OPEN


「酒井准教授(せんせい)、キーホルダー落としましたよ」
 女性の声に酒井が振り返ると、教え子である谷村葵がそこで微笑んでいた。久しぶりに見る顔は少しやつれていたが、芯の強さを思わせるその瞳は生気に満ちている。
「谷村君……もう大丈夫なのか?」
 彼女の親友が殺人事件に巻き込まれたのが一月前。ショックの大きかった彼女は大学をずっと休んでいた。
「はい。先生にもご心配をおかけしました」
 彼女はしゃがみこみ、廊下に落ちた鍵の束を拾い上げた。
 学内のあちこちの鍵を預かるため、キーリングにぶら下がる鍵の数は十を優に超えている。三十も半ばを過ぎ、白衣姿に哀愁が漂い始めた男が持つには不似合いな猫のマスコットは、鍵に埋もれて薄汚れていた。
「犯人、捕まってよかったな。この一月、君も大変だったろう」
 酒井がそういうと、葵は意味ありげに唇の端を吊り上げた。
「本当はね、もっと早くに立ち直ってたんですよ」
「じゃあなんで……」
 彼女は白く柔らかそうな掌にキーホルダーを乗せ、まっすぐこちらに差し出した。
「酒井先生に、心配してもらいたかったから……かな」
 キーを取る指に触れた彼女の掌が、ひどく熱く感じる。酒井を見上げるその瞳も、熱を持って潤むように見えた。
「休んでた分のレポート、今週中には出しますから」
 驚く酒井から逃げるように、彼女は微笑を残して遠ざかって行った。
 まったく──したたかなものだ。苦境ですら味方につけて、この胸の内の鍵を開けていこうとする。
 葵の後姿を見つめて、酒井の顔に苦笑が浮かぶ。彼女の温もりが残るキーホルダーを握り締め、自らもまた足を進めた。





 歩きながら、酒井は鍵の一つを取り出した。
 そのすぐ横の鍵に小さい血痕が付着していたことに、彼女は気づかなかったらしい。よくよく見ればそれが親友の家の鍵で、自分の持つ鍵と同じものもその中にあったとわかったかもしれないのに。



 今夜──君の部屋に行くよ。




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