……なんだ? なんで急に礼なんか言い出すんだ?
あっけに取られて、言葉が何も出てこない。
萌黄はまっすぐ前を向き、青い空を遠い目で見上げた。
心地よい風が萌黄から吹いてきて、オレのむきだしの頬を優しくなでる。
柔らかい手のひらで、そっと触れられたみたいだ。不安に駆られていた心が、穏やかに静まっていくのがよくわかる──
眼前に広がる、萌黄色の芝生──オレたちをゴールに導く、緑色のカーペットだ。何も考えることはない。その上で馬をひた走らせるだけだ。
萌黄……オレのほうこそ、ありがとう。お前の笑顔が、自分がやるべきことを思い出させてくれたよ。
外枠の馬も何とか落ち着いて、ゲートに入るようだ。まもなくスタートだな。
さあ、感覚を研ぎ澄ませ! ゲートが開く、その一瞬を逃すな!
このレースに勝って、オレは……萌黄、お前に……
「私、このレースで死んでみよっかなー」
『ゲートが開いて、各馬一斉にスタートしま……いや、二番のパブリックエネミーが一頭完全に出遅れています。代わりに先頭に飛び出したのは、一番ラブリーウィッチ』
□□□
「オレ」は目を疑った。
和弥は何をしてる?
何故アイツが先頭なんだ?
なんであの馬が逃げてるんだ!
一枠の白いヘルメット、栗毛の牝馬、小柄な背中……集団を突き放して加速していくその後ろ姿は……五年前の彼女そのものじゃないか。
ふざけるな……挑発してるのか? オレについてこいと。
いい度胸だ。五年前のむらさき賞と同じ状況を作り出して、その上でオレに勝負を仕掛けるとは。
上等だ──なら、お前の作った土俵の上に乗ってやる。それで負けても文句はあるまい。 望みどおり、四コーナーまではついていってやる。だがその先は──オレが勝つ。
大体、その馬で逃げ切れるとでも思ってるのか? 運良くハナを切れたようだが、その馬で一八〇〇を逃げ切るのは無理だ。四コーナーにたどり着く前にスタミナが切れて失速するのがオチだろう。
目の前のアイツはグングンと後続を突き放し、逃げていく。オレはそれを追いかける。
和弥のパブリックエネミーが出遅れ、二頭が抜きん出て大逃げをかます予想外の構図に、スタンドから悲鳴にも似たどよめきが起こった。
風と、馬と一体になり、空気を切り裂いて芝生を駆け抜ける。鐙を踏みしめ、手綱を強く握って、仕掛けるべきその時をただじっと待つ。
鞍上のアイツがチラリとこちらを振り返った。そしてオレを見て、慌てたように前を向く。ムカつくくらいに何もかもが一緒だ。
今のお前には……あの日彼女が見ていた風景が、同じ光景が見えているのか?
突き抜ける青空、風になびくけやき並木、艶やかな栗毛の背、誰もいない芝生の道……
いや……お前に一体何がわかる……
彼女があの日何を想い、何を考えていたかなんて、お前にわかるはずがない。
いつもふざけて、ヘラヘラ笑って、競馬が戦いだってことを完全に忘れてるようなヤツにわかってたまるか。真剣にやる気がないなら、オレが馬から引きずり下ろしてやる。
オレはお前が大嫌いだ。その浅はかな薄ら笑いをオレに見せるな。何の辛苦も味わうこともなく、幸福な日々にどっぷり浸かって生きてきたような笑い顔にはヘドさえ出る。
お前にはわかるまい。
彼女の苦悩が、そしてオレの苦悩が。
彼女を失った傷心を引きずり、骨の砕けた右足を引きずり、死に場所を求めてあちこちを彷徨った日々。死に切れず、生にしがみつくように壮絶なリハビリに耐えた後、逃げるようにして渡ったアメリカで目の当たりにした厳しい現実。僅かに残っていた騎手としてのプライドを粉々に砕かれ、全てを投げうってがむしゃらに生きたアメリカ修行──
そしてオレはここに戻ってきた。
オレは勝つ。勝たなければいけない。彼女の命を、明るい未来を奪ってしまったオレにはそれしか道がない。
勝つためなら、どんな手でも使う。どんな誹謗中傷だって甘んじて受ける。地獄に堕ちたっていい。
他人に恨まれ、嫌われ、疎まれても、オレはオレの道を行く──
様々な想いは流れる景色にまぎれて、忘却の彼方へ去っていく。もうすぐ三コーナーだ。
名物の大けやきはあの頃と何も変わらない。深い緑の葉を風になびかせ、何かを囁くようにざわめいている。
大けやきだけじゃない。きらめく夏の到来を喜ぶように、全ての植物が生き生きとして眩しい光を放っていた。
芝草の匂い、樹木の匂い、土の匂い、馬の匂い。いろんな匂いが吹き付ける風に乗ってやってくる。
ふと──甘い、懐かしい香りがした、そんな気がした。
花の匂い? いや、違う。これは……この香りは……由佳里?
オレはそこでやっと気がついた。
アイツの、ラブリーウィッチのスピードが落ちていない。
じき四コーナーだぞ? なんで……何故だ。スタミナが切れるんじゃなかったのか?
全身に鳥肌が立つ。目が醒めるような痛みがこめかみに走った。
残り八〇〇の標識を過ぎ、馬が四コーナーに差し掛かる。
おかしい。前との差が詰まらない。その一方で、後ろからは後続馬の気配が迫ってくる。アイツを……アイツを早く捕らえなければ!
頭がガンガンする。吐き気さえしてきた。痛みは視界を狭め、歪める。
アイツの背中がブレて二重に見える。重なって見えるあの背中は……
違う! あれは「由佳里」じゃない!
わかっているのに、アイツの背中に由佳里の背中が重なる。目をしばたかせても、残像は消えない。
あれは幻だ。熱気が見せる、陽炎だ。あれは断じて由佳里なんかじゃない!
……待て、待つんだ由佳里……そこから先に行っちゃいけない。
これはオレの意識が作り出した幻覚なのか? それとも……アイツが見せているとでもいうのか?
ああ、オレは狂っているのかもしれない。
もう何だっていい。前を行くのが誰だろうと構わない。
由佳里の幻を見せてオレを惑わそうというのなら、オレはそれを乗り越えるだけだ!
四コーナーの出口。オレはムチを取り出し、レールフレックスの尻に一発入れた。手綱を捌き、ラブリーウィッチをかわすようにすぐ横に出る。
一心不乱にムチを入れ、レールフレックスの首を押す。オレはただひたすらに馬を追った。
横を走るラブリーウィッチも応戦するように併せて加速してくる。
アイツとの勝負も、今がダービー直前だということも、もはやオレには関係なかった。少しでも前に出ることしか、首一つでも、ハナ差でも、とにかくアイツよりも前に出ることしか考えられなかった。
しなるムチが風を切り、乾いた音を立てて馬の尻を打つ。何度も、何度も。千切れんばかりに右腕を振るいながらも、左手で手綱とタテガミを握り締め、グイッ、グイッと力強く押した。
一完歩、一完歩ごとに、隣を走るラブリーウィッチとの差が徐々に開いていく。
あと一〇〇──スタンドの怒号も大歓声も、疾風と蹄が織り成す轟音に掻き消される。
もう少し……もう少しだ。これが終われば、オレはこの幻から抜け出せるんだ。
早く……終われっ!
華やかに飾られたゴール板の前を通り過ぎたとき──ラブリーウィッチはオレの半馬身後ろにいた。前に他の馬はいない。
オレは──オレは勝ったんだ。
「ハ、ハハ……勝った……勝ったぞ」
鞍上でラブリーウィッチを振り返り、オレは独り言のように叫んだ。
オレは勝ったんだ。由佳里に、あの日の幻に勝ったんだ。
何もかも、今となっては遠い日の幻に過ぎないんだ。由佳里と一緒に初勝利を喜んだあの夏も、悔しさに涙を滲ませたあの夜も、ダービーの前夜に彼女に告げた、あの言葉も──
だが、オレはまだ気づいていなかった。
自分が犯した大きな間違いに。
□□□
「オレ」は目を疑った。
萌黄が……負けた。
萌黄の言葉に驚いて出遅れてしまったことも、それが原因で七着に終わってしまったことも、今のオレにはとってはどうでもいいことだった。オレの目の前で、萌黄が各務さんに負けてしまったことがただ信じられなかったんだ。
ゴール板を過ぎ、惰性で走るラブリーウィッチを追いかけ、オレはその名を呼んだ。
「萌黄!」
馬を止め、振り返ったアイツの口元は、意外にも優しく微笑んでいた。
ゴーグルを外してオレを見つめた目も恐ろしく澄んでいて、怖れも、迷いも、疑いも、何一つ見えやしない。未だに自分の勝利を信じて疑わない、そんな目だ。
「お前……」
負けたんだぞ。各務さんが先着したんだぞ。いくらお前がバカでも、それくらいはわかるだろ?
お前は……騎手を辞めるのか?
萌黄は何も言わずに馬を返して、後検量室に戻る素振りを見せる。
ふざけんなって……進退を賭けた大勝負なのに、あれだけ自信持って「勝つよ」とか言ってたくせに、負けたら黙ってあっさり引っ込むのかよ。そんなのお前らしくないって。
「萌黄、待てって!」
オレに構わず、萌黄は馬を進める。
ダービーを直前に控えた超満員のスタンドが、妙な雰囲気に包まれていた。歓声とも罵倒とも、どちらともつかないどよめきの波。
ん? なんだ……何かあったのか?
前を行くラブリーウィッチが、ピタリと脚を止めた。
「もえ……」
オレの言葉を遮るように、萌黄は右腕を上げた。
しなやかに、なめらかに──グローブをはめた指の先まで優美で、その動きは高貴でさえある。
高く掲げられた萌黄の腕の先で、人差し指はある一点を指し示していた。
「まだ……終わってないよ」
その言葉に驚いて、オレは萌黄が示す先を見やった──それはスタンド前の電光掲示板。一着十番、二着一番と無情なまでに萌黄の敗北を見せつける。が──
右上に燦然と輝く青ランプ、そして「審」の文字。
それはこのレースが審議の対象となったことを示す、紛れもない証拠だった。