芝生の魔女〜萌える季節の約束〜


第5章  約束の季節

『お知らせ致します。東京競馬第九レースは、最後の直線走路で八番タカラノヤマ号の進路が狭くなったことについて審議を致します。お持ちの投票券は勝ち馬が確定するまで、お捨てにならないようお願い致します』

 後検量室に戻ると、萌黄と各務さんと、そしてもう一人、関西から来ていた中堅の騎手が裁決室に呼ばれた。
 一体何があったんだ?
 場内ではむらさき賞の一部始終を写した映像が繰り返し流されている。モニターに映し出されるその映像を、オレは他の騎手をかき分けて食い入るように見つめた。
 問題のシーンは四コーナー出口らしい。
 内ラチに沿って先頭を行くラブリーウィッチと、すぐ後ろを走るレールフレックス。そのまたすぐ後ろに後続馬が横並びになって押し寄せている。
 各務さんがムチを取り出し、一発入れる。手綱をさばいて萌黄の外側に、各務さんから見れば右斜め前にレールフレックスを押し出す。
 ここだ──
 その後ろで、後続馬のうちの一頭、タカラノヤマがレールフレックスをかわそうと右前に出掛かっていたんだ。ラブリーウィッチをかわそうとしたレールフレックスは、後ろにいたタカラノヤマの進路を塞ぐ形となり、結果斜行して妨害したと見なされたのだ。
 まだ終わっていない──萌黄の言う通りだ。
 そうだよ、斜行だって認められて降着処分になれば、萌黄の勝ちなんだ。
 でもなー……アイツのことだから、またバカなこと言い出してそうで怖いよな。
「よお」
 急に肩を組まれて、オレは飛び上がった。すぐ横でシゲさんのニヤついた顔が待ち受けている。
「なんでスタート失敗したんだ?」
 この人……ホント、ヤなこと聞いてくるよな……
「萌黄になんか吹き込まれたか?」
 うぐぐ……
「女にダマされて出負けるなんてよぉ、タマついてんのかぁ?」
「ついてますよ! 大体萌黄が縁起でもないこと言うから悪いんです! 萌黄のバカが……『死ぬ』なんて言うから……」
『死んでみよっかな』
 オレはその一言で固まった──一度は振り切ったはずの妄想が、思い出したくない記憶が頭の中を巡り巡って、全身の筋肉を硬直させてしまった。
 一瞬の出来事だ。我に返ったときにはもう遅かった。目の前のゲートは開き、全馬が走り去る後ろ姿をオレはただ呆然と見つめていた。
「だーかーらー、それがダマされたって言ってんだよ。大体よぉ、アイツが簡単に死ぬようなタマに見えるか?」
 まあ……見えるわけないんですけどね。
 でも萌黄にダマされたなんて思いたくない。アイツをダマすことはあっても、ダマされるなんて……末代までの恥だ。これ以上の屈辱があってたまるか!
「アイツの戯言真に受けてるようじゃ、まだまだだな。いくら萌黄に気があるからって、シメるところはシメていかんといいようにヤラれるだけだぞ」
「は……」
 反射的に返事しそうになって、オレはもう一度言葉の意味をよく考えた。
「な、何言ってるんですか! オレは別に萌黄のことなんか……」
 シゲさんはニヤニヤ。意味ありげに笑ってる。ムカツク……
「……何ですか、その目は。本当に何でもありませんからね。萌黄はただの同期ですよ」
「オメェもホント報われねぇ男だな。かわいそうなヤツ」
「誰がかわいそうですって? オレは幸せですよ! ちっともかわいそうじゃありませんよ!」
「そうだよなぁ。お前は萌黄の一番の『トモダチ』だもんなぁ」
「そうですよ。萌黄とはただの友達です。友達……です、よ……」
「何だか不満そうじゃねぇか、え?」
「別に不満じゃありませんよ! いい加減にしてくださいよ!」
 その時、辺りが急にざわついた。
 振り返ると、裁決室から三人がちょうど出てきたところだった。
「萌黄!」
 シゲさんとの不毛なやり取りも忘れて、オレは思わず駆け寄っていた。
「えへへ……」
 コイツの笑顔なんて見飽きたと思ったけど……やっぱそんなことないな。
 無垢な子供のようにつぶらな瞳をキラキラと輝かせて、食べることしか能のない口を絵に描いたようにポカンと開けて、底抜けなアホみたいに笑ってるその顔は──
 いつだって、オレに大きな力を与えてくれるんだ。

『第一位に入線した十番レールフレックス号は最後の直線走路で急に外側に斜行し、第五位に入線した八番タカラノヤマ号の進路を妨害したため、第五着に降着とし、着順を変更の上確定いたします』

「えへへ、勝ったよ」
 クセだらけの鳥の巣頭、いたずらっ子が勝ち誇ったような無邪気な笑顔。
「……バーカ。何だよ、こんなスッキリしない勝ち方しやがって……」
 そう言いながら、オレは今すぐにでも萌黄に抱きついて喜びたい衝動を必死に抑えていた。
 各務さんが五着に降着──それは二位で入線した萌黄が繰り上がりで一着になるということだ。
 自然に浮かんでくる笑みをごまかそうと、きっとオレはヘンな顔をしてたに違いない。ムリヤリ苦い顔を作りつつ、オレは手のひらを前に出した。
 高らかな祝砲のように、萌黄は手を打ち鳴らす。その乾いた音が、オレの笑顔を解放した。
 萌黄は勝ったんだ……例えどんなカタチであろうと、萌黄が勝ったんだ!

 競馬場全体が揺れた──そんな気がした。
 歓声、悲鳴、怒号……はちきれんばかりに膨れ上がったダービー直前のスタンドが、様々な感情のるつぼと化している。
 降着、繰り上がりと来て、勝ち馬は一番人気から最低人気へ一気に様変わり。それに伴って馬券の配当金も二ケタは跳ね上がったんだから、観客は大混乱必至だろう。
 しかし、後検量室はそれ以上に混沌としていた。
「各務騎手が実効四日間の騎乗停止だ!」
 外でどこかの記者が叫んでいる。
 降着処分と聞いたときから、そうなることは誰もがわかっていたはずだ。
 みんなが一斉に各務さんに注目する──
 そこにいつもの強気な各務さんはいなかった。青ざめた顔を苦渋で満たし、唇を強く噛み締めているその顔は、こみ上げる無念と怒りを必死で抑えているようにも見える。
 どんな処分を食らったって平然としていた各務さんが、これほどまでに失望をあらわにした姿を見たことがあっただろうか。少なくとも、オレはない。
 誰もが声をかけることができず、遠巻きに見つめるだけだ。
 さあこれからダービーだ──ってこんなときに騎乗停止を食らうなんて、自業自得とはいえ少しかわいそうになる。今日はまだ乗れるが、メンタルは最悪だろう。来週の安田記念だって乗り替わりだ。
 何よりも各務さんの蒼白な顔が、この事件の異常さを示していた。
「早川騎手。勝利騎手として口取りをお願いします」
 JRAの職員が来て、目の前の萌黄に淡々と告げた。
 むらさき賞の勝者は萌黄だっていうのに、皆各務さんの悲壮な面持ちに気を取られて、誰一人萌黄を祝福する者はいない。シゲさんですら眉をひそめて各務さんを見つめている。
 萌黄は一人嬉々として外に出て行った。優勝馬ラブリーウィッチの関係者と一緒に、ウィナーズサークルで記念写真を撮るんだ。
 その後姿を見送って、口から自然とため息がこぼれた。
 オレは……オレも萌黄に負けたんだよな。うれしくないけどうれしい、そんな複雑な気持ち。
 悔しいけど、完敗だよ。心理戦だって立派な駆け引きのうち。オレはそれにまんまと引っかかってしまったというわけだ。
 腐っても騎手。勝負師ってことか。でも……
「なんで各務さんに勝てたんだろ?」
 つい独り言が口をついて出てしまった。疑問ばかりが浮かんできて、何だか釈然としない。
 そもそも、なんで逃げたんだ? ラブリーウィッチは追い込み馬じゃなかったのか? 
 まあ、元々追い込みでもそれほどいい成績を上げていたわけじゃないので、終わってみれば逃げへの方針転換は見事に成功したわけなんだが。でも、後検量室に帰ってきたときの西藤先生の驚いた顔からして、その指示を先生が出したとは考えにくい。
 たとえあれが萌黄の独断だったとしても、ラブリーウィッチに最後の直線まで逃げ切るだけの力があったとは思えないし、仮にあったとしても、ゴール前でレールフレックスと競り合える力が残るとも思えなかった。
 それなのに、この結果。ラブリーウィッチはほぼ逃げ切ったに等しいし、その上各務さんを斜行という暴挙に走らせて、降着処分に追い込んだ。
 各務さんは一言も発せず、次に騎乗するダービーの用意のため、後検量室を去っていった。
 この人が一番、萌黄に負けた理由を欲しているんだろうな。あの呆然とした真っ青な顔。未だに斜行してしまった理由がわからないといった顔だ。何が各務さんをそこまで狂わせたんだ?
「なあ、カズ」
 オレを振り返ったシゲさんの顔は、妙にサッパリしていた。
「競馬ってギャンブルだよな」
「は? はい」
「ギャンブルって事は、何かしらの不確定要素があるってことだ。そうだろ? 勝ち馬がすぐわかるような賭けなんて成立しないよな」
「まあ……そうですけど」
「天候、馬場状態、馬の調子、枠順、流れ……予測不可能な事柄がいろいろと組み合わさって、予測不可能な結果が出るからこそ、ギャンブルなんだよな。ということはだ、何が起こっても不思議はないってことだ」
「……で、何が言いたいんです?」
 シゲさんの言いたいことは薄々わかっていたけど、一応の敬意を表して聞いてみた。
「萌黄が勝った理由、それは……『わからねぇ』ってことだよ」
 ……さすがは萌黄の兄弟子。言うこと似てきたんじゃねーか?
「そりゃな、軽量ハンデや意外に高速馬場だったこととか、ムリヤリ理由付けしようと思えばできないこともないんだけどな……『わからない』って言ったほうが、なんか萌黄らしくていいじゃねぇか、なあ」
 そんな同意求められましてもね……
「ホント、解説者泣かせな騎手だよなぁ。連中、今頃コメントに困ってんだろうよ……オレがもし解説者になっても、萌黄の出るレースは解説したくねぇな」
「そうですねー。引退が近いですから、そういう心配もしたくなりますよね」
 呆れて軽口を叩くと、すかさずシゲさんのゲンコツが飛んできた。
「誰が『引退近い』ってぇ? 殴るぞコラ」
 って、もう殴ってますけど……
「バカ言うな。オレはまだまだ引退しねぇよ。あんなおもしれえヤツ残して隠居するなんて、そんなもったいねぇことできねぇよ」
「……面白いヤツ、って事には同感ですけどね」
 その言葉にシゲさんは白い歯を見せてニヤリと笑った。
「オレはな、時々思うんだよ──オレたちが自分の力で、馬の底力で、計算し尽くして勝ったと思ってるレースも、実は競馬の神様が指先一つで気まぐれに決めてるだけなんじゃねぇかって……萌黄のレース見てるとな、ホントにそう思えてくるから不思議だよ」
 降ってわいたような勝利に戸惑い気味の関係者の中で、一人輝く笑顔で写真に写る萌黄。
 同期の中ではもっとも遅い三勝目だ。久しぶりの勝ち星を上げた妹弟子の、その晴れ姿を眩しそうに見つめるシゲさんの横顔は、今は亡き愛娘を見つめる父親の横顔のようにも見えて……ほんの一瞬だけ、シゲさんが老け込んだように感じた。
「なあ、カズ」
 シゲさんは萌黄を見つめたまま、オレを呼んだ。
「……各務は四コーナーで何を見たんだろ?」
 今度は質問の意図がまったくわからず、こちらを向いたシゲさんに困惑の表情を返すことしかできなかった。
「四コーナーから直線へ入ったときのあの動き……各務が四コーナーで、何か得体の知れないものに惑わされて混乱させられたように、オレには見えたんだ。各務はあそこで何を見たんだろうなぁ」
「……さあ?」
 シゲさんは自嘲気味にクスリと笑い、そしてかぶりを振った。
「由佳里の幻を見ていた……なんて言ったら、オレもいよいよボケ老人扱いされそうだな」
 でも、そう言いたくなるシゲさんの気持ちは、オレにもわかるような気がした。
 解説不可能な萌黄の勝利──そうとでも言わなきゃ説明がつかない。いや、むしろそれが一番の正当な理由に感じた。
 案外、天国の由佳ねーちゃんが萌黄に手を貸してくれたのかもしれないな。自分を殺した各務さんに天罰を下すために。
 オレはそう思いたかった。
「それはそうと、カズ、いいのか?」
「へっ? 何がですか?」
「萌黄のヤツ、各務とデートするんだぞ」
「あーっ! そうだった!」
「なんでぇ、やっぱり気になるんじゃねぇか」
「い、いや……別に……萌黄がどうしようと……オレには……」
「顔が真っ赤だぞ、カズ」
 冷やかしの言葉に慌てて顔を背けると、ガラス戸の向こうでインタビューを受けている萌黄と目が合ってしまった。オレの気も知らないで、アイツはニコニコしながら手を振ってきやがる。やめろって……
 困ってさらに目をそらすと、モニターの中でダービーのパドックが始まっていた。
 波乱に満ちた前座はもう終わったのだ。ダービーに乗らないオレたちは観客にならなければいけない。
 いよいよ本舞台の幕が上がる。

  □□□

 青空を覆いつくす薄曇りのように、「オレ」の心もモヤモヤとして晴れなかった。
 昨日の日曜日は本当にいろんな意味で疲れた一日だった。
 二週間の騎乗停止。過去に数度騎乗停止を食らったことはあったが、今回ほど落ち込んだ処分はない。
 そしてダービーは惨敗。自分でもあそこまで降着の動揺を引きずるとは思わなかった。僅差での二番人気でありながら、結果は三着。だが先頭から三馬身も離されていては、惨敗としか言い様がない。完全にオレのミスだ。
 怒りの感情は、もうない。ただただ、重くのしかかってくるような疲労感だけが心と身体を支配している。
 むらさき賞で自分が斜行していた──裁決室でパトロールビデオを確認し、見間違うことのない証拠を突きつけられて、オレは自らが犯した大きな過ちに全身の血の気が引く思いがした。無理を承知で突っ込んでいくことはあったが、今回ばかりはそんなつもりは全くなかったんだ。
 あの時、四コーナーで、オレにはただ前しか見えていなかった。後ろを気にする余裕が全くなかった。騎手として、最低限のことができていなかったんだ。
 そして、それこそがアイツの本当の目的だった。
 今となっても、何故あんなことが起きたのかわからない。だが、あの時確かに、オレには由佳里の背中が見えていた。まるで魔法にかかったかのように、あの日の残像をオレは見ていたんだ。
 そんなオカルトな出来事が現実にあるはずがない。そうだ……あれはオレの深い後悔が作り出した、ただの幻影なんだ……
『かーがーみーさんっ! でぇとしましょー! 明日の月曜日、十時にトレセンの入り口で待っててくださいね。あ、そうそう……デートといったら、大っきな花束は欠かせないですよねー。カッコいいスーツ、ビシッと着て来てくださいねー』
 突然、アイツの間の抜けた声が脳内で再生された。だが、不思議とそれほどムカついた気分にはならなかった。だるくて怒る気にもなれないといったところか。
 この言葉にはかなり面食らったが、今更あれこれ文句を言ってもしょうがない。これは自分で蒔いた種だ。イヤでも最後まで付き合うのが道理というものだろう。そう思って、疲れた身体に鞭打ってここまで来たんだ。
 トレセン入り口の前に止めた車の中で、後部座席に置いた大きな花束を振り返り、そしてオレはため息をついた。
 アイツに出会ってから、どうも調子が狂うことばかりだ。
 アイツはひとの世界に勝手に土足で上がりこんできて、派手にかき回していく。オレの気持ちも、周りの気持ちもお構い無しだ。
 そんな傍若無人なヤツなのに、不思議とアイツの周りには笑顔が絶えない。
 みんなバカにして笑ってるだけかもしれないが、ただそこにいるだけで皆を笑いの渦に巻き込むアイツは、他人と馴れ合うことを拒絶してきたオレとは対極の位置にいるようだ。
 己の強さだけがものを言うこの世界──オレはそう信じてきた。強さだけが全て。負けることは生きる価値がないことと同じだ。オレは海外でそれを痛いほど思い知った。
 それなのにアイツは……知恵も力もない、ただ情けと運だけで生き残ってるようなヤツに、オレは負けたというのか。
 忘れようと思っていた悔しさがまたこみ上げてくる。
 それを吐き出すかのように大きく息をついたその時、コンコンと窓をノックする音が聞こえてきた。顔を向けると、助手席側の窓の向こうにアイツ──早川萌黄のしつこいくらいの笑顔があった。
 この笑顔を見るだけで、疲れがドッと増す気がする……仕方なく窓を開けてやると、特有の甲高い声が入り込んできた。
「お疲れ様ですー。乗ってもいいですか?」
 オレが無言で頷いて見せると、早川はドアを開けて滑り込むように助手席に座った。
 初めて見る、休日の私服姿。トレセン内ではいつもジャンパーに乗馬ズボンといういでたちだから、ノースリーブのシャツにミニスカートという姿がやけに新鮮に思える。ゆるく波打つ栗毛の髪も丁寧に梳かれ、ヘルメットや帽子をかぶっていることが多い仕事中とは印象が大きく異なった。
「各務さん、ちゃんと約束守ってくれたんですねー。馬に乗ってる姿もカッコイイけど、スーツ姿もキマってますねー」
 全く、オレの気も知らないでぬけぬけと……こんな格好して待ってると、顔見知りが通るたびニヤニヤしてオレを物見していく。それだけでも苦痛なのに、コイツと一緒にいるところを見られて、下手なことを勘繰られるのは最悪だ。
 行き先を聞くよりも早く、オレは車を出した。
「どこに行くんだ」
「そうですねー……デートと言ったらまずは映画でしょー!」
 そう……それはまさに「デートという名の罰ゲーム」だった。
 映画を見に行ったのはいいが、早川はどう見ても一人で食いきれない量のお菓子を両手一杯に持ち込み、少なくとも上映時間の半分過ぎたくらいの時には既に食べ終えて、周りを唖然とさせていた。しかも食べ物がなくなったその後は映画をよそに高いびきで寝始めるし、一緒にいたオレが一番恥ずかしくて、今すぐにでもコイツを置いて逃げ出したい気分だった。
 映画が終わった途端起きたと思ったら、こともあろうに「お腹空いた」とかぬかしやがる。呆れながらも昼飯に連れて行くと、これまた想像を絶する量を一人で平らげやがった。見てるこっちが気分悪くなるほどの食いっぷりだ。大食漢ぶりはトレセンでも見ていたが、事情を知らない人間がこっちを見てクスクス笑うこの状況には、とてもじゃないが耐えられない。
 ああもう、何もかも投げ出したい……コイツと一緒にいる一分一秒が苦痛だ。
 オレが無視を決め込んでも、早川は意に介せず一人でしゃべりまくってる。とにかく早く終わらせたいオレの気持ちを逆なでするかのように、あっちに行きたい、こっちに行きたいと四方八方連れまわされ、いい加減ウンザリだ。
 一体いつまで付き合えば気が済むんだ……
 美浦に戻って、霞ヶ浦を一望できる公園に着いた頃には時刻は四時を回っていた。まだ四時……このまま夕飯までつき合わされるのかと思うと、本当に発狂しそうになる。一人上機嫌で歩いているアイツの背中を恨むように見つめても、アイツは気づくはずもなく、スキップしながら鼻歌なんか歌いだす始末だ。
 今日は平日ということもあってか、公園は人影もまばらだ。ため息をつき、遥か遠くを見渡すと、霞ヶ浦の向こうに筑波山の輪郭が見えた。
 不意に髪の毛をかき乱すような強い風が吹き付けてくる。湖畔に一人立って、波立つ湖面を見つめていると──ふと気づいた。
 ここは……由佳里と来た場所だ。
 彼女が叶わぬ夢を口にした、あの場所だ。
 そんな大事な場所すら忘れていた自分に腹が立つ以上に、五年の月日の流れを強く感じた。
 もう五年……まだ五年。目を閉じれば、あの日の彼女の言葉がくっきりと蘇ってくる──
『私、ダービージョッキーになりたいんだ』
 たとえ彼女にその力がなかったとしても、彼女の夢を、未来を、オレが断ち切ってしまったことに対する免罪符にはならない。
 オレはこの罪を一生背負って生きていく。赦されてはならない。
 ダービーの前夜、オレは彼女に言ってはならない一言を言ってしまった。
 オレは彼女を「殺した」んだ。
「各務さん」
 オレを呼ぶ声はひどく落ち着いていて、とてもアイツの声とは思えなかった。
 振り返ると、アイツは風に翻る髪とスカートを押さえつけながら、まっすぐな瞳でオレを射抜いていた。
「最後に行きたいところがあるんですけど、一緒に来てもらえますか?」
 妙に改まった物言いに、オレは胸騒ぎを覚えた。

「ここは……!」
 アイツに言われるままに車を向けたところ──そこは墓地だった。
 そう、由佳里が眠る墓地だ。
「何のつもりだ!」
「あ、降りるとき、花束忘れないでくださいねー」
 オレの罵声を無視して、早川は一人先に車を降りる。
 由佳里の墓前に立ったことはオレ自身一度もない。その資格はないと、自分に言い聞かせてオレは今まで過ごしてきたんだ。
「……オレは帰るぞ」
 その呟きにアイツはにこやかに振り返って、言った。
「まだデートは終わってませんよ」
 ……意外にしたたかなヤツだ。オレがここで何を言っても、もはや負け犬の遠吠えにしかならないだろう。
 アイツにどう思われようと関係ない。無視して帰るのは簡単だ。だけど……
 オレは後部座席の花束を振り返った。これは由佳里の墓前に供えるための花? 最初からオレをここに連れてくるつもりで?
 何を考えているのか、何が目的なのか……お前がわからない。
 オレが車を降りるまで見張っているとでもいうのか、早川はオレを見つめたまま動こうとしない。その笑顔が空恐ろしく感じた。
 お前は何を知ってる? その笑顔の下に何を隠してるんだ?
 見えざる力に動かされるように、オレは自らの手でドアを開け、車を降りていた。花束を抱えるとアイツは満足したように頷き、踵を返して先を歩き出した。
 菩提寺に隣接する墓地だ。あまり大きくはない。様々な墓石が立ち並ぶ中を無言のまま進んでいくと、程なく人影が二つ見えた。
 シゲさんと和弥だ。二人ともオレが来ることをわかっていたようで、特段驚いた顔はしていない。二人の前にある墓石──それが由佳里が眠る場所、青木家の墓所だった。
 早川は墓石の前にひざまずくと手を合わせて目を閉じ、静かに黙祷をささげた。
「……どういうつもりだ」
 静けさの中、オレがそう言うと、早川はおもむろに立ち上がり、微笑んでオレを見つめてきた。
「あのですね。由佳里さんときっぱりさっぱり別れてもらおうと思って」
 ……言ってる意味がよくわからない。
「だって、いつまでも前カノのこと引きずってたら、いつまでたっても私と付き合えないじゃないですかー。だから、今日ここでちゃんとお別れしてもらおうと思ったんですー」
 そんなバカバカしい理由で……オレをここまで引きずり出したというのか?
「……ふざけるなっ!」
 頭にきて、オレは持っていた花束を早川に思い切り叩きつけた。
 色とりどりの花びらが千切れ、風に舞う。
 花吹雪の向こうで、アイツは微動だにせず、オレだけをじっと見つめて視線を放そうとしない。
 強く、鮮烈に──瞳の濃藍色は中に潜む闇のように見え、放つ光は闇を切り裂くナイフのようにオレの心臓を鋭く貫いてくる。動けなくなったのはオレのほうだった。
「各務、萌黄をあまり責めないでやってくれ。お前をここに連れてくるように、オレが頼んだようなもんなんだ」
 その言葉に、驚いてシゲさんを見た。
 よく見ると、シゲさんは喪服姿だった。黒いネクタイを締め、手には数珠を握っている。葬式のときに見たのと同じ格好だ。
「各務……オレはな、ずっとお前に謝りたかったんだ」
 その言葉だけで十分だ。その先の話は聞きたくない。
「由佳里の葬式のとき、ケガを押してまで来てくれたお前を追い返してしまったこと……本当にすまなかったと思ってる」
 何もかも聞きたくない。居たたまれなくなってシゲさんに背を向けたが、それでもなおシゲさんはその背中に向かって言葉を続けてきた。
「お前と由佳里のことは知ってたよ。だからこそオレは悔しかったんだ。こんな偶然があってたまるのかと。落馬した由佳里がお前の乗る馬に蹴られて死ぬなんていう偶然が……お前ら二人のことをわかっていたからこそ、やり場のない怒りをどこかにぶつけずにはいられなかった。お前を信頼していたからこそ……あの場で何も言わないお前にぶつけちまった」
 何も言わなかったんじゃない。言うべき言葉がない。あの時は、ただそれだけだったんだ。
 オレが由佳里を殺してしまったことは、紛れもない事実だ。それ以上でもそれ以下でもない。
 立ち去ろうにもオレの前には早川が立ち塞がり、行く手を遮っている。
「オレがお前を変えてしまった。お前を追い込んで、全ての責任を押し付けてしまった……あれはただの事故だってわかってたのにな」
 違う……あれは「ただの事故」なんかじゃない。
「お前の騎乗にミスはなかった。それは明らかなんだ。真後ろを走っていたお前が由佳里を避け切れなくても仕方のない状況だったんだ」
 違う……違うんだ……
「各務……由佳里の墓に手を合わせてやってくれないか。お前が由佳里を殺したわけじゃない。お前が自分を責める必要なんてどこにもないんだ。だからもう……」
「違う!」
 止めずにはいられなかった。
 これ以上、シゲさんの懺悔を聞くことは耐えられなかった。
 こみ上げてくる言葉を奥歯で噛み潰し、拳を握り締め、早川を押しのけてでも立ち去ろうと思った。が、アイツは手を広げてそれを押しとどめ、またも瞳の刃を突きつけてきた。
「──逃げるんですか?」
 逃げる……だと? 
 違う。オレはその懺悔をされるに値しない人間なんだ。懺悔に報うことなど、オレにはできないんだ。
 だがアイツは、胸に突きつけたその刃で、欺いてきたオレの本心を無理矢理えぐり出してきた。
「いつまで由佳里さんから逃げ続けるんですか?」
 逃げ続ける? オレが? 由佳里から?
 オレは逃げてなんかいない。
 オレは由佳里を殺したんだ。彼女に会うことは許されないんだ。
 由佳里はきっとオレを恨んでるに違いない。そんな彼女に今更どんな顔して会えと?
 オレは逃げてなんかいない。逃げてなんか……
 早川──その目でオレを見るな。その目に安らかな笑みを浮かべて、揺るぎない意志を宿して、オレを見つめるな。
 お前のその目が大嫌いだ。
 安穏とした中に誰よりも殺伐とした雰囲気を漂わせているその瞳を見るたびに……思い出す。薄れていた感情を、忘れていた鮮やかな色彩を。
 いつもは無知丸出しで、呆けたように笑ってるだけなのに──それでいて全てを見透かすような濃藍色の瞳。魔力さえ漂うその光に囚われ、目を逸らせなくなる。
 お前が何を知ってると言うんだ? オレに何を話せと?
「……お前に何がわかる? オレの気持ちも、由佳里の気持ちも、お前にはわからないだろう?」
 風が止み、辺りが静まり返る。
 早川は胸についていた深紅の花びらを摘み上げ、それを指で弄びながら言った。
「わかりませんねー。私は由佳里さんでも各務さんでもないですから」
 真実さえも愚弄するかのような、軽い口調。
 乗せられているとわかっていても、我慢ならなかった。
「そうだ……わかるはずない」
 知った風な口を聞くな。
 簡単そうに言うな。
 お前には……お前には絶対わからない!
「五年前……事故の前夜。オレが由佳里に何を言ったか、お前は知らないはずだ。知らないヤツが……わかるはず……ない」
 誰も知らない。父親であるシゲさんも知らない。
 ダービーを翌日に控えたあの夜。二人だけで話したのはあれが最後だった。
「オレは由佳里に言ったんだ。『ダービーに勝つことができたら、結婚してほしい』と」
 由佳里が死ぬ前日に、彼女にプロポーズしていたという事実。
 早川の朗らかな笑顔が、あまりに愚かなオレをあざ笑うかのように思えてくる。
「そしてオレは……由佳里に言ってしまったんだ」
 目を閉じれば今もハッキリと思い出せる──驚きと怒りが入り混じった彼女の美しい顔。
「『騎手を辞めてくれ』と」
 後ろでシゲさんと和弥が息を呑むのがわかった。
 恋人として、同じ騎手として、絶対に言ってはいけない一言。
 あの時はそれがわからなかった。ただただ彼女を愛するあまり、失いたくないばかりに言ってしまった一言。
 皮肉にも、そう告げた翌日に彼女はこの世を去った。
「由佳里は当然反発したよ。デビューしてまだ五年……なかなか勝ち星も上げられてなかったけど、身体中傷だらけになっても、ケガを繰り返しても、それでも由佳里は乗り続けた。一生懸命だった。だけどそんな彼女を……オレはそれ以上見ていられなかったんだ」
 苦しい減量、そしてケガ。文字通り身を削ってまで乗っても、勝利はなかなか得られない。女というだけで正当な評価さえ与えられない。
 そこまでして騎手を続けることに何の意味があるのか──その時のオレにはわからなかった。いや、わかろうとしなかった。
「ダービーの前、むらさき賞で由佳里と一緒になったとき──強がる彼女に騎手として引導を渡してやろうと思った。先頭切って逃げていく由佳里の後姿を見て……オレは必要以上にプレッシャーをかけてしまった。あそこまで彼女を追い込むことはなかったんだ。彼女を傷つけたくなかった、ただそれだけなのに……」
 すぐ後ろでピッタリと張り付いているオレを見たときの、由佳里の驚いた顔。
 人気馬でもないアスピルクエッタを単騎で逃がしたところで、その後オレがどれだけの不利を受けたと言うんだ? 彼女が逃げ切れたとして、それは実力があるという証拠であり、分の悪いレースに勝ったということはむしろ喜ばしいことだったじゃないか。
 無理に競りかける必要なんてどこにもなかった。その『無理』を通したのは、単なるオレのエゴだったんだ。
「由佳里はオレが殺したんだ。騎手を引退させる──ただそれだけの理由で、オレは彼女を追い詰めた。あそこまで距離を詰めなければ、由佳里は落馬しても死ぬことはなかった──すべてはオレのせいなんだ。あれはただの『事故』なんかじゃない。オレが由佳里を殺したんだ!」
 シゲさんの顔も、和弥の顔も見れず、そして早川のあの瞳からも逃げ出したくて、オレは墓石を正面から見据えた。
 艶やかな黒御影石に映りこむ自分の姿。比較的新しい墓石の横にはただ一つ、由佳里の名と五年前の今日の日付が彫り込まれている。
 今日は命日……気づいていたけど、知らないふりをしてきた。
 由佳里に対して後悔と贖罪の念を抱いている──そんなふうには思われたくない。同情はいらない。侮蔑と嫌悪の視線を一身に浴びて生きていくのが、オレにお似合いの生き方だ。
「各務……それでも事実は事実だ」
 シゲさんの冷たささえ感じる声が背後で響いた。
「お前の判断にミスはなかった。あそこで由佳里に競りかけたことも、落馬した由佳里を避けようと手綱を引いたことも馬を左に寄せたことも、お前と同じ騎手としての立場から見れば当然の判断だったんだ」
 シゲさんが深く深く息をつく。
「オレだって、むらさき賞のビデオ何回見たかわからねぇよ。お前を憎めたらどんなに楽かって……お前に非がないか、ビデオを何度も何度も見返したさ。だけど……見れば見るほど、お前には非がないことしかわからなかった。あれは悪い偶然が重なった事故としか言い様がなかったんだよ──由佳里には運がなかった。ただそれだけなんだ」
 運がなかった──そんな言葉で片付けたくない。
「だから各務……もう自分を赦してやれよ。今のお前は痛々しくて見てられねぇ。お前のためにも、由佳里のためにも……由佳里の愛した各務之哉に戻ってくれよ」
 もう戻れない──今更後戻りなんてできるものか。
 昔のオレは死んだんだ。彼女と一緒に。
 どれだけの栄冠を掴もうとも、その輝きはオレに生きている実感を与えてくれない。その重みが教えてくれるのは、彼女の失われた命の重さだけだ。それを集めるために、オレは勝ち続けているのかもしれない。
 何も言えず、黙りこんだオレを殴るように強い風が吹き付けた。木々のざわめく音がまるで陰口を叩くように、オレを責め立てる。
 じり、と、誰かが砂利を踏みしめる音が聞こえた。
「アンタ……由佳ねーちゃんにウソついただろ」
 何を言い出すのか……そう言いかけて、言葉の主に、その意味にギョッとした。
 和弥──?
 振り返ると早川の後ろで、怒りとも悲しみとも取れない和弥の複雑な表情がオレを待ち受けていた。
「ウソ……? なんでお前が……」
「オレにはわかる……わかる気がする。あのときのアンタの気持ちが」
 和弥は目を伏せ、横を向いた。
「昔のアンタは今のオレとおんなじだよ。大した力もないのにいきがって、強がって、好きな女を守ることが男の使命みたいに思ってさ……バカだよな、男って」
 今の和弥と、昔のオレが……同じ? どういう意味だ?
 和弥は自嘲気味に笑う。
「オレたち男が自分の強さを見せつけて得意になってたところで、所詮は女の手のひらの上で転がされてるだけなんだよ。オレたちが太刀打ちできないくらいの芯の強さと器の大きさを、女は持ってるんだから」
 和弥……お前はオレに何を言わせたいんだ?
 和弥はその目に憐れみさえ浮かべて、静かに真実を呟いた。
「なあ、各務さん……アンタ、怖かったんだろ」
 身体が、震えた。
「どんなに辛くても苦しくても絶対にあきらめない、騎手としての由佳ねーちゃんが……怖かったんだろ?」
 和弥のまっすぐな瞳が、オレの心臓を射抜く。
 怖かった──
 何度も何度も、頭の中で反芻するその言葉。
「怖かった……」
 その言葉が解き放つ──背負い続けた罪と罰を。彼女に伝えなければならなかった、本当の想いを。
「オレは……オレはバカだ……」
 喉が震え、言いたくなかった言葉が吐き出される。
「オレは……自分が惨めだった」
 上ずる声にシゲさんが目を見張っていた。
「……男のオレが優遇されて、女の由佳里はその実力さえ認められずに冷遇される。それでも必死にもがいて生き残ろうとする由佳里を見て……自分が情けなかった」
 女性を受け入れようとしない競馬界への怒り、そして苛立ち。しかしそれを感じたのは最初だけで、そんな保守的な男社会にだんだんと慣れていく自分がいた。
 自らを拒絶するような高い壁に、敢然と立ち向かう由佳里。
 壁の向こうの男社会でぬるま湯に漬かり、いつしか「必死」という言葉を忘れてしまったオレ。
「オレは悔しかった。彼女に何もしてやれない自分が、そう思いながら何もしようとしなかった自分が……オレはいつの間にか彼女に対して『諦め』の気持ちすら抱いていたんだ……」
 それでもなお、女であることを誇りに思っていた由佳里。彼女は冷遇される状況にあっても、決してくさることはなかった。
 それなのに──彼女を思いやる「フリ」をして、何も変えようとしなかった自分がいた。
 確かに最初のうちは、由佳里のためにもこの閉鎖的な競馬社会を変えてやろうと息巻いて頑張っていたかもしれない。だけど、オレと彼女の間に立ち塞がる「性差別」という高い壁が打ち崩れることはなかった。
 そのうちにだんだんと意識が麻痺していき、「非力だから」「優しすぎるから」と彼女が女性であることにいろいろな理由をつけて、いつの間にか壁に背を向けた自分を無理矢理納得させてしまっていた。
「成績では勝っていたかもしれない。だけど……気持ちの上では完全に負けていた。騎手として……オレは由佳里に負けていたんだ」
 GIに一つ二つ勝ったくらいで、現状に満足してしまっている中途半端な自分。
 重賞に乗ったことすらないのに、いつも上を見て、果てしない夢に向かって突き進もうとする由佳里。
「由佳里に負けたくなかった……騎手として、男として、負けるのが怖かったんだ」
 勝負師としての意識の差は、オレに口惜しさと苛立ちを与えるのに十分だった。
「だからオレは由佳里を追い詰めてしまった。勝ちを焦る気持ちが、彼女を死なせてしまったんだ」
 彼女のためを思って? 彼女が大事だから? これ以上傷つくのを見たくないから、騎手を引退させる?
 そう思う気持ちでさえ、オレのエゴであり欺瞞だったんだ。
 由佳里はオレのモノじゃない。彼女は彼女以外の何物でもないのに……
 騎手として競馬という厳しい世界を、一人の人間としての充実した一生を、持てる力の限り精一杯生きようとしていた由佳里。そんな彼女をオレは一番愛していたはずなのに──
 喉が詰まったように言葉が震える。呼吸さえままならない。
「オレは……なんてことを……由佳里……あんなに……あんなに好きだったのに!」
 五年の間、ずっと胸の中でくすぶっていた様々な想いを全部吐き出して、最後に残ったのはただ一つ。
 由佳里に会いたい──ただそれだけだった。
 今は骨となり、冷たい墓石の下で永遠の時を過ごしているであろう由佳里。愚かな願いだとはわかっていても、それでももう一度だけ彼女に会いたかった。
 頬に感じる風が妙に冷たい。
 目の前に佇む早川の笑顔が歪んで見える。シゲさんの苦渋に満ちた顔も、和弥のやるせない顔も、何もかも全てが歪んでいた。
 急に、早川の左手が伸びてきた。
 素早いその動きに思わず身をすくめたが、次の瞬間には温かい手のひらがオレの頬を優しく包んでいた。
「泣かないで」
 オレは……泣いているのか?
 涙なんてとうに無くなったと思っていた。由佳里が死んだそのときに、流し尽くしたと思っていた。でもこの涙が誰のためのものなのか、今のオレにはわからない。
「由佳里さん……各務さんが来てくれて、きっと喜んでると思いますよ」
 そんなことはない──否定する言葉が喉に詰まって出てこなかった。
「その後悔の涙も、由佳里さんならきっと優しく受け止めてくれる……好きな男が見せる涙に、女って案外弱いんですよね」
 早川の笑顔が、その穏やかさが、何故か胸に染み入る。
「だけど……過去のことを悔やんでばかりいて、いつまでもグジグジしてるような男は、由佳里さんも嫌いだと思いますよ。そうじゃないですか?」
 そう言われて、オレは思い出した。
 勝てると思っていたGIに負けて落ち込んでいたとき──なかなか立ち直れないオレを由佳里は怒鳴りつけた。柔和な顔をして、案外キツイことを言うもんだなと舌を巻いたっけ。
『落ち込んでるヒマがあったら、とにかく馬に乗りなさいよ! 一頭でも多く調教つけてきなさいよ! 失敗は絶対にムダにはならない。後ろばっかり振り返っちゃダメ。前を向いてさえいれば、失敗だってきっと背中を押してくれるから』
「ちゃんと前を向きましょう。由佳里さんの時間は永遠に止まってしまったけど、そこに由佳里さんを置き去りにしていくわけじゃないんです。振り返れば由佳里さんはすぐそこにいて、後ろからずっと各務さんの背中を押してくれるんですから」
 見下していたはずの早川の言葉一つ一つが、胸の奥深くに突き刺さる。
 終始笑顔で、淡々としていながら温かみを感じさせる早川の語りに、オレはそれまで抱いていた嫌悪の感情も忘れて聞き入っていた。
「前に進む者がすべきことは、いなくなった人のことを忘れないこと。時々は振り返って思い出してあげてくださいね。そして──その人が自分に何を望んでいたか、よーく考えてください」
 由佳里がオレに何を望んでいたか──
『いつまでも優しい各務さんでいてね』
 騎手としてではなく、一人の男としてのオレに望んだ言葉。
 ありきたりかもしれない。だが、星の数ほども交わした言葉の中で、彼女がふと呟いたその言葉だけが鮮烈に蘇ってきた。
 あの頃にはもう戻れない。けれど──もう一度だけ──
「オレはアンタが大っ嫌いだった」
 突然、話を切り出した和弥の声に、オレは我に返って涙を拭った。
「オレ、由佳ねーちゃんのことが好きだったんだ……そのオレから由佳ねーちゃんを奪って、命まで奪ってしまったアンタを……憎んでも憎んでも憎みきれないほどだった」
 ああ──知ってたよ。お前がオレを憎んでいたことは。
 あの頃、敵意むき出しの視線をオレに送っていた和弥。お前の気持ちにはオレも、そして由佳里も気づいていた。
 まだ中学生だったお前を、オレたちは子ども扱いしてたのかもしれないな。だからお前に何も言わなかった。言う必要もないと思ってた。
「でも今なら、オレも騎手になった今なら、アンタがずっと抱えてた苦悩ってヤツがわかるような気がするよ。由佳ねーちゃんに対して感じてた苛立ちも、己の無力さも……オレも同じだから」
 そう言って早川に泳がせた和弥の視線を、オレは見逃さなかった。
 ああ、そうか。「同じ」というのは、そういう意味か……
 昔を彷彿とさせる厳しい視線をオレに送って、そして和弥は毅然と言い放った。
「オレはアンタをこれからも許さない。だけど、自分を赦さないアンタはもっと許せない。この期に及んでまだグダグダやってるようなら、由佳ねーちゃんに代わってアンタをブン殴るからな」
 五年の月日は、幼い感情をただぶつけてきていたお前を、一人前の騎手に、大人の男に成長させたんだな。今のお前を由佳里が見たら、「ただのお隣さん」だったあの頃とは違った印象を持つかもしれない。
 ずっと黙っていたシゲさんも口を開いた。
「なあ各務……由佳里が騎手を辞めたくなかった理由、わかるか?」
 わかっていれば五年も苦しんではいない。あの時、それが何かわかっていれば、オレもまた違うことを言っていたかもしれないのに……
「小難しい理由じゃねぇよ、きっと」
 黙りこむオレを笑って、シゲさんは早川の頭にポンと手を乗せた。
「コイツと同じだ」
 早川と同じ?
「由佳里はお前と一緒に走りたかっただけなんだ。お前が好きだったから……同じ芝生の上を、同じ風を切って、ずっと走っていたかったのさ。きっと」
 それはあくまで推測だ。いや、願望か? 由佳里が死んでしまった今、彼女の胸の内なんて誰も知るはずがないのだから。でも……
 由佳里がオレを愛してくれていたから──そう思ったほうが、オレにとっては幸せなことなのかもしれない。不幸にも生き残ってしまったオレにとっては。
「由佳里の短い一生が幸せだったか不幸せだったかなんて、オレたち他人が決めつけることじゃねぇ。そんでもよ、せめて『幸せだった』と思うことにしようや。それが由佳里のため、そして残されたオレたちのためなんだ」
「シゲさんの言うとおりですよ、各務さん」
 西日を受けて眩しそうに目を細めた早川の表情は、この上なく美しく見えた。
 すべてを慈しむ聖母のような穏やかさでありながら、同時に毒をも喰らう魔女のごとき妖しさ。一瞬のことでありながら目が眩みそうになって、思わず息を呑んでしまった。
「間違いだったと思うことは、もう繰り返さない──由佳里さんに誓って、約束してくださいね。後悔は何度でもできる。だけど……『なくしたもの』はもう『かえらない』んです」
 それは妙に重みを感じさせる言葉だった。
 苦しさに喘いで天を仰ぐと、いつの間にか雲は流れて空は澄み、西の空が夕焼け色に滲んでいた。
 緩やかに流れる風が、涙の跡を乾かしてくれる。徐々に濃くなる紺碧の空に目を閉じると、まぶたの裏に由佳里の眩しい笑顔がくっきりと蘇ってきた。
 オレが一番大事にしたかったもの──
『無くしたもの』はもう『返らない』
 ああ、そうだな……お前の言うとおりだ。そんな当たり前のことを理解するのに、オレは五年もかかったのか。
「私たちはこの世に置き去りにされた人間……『なくしたもの』は見つからない。『かえらない』ものは戻らない……」
 そう言った早川の瞳はどこか虚ろで、奥深い闇をまた見せる。その奥に何があるんだ──中を覗き込みたくなるオレを避けるように、早川は満面の笑みを浮かべてその闇をきらめく光で消した。
「じゃ、そういうことでー、ちゃんと由佳里さんとお別れしてくださいね。後がつかえてますから」
 バカげたセリフにも不思議と腹は立たなかった。早川の頭の悪い言動も、鼻で笑い飛ばすくらいの余裕ができてきたようだ。
 アイツはくるりと背を向け、オレから離れていった。
「シゲさん、カズくん、かーえりーましょ!」
 和弥もシゲさんも黙って頷き、そして相次いでオレに視線を投げてきた。
 それは約束──いや、何を約束したのかさえ定かではない。けれど、オレは二人に向けて小さく頷いて見せた。それで通じると思った。
 二人も身体を翻し、早川と共に去ってゆく。
「──早川!」
 アイツの名前を口にしたのは、これが初めてだったかもしれない。
 アイツは立ち止まり、振り返って間抜けな笑顔を見せた。
「何ですかぁ?」
 オレは何が言いたかったんだろう?
 わからない。わからないけど……何故かアイツを呼び止めずにはいられなかったんだ。
 黙りこむオレに怪訝な顔を見せることもなく、アイツは爽やかな笑みを浮かべてこう言った。
『各務さん、さよなら』
 由佳里──? 
 違う。あれは早川萌黄だ。けど、あれは……あの声は……
 息を呑み、たじろぐオレを捨て置くように、アイツはまた背を向けて去っていく。その姿が見えなくなるまで、オレは早川の背中をじっと見つめていた。
『さよなら』
 彼女に言えなかった言葉、聞けなかった言葉。
 由佳里はもういない──
 紛うことなきその事実を、過ぎ去った五年の月日を、去り行く背中がはっきりと教えてくれた気がした。





inserted by FC2 system