私の王子様                      



 鉛色の空が随分と低く感じる。
 天気予報は曇りのち雪。何年かぶりのホワイトクリスマスになるかもしれないと、テレビのお天気キャスターは楽しそうに言っていたが、騎手としてはレースが終わるまで降って欲しくないというのが本音だ。芝生の上に雪なんか降ったが最後、滑って危なくてしょうがない。
 今年最後の競馬開催日。ここ中山競馬場は超満員の観客で埋め尽くされていた。皆、有馬記念を見に来た観客だ。ファン投票で出場馬を決めるこのレースは、オールスターのようなお祭り的要素も含んでいるのだ。
 有馬には乗らない藍子も、大観衆を前にしてはいつもと同じというわけにはそうそういかない。人の目が多い分、緊張も大きくなってしまう。
 今日はここまで三レース乗って、六着、八着、ビリとイマイチ調子が上がらない。残すは第九レース、フェアウェルステークスのみだ。
 パドック(馬の下見所)を回る最後の一周。デビュー当時から付き合ってきた馬・ビーアズワンの鞍上で、白と紫の勝負服に身を包んだ藍子は深い深いため息を吐いていた。
 三、四頭前に見える黄色地に黒縦縞の勝負服──楢原の背中だ。跨る馬・ライディングハイは落ち着いていて、状態もよく見える。
 パドックに出る前、今日初めて楢原に声をかけられた。
『楽しみにしてるよ』
『今日は絶対……絶対に私が勝ちますから!』
 何故もっと素直になれないんだろうと自己嫌悪に陥るが、楢原の言うがままに負けてしまうわけにもいかない。
 しかしながら、藍子は未だに悩んでいる──勝ちたいのか、勝ちたくないのか。心を決めかねたまま、ここまできてしまった。
 足元のビーアズワンは上り調子だ。青鹿毛の毛艶も良く、気分も落ち着いているようだ。
 フェアウェルステークスはダート(砂)の一八〇〇メートル。時速七〇キロで走るサラブレッドの背に跨り、僅か二分弱で駆け抜けてしまう。
 藍子はダートレースとの相性がいい。一着を取ったレースはすべてダートだった。
 だがこのレースの一番人気は楢原のライディングハイ。藍子のビーアズワンは七番人気と後れを取っている。向こうのほうが良い成績を残しているので、当然と言えば当然だが。
 パドックを出て、本馬場へと向かう。暗い地下道を抜けた先がコースだ。
 本馬場へと出た瞬間、地響きのようなものすごい歓声が上がった。このレースの次が有馬記念であるだけに、観客のテンションもかなり高くなっている。
 コースに出ると、ビーアズワンは解き放たれたように軽快な脚を見せた。頬で風を切ると、先程とは比べ物にならないくらい空気が冷たい。雪が近いというのは本当のようだ。
 スタートゲートの前に馬が集まり、奇数番からゲートに収まっていく。五番のビーアズワンもおとなしくゲートに収まり、スタートの瞬間を待つ。
 藍子は楢原に顔を向けた。
 鋭い目つき、固く結ばれた唇。まっすぐ前だけを見据えたその顔はまさに勝負師の顔だ。
 藍子はようやく心を決めた。
 萌黄の言う通りだ──ムズカシイことは勝ってから考えよう。今はただ、ゴール目がけてひたすらに馬を走らせればいい。それが騎手の、自分のなすべきことなのだから。
 最後の馬が入り、台の上のスターターが赤旗を振る。一呼吸おいて、ゲートが開いた。
 馬たちが一斉に飛び出す。砂に蹄を潜らせ、深く沈みこんだかと思うと、砂を跳ね上げ全身のバネを使って前に駆け出して行った。
 藍子はビーアズワンと一体と化していた。束ねた黒髪を風になびかせ、鞍上で這いつくばるような低い姿勢を取り、馬の首を押してスピードを上げろとの指示を出す。
 逃げの戦法だ。集団を嫌うこの馬は一頭抜け出して最後まで行ったほうがいい。
 スタンド前を走り抜けると、歓声が波のように沸き起こった。そのまま一コーナー、二コーナーを回り、向こう正面に入る。
 手綱を絞り、ペースを少し落とす。そこでようやく藍子は後ろを振り返った。
「えっ」
 三馬身以上は離していると思ったのに……すぐ後ろに楢原がいた。
 彼が微笑む──ゴーグルで目元は見えないはずなのに、目が合った気すらした。藍子は慌てて前を向いた。
 確かにライディングハイも先行馬。前で競馬をするタイプだ。逃げるビーアズワンを逃がすまいと、追いすがってきたのだろう。
 あの馬を大きく引き離せなかったのは痛い。だが今更スピードを上げてもペースが狂ってしまう。仕方なく、二頭連なったまま向こう正面を走り抜けた。
 耳元で風が轟々と唸っている。ビーアズワンの荒い鼻息、砂をかき上げる蹄の音、そして自分の息遣いがそれに混じる。
 背中に感じる無言のプレッシャー。ひたひたと、ライディングハイと楢原は確実に忍び寄ってくる。藍子は背中にも意識を集中させた。彼らが仕掛けてくるタイミングを逃さないように。
 三コーナーに入る。残り六〇〇メートル。後ろの馬群も差を詰めてきているだろうか。だが追い込むにはまだ早い。もう少し、もう少し……
 不意に、背中がぞわっとした。
 楢原だ──早い。
 振り返ると、楢原は馬を外側に出し、既にこちらを抜きにかかる態勢に入っている。
 藍子は手綱と一緒に握っていたムチを左手に持ち替えると、ビーアズワンの尻に一発入れた。馬が残された力をすべて出しつくさんと、爆発的に速度を上げる。
 後ろからも馬群が迫ってきている。ここからが逃げ馬の見せ所だ。
 四コーナーを抜けると残り四〇〇を切って最後の直線。左手でムチを振るい、右手で馬の首を必死で押した。だがライディングハイは一完歩ごとに着実に差を詰めてくる。こっちも必死なら、向こうも必死なのだ。
 二頭がほぼ一線に並んだ。すぐ横の楢原も力任せに馬の首を押し、死力を尽くしている。
 絶対に負けたくない──好きだから。
 二頭の壮絶な叩き合い。残り二〇〇を切り、ゴール前の坂を一気に駆け上がる。
 首の上げ下げだけで決まりそうなほど、二頭はピタリと並んでいた。このままゴール前まで……
 と、その時。藍子は異変を肌で感じた。
 ビーアズワン? いや違う……これは……
 気がついて横を向いた時には、ライディングハイは既に後退を始めていた。
 スタミナ切れなどではない。楢原は明らかに身体を起こし、追うことをやめている。勝負を捨てた姿勢だ。
 楢原に、ライディングハイに何が起きたのか……藍子は手を動かしながらも彼を振り返った。
 見えた彼の口元には、苦渋の表情がありありと見て取れた。その口元が動いて何かを叫んでいる。スタンドの大歓声、蹄の轟音、風の唸り声。様々な音が入り混じってよく聞こえないはずなのに……
『先に行け』
 藍子にはそう聞こえた。迷っている暇はない。
 ゴール板まであと少し。迫りくる馬群を振り切り、迷いを振り切り、無我夢中のまま坂を上りきる。
 気がつけば──ゴール板の前を通り過ぎていた。前に馬はいない。一着でゴールインしたのだ。
 藍子はスピードを落としながらも、また後ろを振り返った。ライディングハイはゴール手前で完全に止まっているようだ。
 どうやら二着に入った模様の柘植が並んできたので、藍子は急き込んで聞いた。
「カズさん! 楢原さんは……」
「わからん……馬のほうになんかあったみたいだけどな」
 楢原に勝ったことも、一着を取れたことも忘れて、藍子は楢原の身に何が起こったのか、ただそれだけに心を囚われていた。

 楢原の馬、ライディングハイは最後の直線で屈腱炎を起こし、競走を中止していた。走るために生まれてきたサラブレッドにとって、脚を痛める屈腱炎はまさに命取り。もしそのまま競走を続けていれば骨折、そして予後不良(薬殺処分)という大惨事を引き起こしていたかもしれない。
 競走中に脚の異常に気付き、躊躇なく馬を止めた楢原の判断は賢明なものだった。勝てるかもしれないレースで無理をするよりも、少しでも馬の将来を残す選択を彼はしたのだ。
 楢原を探していた藍子は、廊下の向こうでようやくその姿を見つけた。彼は既に有馬記念で乗るための勝負服に着替えていた。
「一着おめでとう。完敗だったよ」
 藍子の顔を見るなり、楢原はそう言って笑顔を見せた。
「あんな負け方……私は認めません」
 勝ったはずの藍子のほうが泣きそうな顔をしている。
「負けは負けだよ。約束通り、もう付きまとわない」
 清々しくさえある楢原に、藍子はだんだん腹が立ってきた。
「何よ……今まで散々振り回しておいて、一回負けたくらいであっさり引き下がるなんて……ホントは私のことなんか嫌いなんでしょう。だから……」
「それは違う。僕はいつだって真剣だ。競馬も、君のこともね」
 楢原の真摯な瞳が藍子の胸を射抜く。
 この人はいつだってそうだ。人を振り回して、弄んでおきながら、最後には甘い言葉で真っ当な正論を吐いてこちらを徹底的にやり込める。
 だが藍子は楢原の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「じゃあその気持ちを証明してくださいよ」
「……どうすれば?」
「次の有馬記念、先輩が優勝したら……今の賭け、ナシにします」
「……言うね」
 楢原は苦笑いを浮かべた。
「君は僕が優勝できると、本気で思ってる?」
 そう言った彼の顔は少し青ざめて見えた。
「当たり前でしょう。先輩なら……貴方とあの馬なら、絶対に勝てます!」
 少し怒りながら、それでも力強く断言した藍子の顔を、楢原は驚いたように見つめている。だがそれは次第に忍び笑いに変わっていった。
「な、なんですか……」
「やっぱり君は覚えてないんだね」
 そう言われても藍子にはとんと覚えがない。
「君にそう言われたのは二度目だよ。前は……ダービーの時」
 ようやく思い出した。初めて楢原に声をかけられたダービーの日。
『自分に自信持って』
 その言葉に勇気付けられた藍子は、レースに勝った後、楢原の下にお礼を言いに行ったのだ。その時ダービーを目前に控えていた楢原は、今と同じように青ざめた顔で、同じような質問をしてきた。
『君は……僕がダービー勝てると思うかい?』
『もちろんですよ。先輩なら絶対に勝てます。自分を信じてください!』
 藍子はそう答えたのだ。
「自分に自信がなかったのは、僕のほうだったんだよ」
 楢原は自嘲気味に微笑んだ。
「皐月賞で一番人気に推されながら、僕らは勝てなかった。それだけじゃない。僕はそれまでに何度もGIを勝つチャンスがあったのに、なかなか勝てなかったんだ。あの時、ダービーという大舞台を前にして僕は自信を失いかけてたんだ」
 ここ一番という時に勝てない──ある時は運に見放され、またある時は展開に翻弄され馬の力を出し切れないまま終わってしまう。そんなことを何度繰り返してきただろうか。
 皐月賞を取り逃し、ダービーこそはという周囲のプレッシャーに楢原は笑顔で答えながらも、内心ではその重圧に押し潰されそうになっていた。
 そんな時、悔しさに唇を噛み締める新人を見かけた。聞けばまだ初勝利を上げてないという。楢原は何気なく彼女に言葉をかけた。『自分に自信を持て』と。
 その言葉はそのまま楢原に返ってきたのだ。
「君は僕に何も返せないって言ってたけど、君は最初にとても大きなものを僕にくれた。そのおかげでダービーに勝てたんだ」
 藍子は知らなかった。自分でも忘れていた何気ない励ましの言葉が、彼をこんなにも勇気付けていたなんて。
「あの日から、ずっと君を見ていたよ。晴れの日も雨の日も、競馬場でもトレセンでも、一生懸命に頑張ってる君をね……恩返しをするつもりで君に近づいたけど、いつの間にかそれだけじゃなくなった」
 楢原は苦笑して、藍子から目を逸らした。
 お互いが素直になれなくて、ここまでこじれてしまったけれど──今なら少しだけ素直になれるかもしれない。
「有馬、君のために勝つよ──なんて言ったらまた怒られるかな?」
 藍子を見つめた楢原の瞳には、ゆるぎない意志がこめられていた。
「負けたらムチでしばきますからね」
 それが今の藍子が見せられる、精一杯の素直さだった。
 彼は笑顔で頷いて見せると、藍子の横をすり抜け、次のレースへと向かって行った。

   ◇

 まったくあの人は──どうしてこんなにも美しいのだろう。
 計りしえない重圧を背負い、人々の夢を背負い、GIという大舞台を駆け走る。藍子にとってはそんな舞台に立つのですら夢だというのに……
 楢原は有馬記念を優勝した。
 枯草色の芝生の上を、四肢を優雅に伸ばして走るダービー馬・シェアザワールド。その背に跨り、馬群から一頭飛び出して最後の直線を独走する。四番人気という前評判を跳ねのけ、二着に二馬身差をつける完勝で彼らは一着でゴールインした。
 その瞬間、競馬場全体が揺れたような気さえした。片手を上げ、勝利の雄叫びを上げる彼の姿は珍しい。
 スタンドの大観衆が一丸となって、彼の名前を連呼する。それにウイニングランで応える楢原。
 一部始終を見ていた藍子の目には、うっすらと涙さえ浮かんでいた。
 後検量を終え、次々と上位の騎手が検量室から出てくる。少し離れたところからそれを見ていた藍子に気付き、萌黄がポンと肩を叩いた。有馬に乗っていた萌黄はちゃっかり三着に入って、三連単に穴を開けている。
「よかったね」
 萌黄に声をかけられて、藍子は感極まって笑顔で頷くことしかできなかった。
 楢原は検量が終わっても、すぐにテレビのインタビューに引っ張られてしまった。その後も関係者から賛辞を贈られ握手を求められ、そして表彰式と忙しいことこの上ない。
 ふと、彼が遠い世界の人間に思えた。
 自分とは比べ物にならない。圧倒的な力の、技術の差。経験値が違うとはいえ、自分があの高みに登れるとはとても思えない。
 胸に去来する、寂寥感。
 本当は彼に声をかけたかったけど──藍子は華やかな人の輪に背を向け、静かにその場を立ち去った。

   ◇

 すっかり日も暮れ、クリスマスツリーの煌びやかなイルミネーションが目に眩しい。
 クリスマスの夜。明日は月曜日とあってか、昨夜ほどの人出ではないが、それでもカップルの姿がちらほら見える。
 ツリーの前で一人佇んでいた藍子は、頬に触れる冷たい感触に天を仰いだ。
「あ……雪」
 真っ黒な空から小さな白い粒がふわりふわりと舞い落ちる。天気予報が当たったようだ。周囲のカップルからも小さな歓声が上がる。
 楢原もこの雪に気付いているだろうか。今頃、祝勝会でしこたま飲まされているかもしれない。
「こんなところにいたのか」
 急に後ろから声をかけられて、藍子はビックリして振り返った。想像通りの声の主だ。
「先輩……」
 コート姿の楢原が、そこに立っていた。祝勝会に行ったと思っていたのに……
「有馬の優勝騎手がこんなとこで油売ってていいんですか」
 顔を見るとついつい憎まれ口を叩いてしまうのは、もはや条件反射のようだ。
「君も連れてこうと思ってね、探してたんだよ」
 楢原は藍子と並び、クリスマスツリーを見上げた。
こんなにも近いのに──イルミネーションに照らされた彼の横顔を見上げていると、物寂しい気持ちに襲われて距離を感じてしまう。離されたくなくて、藍子はすがるように言った。
「先輩……私もいつかGIに出れますか」
 いつものように、甘い言葉で『出れるよ』と元気付けて欲しかっただけなのだ。だが楢原は寂しげに笑うだけで、首を縦に振ることもしなかった。
「道のりは平坦じゃないよ。長く険しい……特に女の子はね。萌黄という前例があるけど、あいつだって相当な努力を重ねてきた。生半可なものじゃない」
 わかっている。ある種の天才と言われる萌黄でさえ、GIに出れるようになるまでに男子以上の努力と実績を積み重ねてきたことを。
 ここは勝負の世界。女であるがゆえに何事も人並み以上に頑張らないと生きていけないことぐらい、最初からわかっていたことだ。
「けど……君ならきっと叶えられると信じてる。急ぐことはないよ。君は君のペースで成長していけばいい。そしていつか二人で同じGIを走れるその日まで──僕はこの高みでずっと待ってるから」
 自信にあふれた台詞。けれど戯言には聞こえない。
 この人となら──きっと頑張っていける。どこまでも一緒に走っていける。
「その時は私が勝ちますからね」
「楽しみに待ってるよ」
 藍子の力強い言葉に、楢原も笑顔で答えた。
「ところで……あの賭けはなくなったわけだけど」
 彼の瞳がキラリと光る。
「クリスマスなんだし、何もないっていうのは寂しくない?」
「な、なんですか……」
 楢原に真正面から見つめられて、ドギマギしてしまう。
「君が好きだよ」
 その言葉には照れも気取りもなかった。まっすぐに藍子の心を捉え、自分を支えてくれる確かなものとなる。
「『気持ちはちゃんと言葉で伝えないと』って、萌黄にも怒られたんだよね」
 あの人はやっぱり魔女だ。言葉にできなかった不安を、魔力さえ漂う大きな瞳でちゃんと見抜いていたのだ。
「で、君の気持ちは?」
「はっ、いや、あの……」
 迫られて、つい答えを濁してしまう。隠す必要なんてもうないのに……
「君も素直じゃないね。言わないとキスしちゃうよ」
「ええっ」
 笑顔の楢原がじりじりと詰め寄ってきた。思わず後ずさってしまうが、あれこれ考える間にもどんどん彼の顔が間近になってくる。
「……す、好きですっ!」
 藍子はついに叫んだ。
「本当に?」
「本当ですよ!」
 楢原は安堵したように身を引いた。
「それはよかった。じゃ、キスしてもいいわけだ」
「そ、そんなぁ……」
「イヤなの?」
 やっぱり、この男には勝てないのかもしれない。
 藍子は観念して、目を閉じた。
 伏せられた瞼に落ちる、雪の粒。冷え切った手のひらが火照る頬を冷やす。
 ──いつか見てろ。
 塞がれた唇で、藍子は言葉にならない負け惜しみを呟いていた。




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