芝生の魔女〜萌える季節の約束〜


エピローグ そして魔女は笑う

 あんなことぐらいで、各務が劇的に変わるだろうなんて都合のいいことは考えちゃいねえ。急に変わられても逆にコワイしな。
 けど、昨日の出来事が各務の心境に少しでも変化をもたらしてくれれば──「オレ」はそう思わずにはいられなかった。
 だから、朝の調教時間に、萌黄のいない頃合を見計らったかのように西藤厩舎の事務所に現れた各務を見て、オレはうれしくなっちまった。
 元々はこの厩舎に所属してたんだ。もっと気楽に立ち寄ってくれればいいと思うんだが、フリーになってからはこの厩舎を避けているような雰囲気があった。うちの厩舎の馬に乗ることはごく稀で、西藤先生とも仕事の上での最低限の付き合いしかなかったようだ。
 その各務が自分からやってきた。しかも、来週乗る予定だった新馬戦や条件戦の何鞍かを、萌黄に任せると言ってきたんだ。確かに各務は二週乗れなくなっちまったから、その分の乗り鞍に空きが出るわけだが、それをわざわざ萌黄を指名して乗らせると言うのは、各務なりの萌黄に対する感謝の気持ちの表れだったのかもしれない。
 相変わらずの仏頂面ではあったが、淡々とそう告げた各務にはオレも先生も思わず頬が緩んじまったよ。
 本当にそれだけ言って帰ろうとした各務の後を追いかけて、オレも外に出た。
「各務!」
 呼び止めると、各務はいつもどおりの厳しい表情で、オレを睨みつけるように見つめてきた。
「昨日は……ありがとな」
 そう言うと、各務の表情が少しだけ緩んだ。
 昨日、オレたちが帰った後に各務がどうしたのかはわからない。けど、萌黄が言ったように、各務は由佳里への想いに一応のケジメをつけられたんだとオレは信じたかった。
「なあ各務、今度ウチに来てくれないか」
 そう言うと、各務はびっくりしたように目を見張った。
「ウチの仏壇にも手を合わせてもらいたいってのもある。ウチのヤツもお前の顔見たそうだったしな。でもそれだけじゃないんだ」
 本当の理由がなかなか言い出せない自分が少し気恥ずかしい。
「あのな……近いうちに由佳里の部屋を萌黄に貸そうかと思ってるんだ。アイツ、放っといたらトンデモねぇ食生活してっからよぉ、少し管理してやんねぇとダメだと思ってな」
 昨日の出来事は、オレにとっても五年の月日にケジメをつけるいい機会になったんだ。
「実を言うとな……由佳里の部屋、なかなか片付けられなかったんだ。なんていうか、踏ん切りがつかなくてよ……心のどこかで由佳里がまだ生きているような気がしてたのかもしれねぇ」
 生前のままの、きれいに整理整頓された部屋を見るたびに、いつか由佳里がひょっこり帰ってくるような気がして、オレも母さんも手をつけられなかった。
 由佳里はもういない。わかっているのに──そんな気持ちに踏ん切りをつけてくれたのは、昨日の萌黄の言葉だった。
『亡くした者はもう帰らない』
 萌黄を気に入ってる母さんも賛成してくれた。母さんもきっとキッカケが欲しかったんだろうと思う。
 各務が変わったように、オレも変わっていくんだ。
「そういうことでな、遺品整理、手伝ってくれよ」
 各務は横を向いて目を逸らしたが、否定はしなかった。それで十分だった。
 大丈夫、各務はきっと来てくれる……
 カズには悪いが、オレとお前を変えるきっかけをくれた萌黄を、ほんの少しだけ応援してやりたい気分になった。
「アイツ……萌黄っておもしれぇヤツだろ?」
 各務は困ったように口元を歪めていた。同意したいけどハッキリと口に出せない、ってとこか。
「一応萌黄の名誉のために言っておくが、アイツはただヘラヘラしてるだけじゃないんだぜ。ちゃんと人並みに、いや、男以上に努力してるよ。けど、アイツはその努力を外に見せないタイプなんだ」
 アイツは絶対に「辛い」とか「苦しい」とか言わない。はたから見ていて、それがもどかしく感じるときもある。もっと自分の感情を素直に吐けよ、と。
 普段はバカなことばかり言ってるのに、そういうときに限ってアイツは何も言わず、ただ笑ってるだけなんだ。
 その笑顔が更なる誤解を招くことだって多々ある。「ふざけてる」「やる気がない」そう取られることもしばしばだ。けど本当はそうじゃねぇ。
「あのバカはバカなりにアタマ一生懸命使ってレース研究してるし、誰よりも調教の数こなしてる。元々のバカ力に輪をかけて鍛えちゃったもんだから、今じゃ誰も腕相撲勝てないってウワサだぜ」
 みんな、アイツのあの笑顔にダマされてるんだ。まあ「汗水たらして必死こいて頑張ってます」ってミエミエなのも、アイツのガラじゃないけどな。
 別に答えを期待していたわけじゃないのに、意外にも各務から言葉が返ってきた。
「……アイツは何者なんですか?」
 月並みな疑問だ。萌黄もここいらじゃ結構な有名人になってると思うんだが、昨日までの各務にとっては、萌黄は興味を持つ価値もない人間だったらしい。
 まあ、こういう風に言うってことは、やっぱり各務は知らないようだな。
「萌黄ってホントおかしなヤツだよな。何考えてるかわからねぇし、アホみたいに大食いだし……親の顔が見てみたいぜ」
 各務がコクンと頷く。そうくると思った。
「アイツな……生まれてすぐ、親に捨てられたんだ」
「えっ……」
 各務の精悍な顔が色を失った。これにはさすがに驚かないわけには行かないだろうな。
 自分の気持ちを素直に顔に表した各務の反応を確かめて、オレは安心して話を続けた。
「アイツが競馬学校卒業したときにな、養護施設の恩師って人が来て話してくれたんだ。今から十九年前……晩春の暖かい夜だったそうだよ。公園の芝生の上に、カゴに入った生後数日の赤ちゃんが捨てられていたのは」
 実際に見たわけでもないのに、その光景はありありと目に浮かぶようだ。
 街灯に照らされた柔らかい芝生の上、ゆりかごの中で毛布にくるまれて元気よく泣いている赤ちゃん──親に捨てられながら、それでも今ここで精一杯生きている、その証を示すかのように大きな泣き声を上げていた幼子は、十九年経って立派な競馬騎手に成長した。
「八方手を尽くしたが、結局親はわからずじまい。『萌黄』という名は当時の市長が芝生の色から取ってつけたそうだよ」
 芝生の色と同じ名を持つ者が、馬に跨り芝生の上を疾走する──これもまた偶然なんだろうか。いや、必然なのかもしれんな。
「いつの頃からか、アイツは笑った顔しか見せなくなったそうだ。イジメられても何されてもただただ笑ってるだけでよ、どこかにアタマぶつけたんじゃねぇかって、先生は大層心配したらしい。ま、結局どこも悪くなくて、アタマ悪いのも元からってことで落ち着いたんだけどよ」
 笑うオレに対して、各務の表情は浮かなかった。こいつなりに、萌黄のことを心配してるんだろうか?
 確かにな。泣かない、怒らないといった感情の欠落は、子どもにとっては重大な問題だ。それが病気じゃねえってことは……
「オレが思うに……周りの人間に同情や憐れみの感情を持って欲しくねぇから、萌黄はいつも笑って見せてるんじゃねぇか。親に捨てられたアイツに『かわいそう』というのは簡単だ。けどそれだけじゃ何にもならねぇ。アイツのプラスにはならねぇんだ。だから──アイツは何があっても決して泣かず、怒らず、周りの人間が少しでも楽しい気分になれるようにいつでも笑ってるんじゃねぇか」
 萌黄は競馬学校に入るまでの十五年を養護施設で過ごしてきた。そこに優しい仲間や先生がいたとしても、「親に捨てられた」という事実は萌黄をずっと苦しめていたと思う。学校でイジメられたこともきっとあっただろう。
 だからこそだ。他人に対してその事実を矛先にしないように、その事実を盾にしないように、萌黄はあえて全てを「笑って誤魔化してる」んだ。
 その笑顔の裏には、オレたちが図りしえない悲壮な覚悟が秘められてるんだと、オレは思う。
「萌黄はお前に同じものを感じてるんだと思う。動物的なカンていうか……人の考えてることには異常にハナが利くとこがあるからな」
 萌黄は言った。
『私たちはこの世に置き去りにされた人間……「なくしたもの」は見つからない。「かえらない」ものは戻らない……』
 お前もオレも、そして萌黄も、同じ「置き去り」された人間だったということさ。
「でもそれは同情とは違う。同情することだけが優しさじゃないってのを、アイツは誰よりもよくわかってるからな。まあ、あのバカっぷりと食いっぷり見てたら、そんな小難しいこと考えてるようには見えないんだけどよ。でもホント見てて飽きないヤツだぜ、アイツは。そのうちなんかデカイことやらかしてくれそうで、オレは楽しみなんだよ」
 ようやっと、各務の顔に笑みが浮かんだ。唇の端を吊り上げるだけの皮肉っぽい笑みだが、それが逆に今のお前の心境を良く表してるよ。
「……デカイことって?」
 年寄りを小バカにしたような、各務の物言い。でもそれは、ほんの少しだけ昔に戻った気分にさせてくれる。
「例えば……GI取るとかよ」
 各務は何かを言いかけて──口を閉じた。
 ハッキリと否定しないところが、お前が変わった証拠なんだな。いや、ホントは否定できないだけなんだろ?
「アイツがお前のどこに惚れたのかはわかんねぇけど、顔だけじゃないことは確かだと思うぜ。ましてや同情じゃねぇ。純粋な憧れって言うにはちょっとバカすぎるな。それでもお前を目標に厳しい訓練を耐えてきたんだ。萌黄を助けてやってくれとまでは言わんが、せめて一人の人間として、騎手として、認めてやってくれな」
 渋々、という顔で各務は頷いた。
 競馬という競争社会において、弱い者は真っ先に淘汰されるべき──お前のその考えは間違ってないと思うぞ。
 萌黄に優しくしてやる必要なんかこれっぽっちもねぇよ。むしろオレたちの手でもっともっとビシビシやって鍛えてやるべきだ。
 だがそれは、嫌悪であっちゃいけねぇ。
 オレは見てみたいんだ──
 早川萌黄という一人の女性騎手が、この厳しい世界でどこまでやれるのかを。お前も見たいと思わねぇか?
 由佳里に対して負い目があるというのなら、頂点に立つものとしてしっかりと見届けてやるべきだ。それが由佳里への、本当の贖罪になる。
 ……っと、随分長話になっちまったようだ。
「呼び止めて悪かったな。萌黄と顔合わせるのが嫌だから、アイツが調教でいない時間狙って来たんだろ? さっさと逃げたほうがいいぞ。そろそろ戻ってくる時間だ」
 その引きつった顔は図星ってカンジだな。お前もカズに負けず劣らず顔に出るタイプだよ。
 からかってる場合じゃねぇな。オレは各務に背を向けて一歩踏み出した──が、ふと、どうしても聞きたくなってしまった。
「なあ各務……お前はどう思う?」
 背中越しに聞くと、各務は「は?」と素っ頓狂な声を上げた。
 ま、これだけじゃ確かにワケわかんねえ質問だよな。
「さっきのお前の質問だよ。お前は、萌黄を何者だと思う?」
 禅問答みたいだな。答えは一つのようで、実は無数に存在する。
 オレは顔だけ振り返って、各務に向けてニヤリと笑って見せた。
「ただの騎手だと思うか?」
 これも正解だろう。けどこれだけが正解じゃない。
 各務もまた、唇の端に笑みを浮かべて言った。
「ただの騎手じゃなかったら……あれは『魔女』ですよ」
「……違えねぇな」
 各務の答えに、オレは思わず笑い声を上げた。

  □□□

『カズくん。あのね、私捨て子だったんだ』
 学校時代、萌黄にいろいろとしてやったのは、別にアイツの過去を聞いたからじゃない。同情する気もなくなるようなバカ頭だったから、ホント見てられなかっただけなんだよ。
 とはいえ、一度だけアイツに聞いたことがある。
「自分を捨てた親を恨んでいないのか」と。
 弾みで出てしまったような言葉だったから、ちょっと気まずかったんだけど、意外にもアイツは笑って答えてくれた。
『べーつにぃ。顔も覚えてないような人のこと、恨んでもしょうがないでしょ。そんなムズカシイこと考えてたら、おなか減っちゃうよー』
 萌黄らしい答えだと思ったよ。お前は脳みそ使っただけで腹減るヤツだもんな。
 けど、それで「オレ」も吹っ切れた。
 絶対に萌黄を「かわいそう」と思わない。そう思うことは、お前を惨めにするだけだからな。
 食堂で朝食を済ませた後、スポーツ新聞の一記事に目を留めながら、オレはそんなことを思い出していた。
「カズくん、おはよー」
 目の前に、急に萌黄が現れた。
 手にしたトレイにはいつもどおりの山盛りのご飯とおかず。最初のころは食堂のおばちゃんも萌黄の食いっぷりにはかなりビビッてたが、最近じゃ慣れたもんだ。萌黄が顔見せただけでご飯をてんこ盛りにしてくれる。
 今日は追いかける相手がいないからか、少しは落ち着いて見えるな。トレセン内もいつもより静かなような気がする。
「何見てるのー?」
「見りゃわかるだろ。新聞だろーが」
「でもこれ、昨日の新聞だよー」
 その通り。一面にダービーの結果がデカデカと載っている、昨日の月曜日の新聞だ。昨日は休みだったから、読みそびれた分をわざわざ出してきて読んでるんだよ。さらりと流すつもりだったけど、目を引く記事があったんでじっくりと読んでたんだ。
「なんか面白いものでも載ってた?」
「ん……まあな」
 萌黄はご飯を口に押し込みながら、テーブルに広げた新聞のオレが指差した記事を覗き込んだ。

【フリーライド三着、各務騎手は魔女に惑わされた?/穴党・橘のダービー回顧】
 二番人気だったフリーライドは直線で追い出すのが遅れ、三馬身差の三着に敗れた。
 鞍上の各務騎手は直前の九レースむらさき賞で斜行し、一位で入線しながらも五着に降着となって四日間の騎乗停止処分を受けていた。『むらさき賞のショックを引きずってしまった?』という記者の問いに対して、各務騎手は一言『そうです』とだけ答えている。
 普段は冷静沈着な各務騎手が見せた、珍しく取り乱したようなむらさき賞の騎乗。追い込み馬だったはずのラブリーウィッチが仕掛けた「逃げ」という奇襲戦法に慌てたのだろうか。だが各務騎手はそれについては何も答えてくれなかった。
「愛すべき魔女」という名の牝馬と、奇襲を仕掛けた女性の早川騎手。各務騎手はこの「魔女」たちに惑わされてしまったのかもしれない──

「魔女って……私のこと?」
「お前以外に誰がいるんだよ」
「えー、魔女ってなんかヤダー」
 そう言って、萌黄はごはん粒を飛ばした。飲み込んでからしゃべれよ。
「なんかもっと他に言い方あると思うんだよねー。女神とか天使とか美女とか処女とか鬼女とか……」
 いや……最後なんか違うし。
 魔女ねぇ……魔女って言うと、なんかもっと妖艶な感じがするんだけど、コイツはそんな感じじゃねーよな。どっからどう見てもマヌケな顔だし。大口開けてヒレカツにかぶりついてる女のどこが魔女なんだよ。
 でも……言い得て妙だな。
 アホっぽいツラして人を油断させておきながら、隙を見つけては巧妙に人の心に潜り込み、引っ掻き回して、胸の内に沈んだ「澱」を吐き出させる。それは知らず知らずのうちに魔法にかけられたかのような──
 可愛くて愛嬌があるだけじゃない。その実狡猾で、不気味ささえ感じさせる萌黄を形容する言葉に、これ以上のものはないだろう。
 萌黄は恐ろしい女だ。
 昨日、オレたちは萌黄によってあの場に集められた。最初呼び出されたときは「何でオレが」と思ったけどな。由佳ねーちゃんの話なら、シゲさんと各務さんだけで話すことだろうと考えてたんだけど、でもそれは間違ってた。
 萌黄は各務さんの懺悔をオレに聞かせたかったんだ。その上で、各務さんが抱えてた本音を引き出す役をオレにさせたんだ。
 各務さんは隠し通してきたウソを、シゲさんは各務さんに対する謝罪と救いの気持ちを、そしてオレは由佳ねーちゃんに抱いていた想いを、あの場でそれぞれに吐き出した。
 男三人がそろわなかったら、そんなことにはならなかっただろう。由佳ねーちゃんにまつわるオレたちがあそこで雁首そろえたからこそ、互いに気持ちを吐露し、理解することが出来たんだ。
 萌黄は……オレの想いに気づいてたんだろうか?
 気づいてたんだろうな。だからこそああしてオレを呼んだ。各務さんとシゲさんの間で、複雑になってしまった感情のもつれを解く糸口として。そしてオレたち男三人の問題を、オレたち自身の手で解決させるために。
 昨日の本当の立役者は、各務さんでもシゲさんでもオレでもなく、萌黄だったんだ。
 オレたち男どもは、萌黄の思惑によって動かされていたに過ぎないんだ。それが何より恐ろしい。
 あのバカ頭のどこでそんな難しいことを考えてるのか……いや、もしかしたら、その頭悪そうな言動さえ演技なのかもしれない。本当はもっと……
 ……そんなこと、どうでもいいや。
 今、オレの目の前で、萌黄はごはんを口いっぱいに頬張りモゴモゴさせている。それをゴックンと飲み込んだかと思うと、頬にごはん粒をつけたままニッコリと笑った。
 何だっていいじゃないか。萌黄が何者だろうと、何を考えてようと構わない。
 例え魔法で操られていたとしても、お前に見向きもされないよりはマシだ。手の上で踊らされてると言うのなら、今は思う存分踊ってやるよ。そしていつかは……
「ごちそうさまー」
「早っ! もう食ったのかよ!」
 萌黄を見ると、確かに山盛りだった食事がきれいになくなっている。恐るべし、この食欲。まあ、お前の食欲が普通になっても、それはそれで心配になるんだけどな。
 連れ立って外に出ると、どこまでも続く快晴の空がやけに眩しかった。
「カズくん、じゃあね。厩舎に戻らなきゃ」
 萌黄は手にしていたキャップをかぶり、そう言ってオレを見上げた。
 大きな瞳に映る、オレの姿。曇りのないその瞳に見つめられると──ずっと隠してきた本当の気持ちを、言いたくても言えないその想いを、何もかも全て見透かされそうで怖い。
 過去という重荷を背負いながらも、自分なりに厳しいこの世界を精一杯生き抜こうとしている萌黄。
 ガンバレ──そう言うのでさえ気が引けるほど、傷だらけの細腕がお前の努力をハッキリと表している。笑顔に隠されたその苦労に誰も気づかないかもしれない。けど、オレだけは……
「……萌黄」
 名をつぶやくと、微笑んでくれた。
 降り注ぐ初夏の陽光と同じくらい、眩しい笑顔。
 萌黄……オレはお前のその笑顔を守りたいよ。いつの頃からか、ずっとそう思い続けてきた。
 たとえその微笑みが各務さんに向けられたものだとしても、オレはお前を守りたい。お前の笑顔を、ずっとずっと大事にしたいんだ。
 お前が……好きだから。

  □□□

 駐車場に止めた愛車のドアに手をかけたその時、後ろから聞きたくなかった声が聞こえてきた。
「各務さーん!」
 ギクリとして振り返ると、遠くから走ってくる帽子姿の早川が見えた。思った以上にシゲさんと話し込んで時間を食ってしまったらしい。「オレ」は一瞬逃げ出そうかとも思ったが、だからといってアイツから逃げ切れるとも思えなかった。
 仕方なく来るのを待っていると、アイツはオレの目の前で立ち止まり、乱れた息をわずかばかり整えただけですぐに顔を上げた。
「各務さんが乗り鞍譲ってくれたって聞いて、お礼が言いたくてすっ飛んできたんですよぉ。ありがとうございますー」
 譲ったんじゃない。オレが乗れなくなったから、その代わりを頼んだだけだ。
 お前に任せた馬は、乗り役がオレでなくてもよかった馬ばかりだ。特別強いってわけでもない。
 別に礼とかそういう気持ちじゃない。お前がどこまでやれるか、見てみたくなっただけだ。ほんの少し、チャンスを分け与えてやっただけなんだ。
 このチャンスをものにできるかどうか、それはお前の腕にかかってる。この先もこの世界で生きて行きたいのなら、ここでお前の持つ最大限の力ってヤツを見せてみろ──
 ……なんてことをコイツに直接言えるわけがない。何を勘違いされるかわからないからな。
 お前を見つめたまま何も言わないオレを、早川はきょとんとした丸い瞳で見つめ返している。昨日のような切れ味の鋭い光は、今は見えない。その代わりに見える自分の姿に魅入って──オレは思わぬ言葉を口にしていた。
「お前は……なぜ騎手になろうと思ったんだ?」
 なんでそんなことを聞いてしまったんだろう。そんなこと聞いたって何の得にもならないのに……
 でも、聞いてみたい気持ちがずっとあったのも確かだ。何がそこまでお前を突き動かしたのか──オレへの憧れだけが、ここまでたどり着くだけの原動力になったとは信じがたい。
 聞いてから後悔して迷うオレを笑うように、早川は口元を緩めた。
 帽子を脱ぎ、クセだらけの髪を揺さぶる。髪の毛の栗色が光を反射してきらめいた。
 もう一度オレを見つめた目は、光の届かない深海のような色をして、静かで、穏やかで、そして何より不気味だった。
「あの時も……」
 ひどく落ち着いた声。早川らしくない。
「各務さん、泣いてたでしょ?」
 あの時? いつのことだ?
「四年前のダービー。各務さんが初めて勝ったダービーですよ」
 そんなバカな。あの時、オレは泣いてなんかいなかったはずだ。心にあったのは喜びでも悲しみでもない、ただ虚しさだけだった。
「インタビューでテレビに映ってた各務さん、泣いてましたよ。キレイな、透明な涙流してた……私にはその涙が見えましたよ。誰も信じてくれなかったけど」
 お前には、お前にだけはそう見えていたと言うのか?
 ああ……そうだったのかもしれない。
 お前の言うとおり、オレはあの時泣いていたのかもしれないな。虚しさに押しつぶされそうになって悲鳴を上げた心が、由佳里の命と引き換えに手に入れたダービージョッキーの称号のその重みが、悲しむことを忘れた「フリ」をしていたオレに透明な涙を流させていたんだ、きっと。
「あんなキレイな涙流す人見たのは初めてでした。だから私、その人──各務さんのこと、もっと知りたいと思ったんです。それまでは競馬のこと全然知らなかったけど、あのダービーを見て、各務さんを知って、この人と一緒に馬に乗ってこんな大観衆の前を走ってみたいって……そう思ったから騎手になりました」
 早川らしい答えだと思った。単純で、それでいて人の心を掴む言葉……ってなんでオレはこれに納得してるんだ? 魔女め……知らず知らずのうちに人を欺き、誑かすその手を二度と食うものか。
 全く、侮れない女だな。あまりのバカっぷりに知識も思慮も浅い人間かと思っていたら、垣間見えた中身は意外にも、暗く先の見えない奥深さを感じさせる。
「各務さん」
 由佳里とは似ても似つかない。容姿も声も話し方も何もかもが違うのに、瞳に宿る光だけはやはり由佳里を思い出す。初対面から感じていた不快感はこれが原因だったんだろう。正体がわかれば、怖がるほどのものでもない。
「私、ダービージョッキーになります!」
 騎手なら誰でも口にする夢。誰もが目指す道だ。
 そんな当たり前のことなのに……何故こんなにも心を揺さぶられるのだろう。
「各務さん。私がダービージョッキーになったら、私と結婚してくれますか?」
 いつもなら即答してるだろう。「バカなことを言うな」と。
 お前がダービーを勝てる確率は限りなくゼロに等しい。女性騎手がGIはおろか中央の重賞すら勝ったことのない現実を見ればそれは明白だ。
 男にとっても簡単なことじゃない。一年に一回、ダービーに出られる馬が十八頭しかいないのと同じく、騎手だって出られるのは十八人しかいない。
 ダービーに乗る──それだけでもお前にとっては至難の業だ。そしてそれに勝つとなったら、並外れた努力の上に、さらに並外れた運が必要になるだろう。努力だけでもダメ、運だけでもダメ。馬だけでも、人間だけでも勝てない。それが競馬なんだ。
 だけど……
 もし、万が一、お前がダービーに勝つなんていう奇跡が起きたとしたら──

『芝生の魔女』
 それは後にあだ名される、早川の異名。
 数々の番狂わせで超大穴万馬券を次々と生み出し、評論家と予想屋を震撼させ、穴党と観客を魅了する華やかな騎手の愛称。
 後世に残る大偉業を成し遂げ、驚愕と畏怖をもって讃えられる名騎手の称号。
 魔女は走る。青々と茂る芝生の上を、箒ならぬ美しきサラブレッドに跨って。
 魔女は駆ける。眩しい初夏の日差しを一身に浴び、艶やかにたなびく栗毛の髪を翻して。
 魔女は羽ばたく。府中の最後の直線、疾駆する馬を、ムチを手にただひたすらに追って。
 魔女は吼える。勝利に沸き立つスタンドを煽るかのように、細い腕を高々と掲げて。
 まるで芝生の上の歌劇だ。華やかな舞台、歓喜する聴衆。ウイニングランはさながらカーテンコールか。
 劇が終わり、誰も彼もが口々に叫ぶ。勝者の名を、魔女の名を、舞台の主役を──

 儚い夢──それは濃藍色の瞳が見せた、空しい幻だ。だが……
 こんな夢も悪くないと思った。出来ることなら見てみたいとも思った。
 もし、この夢が現実になるその時が来たら──そのときはオレのお前に対する感情も変わるかもしれないな。お前の起こす奇跡に心を動かされるかもしれない。
 だから、今は否定も肯定もしない。それを答えにしよう。
 オレの意図を汲んだのかどうかはわからないが、早川はペコリとお辞儀をし、そして背を向けて厩舎へと続く道を歩いていった。
 朝日の当たる小さな背中。埃っぽい地面に短い影が差す。現役の中でも一番背が低いらしい。その背中に負う過去は誰よりも重く、辛いものだというのに……
 なあ、早川──お前はその瞳に、どんな闇を映してきたんだ? その笑顔の下に、何を隠してる?
 お前は何者なんだ?
 心の中で問いかける。アイツに聞こえるはずなどない。
 だが──早川は足を止めた。そしてゆっくりとこちらを振り返る。やっとお前を知り始めた、知りたいと思い始めたオレの想いに応えるかのように。
 そして魔女は、妖しく微笑んだ。
                       −了−




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