冬に咲く花、春を待つ空


    霧 月

 四季折々の花が咲き乱れるこの美しい庭園が、時々監獄のように思える。
 高い塀、刺々しい鉄条網、ところどころに立つ銃装備の兵士──内部からの脱走を阻止するのか、外敵の侵入を防ぐのかの違いだけであって、実のところは監獄と何も変わらないのではないか──
 クリスは立ち上がり、膝についた土を払いながら思った。
 もちろんここは監獄ではなく、クリスは自ら望んでここに住んでいるのだが、常に誰かの視線を感じながら暮らすのは慣れているとはいえ息苦しさを覚えることもある。
 そんな時、クリスはいつもこの庭園に出て花を愛でていた。観賞するだけではなく、ワンピースの上からエプロンをかけて、自らスコップを持ち土を掘り返して泥まみれになって作業するのだ。
 艶めく長い黒髪が土埃で汚れるたびに、使用人から苦言を呈される。
『そんなことは庭師がいたしますから、どうかお止めになってください』
 だがガーデニングはクリスの数少ない趣味の一つで立派な息抜きなのだ。止めろと言われて止められるものでもない。
 隅から隅までじっくり見て歩けば一時間はかかるような大きな庭園だが、その小さな一角を自分専用の場所として確保してもらい、暇があればクリスはそこで土いじりをしている。
 今日もまたクリスは秋の花たちを可愛がるのに忙しい。
 コスモス、マリーゴールド、サルビア、ダリア。この辺はもう終わりに近い。これからの季節はシクラメンやプリムラ、水仙、椿などが咲き始める。
 雑草を抜き、枯れて終わった花殻を摘んでいく。若く瑞々しい手が土で汚れるのも厭わずに、黙々と手を動かす。時が経つのも忘れて、無心で花や土と戯れられるこの時間がクリスは大好きだ。
 遠くから空を飛ぶプロペラ機の音が聞こえる。空を見上げても機体は見えなかったが、晩秋の早い夕暮れがすぐそこに迫っていた。低い雲に覆われた夕陽が空を淡く染め、飛んでいく雁の群れを優しく包んでいるかのようだ。
 懐中時計を見ると時刻は四時過ぎ。そろそろ潮時だろう。
「クリス様! お茶の時間ですよ!」
 遠くから聞こえる高い声。侍女頭のエレナだ。
「わかったわ。今いきます」
 凛とした声で返事をすると、クリスは目の前の赤いダリアを一本切り取り、それから立ち上がった。
 切れ長の黒い瞳にすっと通った鼻筋。ダリアと同じ色の唇は彼女の芯の強さを感じさせる。その容貌は、かつてこのランバルド王国を作ったランド民族の在りし日の姿を髣髴させると評判だ。今はもう彼女のような純粋な黒目黒髪を持つランバルド人は数少ない。
 匂い立つような美しさの中に幼さをわずかに残す十八歳。
 白いエプロンを外すと、ベビーブルーのワンピースの裾が風に揺れた。近くの運河から流れてくる風は身を切るように冷たく、冬の訪れが近いことを知らしめる。小さく震えて、クリスは屋敷に向けて歩き出した。
 ふと背中が温かくなって振り返ると、雲の切れ間から陽が差し込んでいた。
「あ、天使の階段……」
 いくつもの光の筋が地上に向かって降り注いでいる。この美しい自然現象を天使が上り下りする階段に例えたという賢人には、本当に天使の姿が見えたのだろうか。
 まぶしい光に目を細めてみても、クリスにはその姿は見えない。
 少しでも期待した自分を自嘲気味に笑って、目を背けた──その時。
「えっ」
 光の中に黒い何かが見えた。
 鳥や飛行機の類ではない。あれは確かに人影……背中に何か背負っているようにも見える。
 まさか……天使?
 驚いたクリスが日の光を遮りながら凝視していると、その影は段々と大きくなってきた。こちらに降りてくるようだ。
 近づくにつれ、その姿がハッキリと見えてくる。
「……パラシュート?」
 大きなパラシュートにぶら下がった人間だ。ゆったりとした速度で時に旋回しながら、徐々にこちらへ向かってくる。
 白いパラシュートには大きなマークが書いてあった。内側から白と濃緑と藍色の同心円。雪と森と海を表したランバルド王国の国旗と同じ配色だ。それがランバルド軍の国籍マークであることはクリスも知っている。
 パラシュートが作り出す影が庭園を覆うほど近くなってようやく、衛兵たちが騒ぎ始めた。空からの闖入者に度肝を抜かれたのか、慌てた様子でバタバタと走り回っている。
 庭園の静寂を破るように、乾いた破裂音が響いた。誰かが銃の引き金を引いたのだ。
 呆然と眺めていたクリスはやっと我に返った。
「ダ、ダメ! 撃たないで!」
 クリスは監視塔の衛兵を振り返って叫んでいた。
 たとえ自分の命を狙う犯罪者だったとしても、目の前で人が傷つけられるところを見たくはない。それに自国のマークをつけ、天使の階段を下りてきたこの人物が悪人だとはどうしても思えなかったのだ。
 頭上の人物はどこか悠々として、空の散歩を楽しんでいるかのようでもある。先ほどの銃弾は当たらなかったようだが、自分が銃口を向けられていることを本当にわかっているのだろうか。
 カーキ色の飛行帽と襟にボアのついた革製フライトジャケットに身を包んだその人物は、どうやら男性のようである。ゴーグルで隠された目元はうかがい知ることはできない。
 あと数メートルで着地というところで風に流され、彼はクリスから離れた植え込みの中に着地した。いや、突っ込んだという方が正しいかもしれない。
 クリスが怖々近づくと、その男はしぼんだパラシュートを引きずったまま、躑躅の枯れ枝の間に挟まっていた。枯葉にまみれ、天を仰いで微動だにしない。
 そんな彼を出迎えたのは、無数の銃口だった。幾重もの包囲網を形成した衛兵たちが、正体不明の侵入者を捕らえようと彼に銃を向けている。
 その中の一人──衛兵隊長のルストが、銃口を彼の目の前に突きつけた。
「貴様、何者だ。空軍の兵士か」
 枯れ枝の上に横たわる彼は、答える代わりに気だるそうに首を動かして辺りを見回した。まるで自分のベッドで寝ていたところを叩き起こされたかのような、そんな雰囲気だ。
 ようやく状況を把握したのか、彼はのそりと身体を起こした。枯れ枝をパキパキと折りながら、足を地につける。
 自らの足で立ち上がった男は馴れた手つきでパラシュートを外すと、身体についた枯葉を払い落とした。
 トリガーに指をかけた衛兵に取り囲まれていると言うのに、緊張感がまるで感じられない。ゴーグルを外して現れた藍色の凛々しい瞳には、穏やかな笑みさえ浮かんでいた。
 場違いともいえる悠然とした立ち居振る舞いに、ルストは苛立ちを隠さなかった。
「手を上げろ!」
 彼は逆らわず、それでもゆっくりと両手を顔の横に上げた。
「貴様、ここがどこかわかっているのか!」
 そう言われて初めて、彼は確かめるようにあたりを見回した。苦笑気味に目じりを下げたその顔は少年のようにも見えるが、多分クリスよりもずっと年上だろう。
「ここは……サヴォイア宮殿──冬宮殿でしょう?」
 柔らかく響くテノールの声。だが声に怯えた様子はない。彼は衛兵たちの間で呆然としていたクリスをまっすぐに見つめ、そして微笑みかけた。
 ドキリと高鳴る胸──彼の表情は、驚いて目を丸くするクリスを楽しんでいるようにも見える。大胆不敵──そんな言葉が似合う男だ。
「貴様……ここが離宮と知ってのこの所業か!」
 ルストは銃口を彼の胸に押し付け、小突いた。痛みが走ったのか、彼の端正な顔が微かに歪む。我に返ったクリスは思わず前に飛び出していた。
「乱暴なことしないで」
 ルストの前に手を差し出し、銃を下ろさせる。
「無抵抗の人間を傷つけるなど、私は許しませんよ」
 静かな口調の中に、有無を言わせない強さが滲み出る。だがルストはその役目上、簡単には納得してくれなかったようだ。
「し、しかし……この男は」
「彼を捕まえるのは、話を聞いてからでも遅くはないでしょう」
 クリスは彼を真正面から見据えた。決して背の低くないクリスでも見上げてしまうほど大柄な男ではあったが、細身のせいかそれほどの威圧感はない。
 諸手を掲げたまま固まっていた彼が、ゆっくりと手を下ろすのを待って、クリスは口を開いた。
「私はクリスティアーナ・ヘンリエッタ・ディ・フィオーレと申します」
 そう名乗ると、彼の顔にバツの悪そうな苦笑が広がった。まるでいたずらを咎められた子どもだ。おかしささえこみ上げてくる。
「あなたのお名前をうかがってもよろしいかしら」
 彼は──その顔から笑みを消し去った。背筋をピンと伸ばし踵を揃え、手袋をはめた右手で敬礼を捧げる。
「クリスティアーナ王女殿下──まずは非礼をお詫びいたします。私はランバルド空軍ヴェネト基地所属、ヴィート・エヴァンジェリスティと申します。階級は大尉。此度の不始末、いかような処分も重く受け止める所存にございます」
 彼の名を聞いた途端、周囲の衛兵たちがざわついたが、クリスにはさほど気に留めなかった。
「そんなにかしこまらなくても良いですよ。あなたが私の命を狙う不届き者でないのなら、何か理由があってのことでしょうから」
 そう言ってクリスが微笑むと、硬くなっていた彼の表情も少し和らいだ。
「殿下の温かいお心遣い、痛み入ります」
 彼は飛行帽を取り、セピア色の短い髪をかき上げた。軍人らしい精悍な顔つきだが、どこか華やかさがある。かしこまっていてもどこか飄々としていて、普通の軍人とは少し違う感じがした。
「で、エヴァンジェリスティ大尉。どうして空から降ってきたの?」
 素朴な問いに、エヴァンジェリスティは困ったように頬を掻いた。
「乗っていた飛行機が故障してしまいまして、飛行不能になりましてね。仕方なく飛び降りたんです」
「その壊れた飛行機は?」
「今頃向こうの湖に沈んでるでしょう。私は湖の上から風に流されて、ここに舞い降りてしまったというわけです」
「まあ」
 遥か上空を高速で飛んでいる飛行機からパラシュート一つで飛び降り、かつ空中で銃弾がそばをかすめていってもなお、平然と笑っていられるこの男はよほど度胸が据わっているらしい。
 今度はクリスが苦笑いを浮かべる番だった。
「次からは機体整備をしっかりなさってくださいね」
「申し訳ございません。大変なご迷惑をおかけしてしまいました」
「とにかく、ご無事で何よりです。本当にお身体大丈夫ですか?」
「丈夫だけが私のとりえでしてね。おかげさまでどこも痛くありませんよ」
 そう言うや否や、彼の大きな身体がぐらりとよろめいた。クリスは慌てて手を差し出し、彼の身体を支えた。
「やはりどこか打ったんじゃ……」
「いえ、単なる寝不足ですよ。昨日の夜なかなか寝付けなかったんです」
 弱々しく笑ったその顔が心なしか青ざめて見える。
 一瞬──瞳の藍色が、底の見えない闇のように見えた。その奥で微かに揺らめいて見える、深い深い絶望──
「殿下にこれ以上のご迷惑をおかけするわけにはいきません。どうかお構いなく。これにて失礼させていただきますよ」
 エヴァンジェリスティはもう一度敬礼を捧げ、クリスに背を向けた。自ら捕まろうというのか衛兵隊へと歩み寄るが、その足元はふらつきどうにもおぼつかない。
 衛兵が取るより先に、クリスが彼の二の腕を掴んだ。
「動いちゃダメです! せめて少し休んでお行きなさい」
 怒ったようなクリスと、目を見開いたエヴァンジェリスティの視線がぶつかった。
「殿下!」
 ルストが悲鳴に近い声を上げたが、クリスはあえて無視した。
「こっちに座って」
 エヴァンジェリスティを引っ張り、すぐ近くにあったガーデンテーブルとチェアのセットに強引に座らせる。一度言い出したら聞かない王女の性格を熟知しているのだろう。ルストは諦めたように首を振ると、衛兵隊を促して下がらせた。
 クリスは大声で叫んだ。
「エレナ! お茶を二つ、こっちに持ってきて! ブランデーも一緒にね!」
 優秀な侍女頭エレナはすぐにやってきた。紅茶のセットを銀のトレイに乗せて、後ろにもう一人、三段のケーキプレートを持った侍女を連れている。
 日暮れが迫り、東の空が徐々に濃紺のグラデーションに染められつつある。雲越しの柔らかい夕陽を浴びながら、アフタヌーンティーの用意は着々と進められた。
 クリスにはストレートティー、そしてエヴァンジェリスティにはブランデー入りの紅茶がふるまわれた。
「さあ、どうぞ召し上がって。気付け代わりですよ」
 終始あっけに取られていたエヴァンジェリスティは、クリスに勧められてようやく気づいたかのようにカップを手に取った。
 湯気と共に立ち上る紅茶とブランデーの芳醇な香りを胸いっぱいに嗅いだ後、彼はカップに口をつけた。
 黄昏時の奇妙なティータイム。二人は無言で紅茶をすする。
 言葉を交わさずとも、穏やかな時間がそこに流れていた。
 木々の葉が風にそよぐ音、テーブルに飾られた鮮やかなダリア、少し冷えた身体にじんわりと沁みこむ暖かさ──同じ場所で、同じ時間を共有したという、ただそれだけで何か通じるものがある──そんな錯覚すら覚える。
 青白かったエヴァンジェリスティの頬に赤みが差してきた。茜色の夕陽のせいだけではないだろう。
 彼は飲み干したカップをソーサーに置くと、一つ息をついた。
「宮殿に侵入して、殿下に助けていただいた上に紅茶までご馳走になってしまって……これはもう銃殺刑でしょうね」
「……そのわりにあなた、死ぬことは怖くないって顔してるわ」
 クリスはエヴァンジェリスティの瞳をまっすぐに見つめた。宵闇を映したかのような瞳の藍色は澄んで、先ほどのような深い絶望はもう見えない。代わりに見えた光は内に隠された強い意志のようで、どうにも捉えどころのない男である。
 彼は微笑を湛えて答えた。
「『ランバルドの宝石』と名高いクリスティアーナ殿下とご一緒にお茶を飲めたのですから、もうこの世に未練はありませんよ」
「まあお上手だこと」
 二人は声を上げて笑った。
 このエヴァンジェリスティという男、なかなかウィットに富んだ人物のようで好感が持てる。軍人といえば堅苦しいイメージしか持っていなかったが、こういう面白い人間も中にはいるらしい。
 庭園に灯りが点されたのを機に、エヴァンジェリスティが立ち上がった。
「殿下、ありがとうございます。これで心置きなく衛兵隊の尋問に付き合えます」
「大尉がここに降りてしまったのは、単なる事故でしょう? あなたに非はないわ」
「しかしそれでは彼らの面目が……」
 そう言って彼は、遠巻きにこちらを見つめている衛兵隊に視線をやった。この期に及んで衛兵隊の面目を心配するとは、優しいのか余裕があるのかよくわからない男だ。
 クリスは苦笑いを浮かべた。
「これ以上、事を荒立てるのは私の本意ではありません。この庭園で争いごとは起こしてほしくないの……ちょっと入口を間違ってしまったけど、あなたは私のお客様。そういうことにしましょう」
 またこの庭を剣呑な雰囲気にするくらいなら、多少のことには目を瞑って穏やかに済ませた方がいい。
「大事になる前に、ヴェネトの基地まで送って差し上げましょう」
 エヴァンジェリスティはそれ以上何も言わず、ただ黙って頭を下げた。
 クリスは車の手配を侍従に言いつけ、二人は連れ立って玄関に向かった。
「ここは本当に美しい庭園ですね」
 歩きながら、エヴァンジェリスティは目を細めた。
「冬宮殿のことは知っていましたが、中にこのような庭園があるとは知りませんでしたよ」
「今は私一人が住んでいるところだけど、かつては冬の王宮として、たくさんの人で随分と賑わっていたそうよ」
「この広い宮殿にお一人で? 国王陛下の住まう王宮もそう遠くはないのに……」
「お父様の周りは人が多くて。どうせ女王になったらあっちに住むことになるんだから、今のうちは住むところくらい好きにさせてもらいたいわ」
 そう言っていたずらっぽく笑うと、エヴァンジェリスティも意を得たりとうなずいた。
「一人といっても気心の知れた侍従や使用人がいるし、寂しくはないわ。それにね、私はこの庭が好きなの。ここは緑も綺麗だけど、雪が降るこれからの季節が一番美しいのよ」
「地上で見る庭園も綺麗ですが、空から見た花と緑と遊歩道のコントラストはまるで一枚の絵画のようで、なかなかにいい眺めでした。雪に染まった風景もぜひ見てみたいものですな」
「空から……」
 彼のように、大空高く舞い上がってこの庭園を見下ろしてみたい──クリスはそんな衝動に駆られた。彼が「一枚の絵画」と評した空からの眺めは、一体どんなものなのだろうか。
 この庭園を誰よりも愛していると自負するクリスですら見たことのない眺めを知るエヴァンジェリスティ。クリスは少しだけ彼に嫉妬した。
 玄関前のポーチにはすでに黒塗りの自動車が横付けされ、白手袋の運転手がドアの横で待っていた。見るからに威厳たっぷりな王室専用車を目にして、エヴァンジェリスティは一瞬たじろいだが、諦めたように後部座席の開けられたドアの前に立った。いつの間にかトランクにはパラシュートが押し込められている。
「殿下直々のお見送り、痛み入ります」
 エヴァンジェリスティはもう一度、敬礼を捧げた。
「私のような不埒者に対してのこのもてなし、殿下のお心の広さには感服いたしました」
「だって、天使様をぞんざいに扱うわけにはいきませんもの」
「天使?」
「いえ、こちらの話です。そうそう、今度いらっしゃる時は空からではなく門から入ってきてくださいね」
「ぜひそうさせていただきます」
 エヴァンジェリスティは車に乗り込むと、窓を開けて最後の挨拶をした。
「ありがとうございました。では失礼いたします」
「ごきげんよう。お身体に気をつけてね」
 頭を下げる彼を乗せた車は、黒煙を上げて走り去っていった。門を出るところまで見送って、クリスは息をつく。
 枯葉を巻いて吹くつむじ風のような男だった。静かな庭園を騒がしくかき乱していった彼だが、不思議と嫌な感じはしない。奇妙な来訪者との奇妙な出会いは、むしろ物憂いに沈んでいたクリスの好奇心を掻き立てるのに十分だったのだ。
 彼にまた会いたい──いや、またいつかどこかで会えるような気がする。
 いつの間にかすっかり日が暮れ、辺りは夜の帳に包まれている。夜空に輝く一番星を見つめて、クリスは微笑んだ。

   ◇ ◇ ◇ ◇

 世界大戦終結から五年──
 大陸の覇権を巡って、全土が戦火に包まれた世界大戦。その勝者ともいえる大国・ヴォルガ帝国は大陸中にその存在感を知らしめ、強大な軍事力を背景に今なお周辺国に多大なる影響を与え続けている。ランバルド王国もそんな周辺国の一つだ。
 古い歴史を持つランバルド王国は、ランド民族による単一民族国家である。
 国土はそれほど大きくないが、肥沃な土壌と豊富な資源に恵まれて、早くから独立を果たし発展を遂げてきた。大陸の北端に位置し、ヴォルガをはじめとする複数の大国に囲まれている土地柄から、中立を国是とし、世界大戦でもその立場を貫いた。
 だが、大戦も終盤に差し掛かった五年前の冬──そのランバルドの根幹を揺るがす事件が起こった。
 ヴォルガ軍が国境を越えて、ランバルドに突如軍事侵攻を開始したのだ。『冬戦争』の始まりである。
 ヴォルガの電撃的な侵略に対し、ランバルドは民族の誇りを胸に徹底抗戦した。軍事力では圧倒的な差があったが、山と森林が多い地形と雪深い季節だったということもあって、地の利を活かし、当初は侵攻を水際で抑えていた。
 この非情な仕打ちに、周辺国の同情が得られるとランバルド側は目論んでいたのだが、残念ながらそれは目論見だけで終わった。大戦下にあって、微妙なパワーバランスの上に成り立っていた周辺国は、ヴォルガとランバルドの戦いに首を突っ込もうとはせず、ただ傍観することを決め込んだのだ。どの陣営とも手を組まなかった中立国という立場も不利に働いた。
 援軍の来ないランバルドは日に日に追い込まれていった。それでも自慢の空軍力で首都ランバルディアへの侵攻は何とか食い止められていたものの、次第に戦局は膠着、戦争は泥沼化した。
 これ以上の消耗は避けたい──国土を蹂躙されているランバルドはもちろん、その思いはランバルド以外にも手広く戦争を展開していたヴォルガも同じだった。ヴォルガが先に停戦を持ち出し、ランバルドも飛びつくようにそれに合意した。
 かくして二国間で講和条約が結ばれたのだが、それはランバルドにとって屈辱以外の何物でもないものだった。
 その条約とは、ランバルドの領土の十分の一に相当するヴァレーゼ地方をヴォルガに渡すという一方的な条約だったのだ。首都まであと少しというところまで攻め込まれていたランバルドには、その条件を飲むしか選択肢はなかった。
 そして四ヶ月に渡る冬戦争は終結し、ランバルドに再び平和が戻ってきた──誰もが「かりそめ」と嘆く平和が。
 かくしてランバルドはヴォルガの衛星国となり、政治的、軍事的な圧力を受け続けている。もはや中立国ではいられなくなってしまったのだ。
 国土を踏みにじられ、領土を削られてなお、アイデンティティを否定された属国のような扱いを受けることに、国民の間でヴォルガに対する抑圧的な怒りが潜在的に渦巻いている。
 そんな現状で、ランバルド王国においての王室の立場は非常に微妙なものになっている。
 ランバルドは立憲君主制であり、国王は政治的権力を一切持たない。君主は国の象徴として君臨するのみだ。特に政治がヴォルガ寄りにある今、議会は王室の動向を探りつつ不穏な動きがないか神経を尖らせている。
 皮肉なことに、象徴としての王室の人気が非常に高いのだ。
 ヴォルガによる屈辱的な支配を受ける中で、誇り高きランド民族の血を色濃く受け継ぐ王室はランバルドの最後の砦として国民の絶大な支持を受けており、その勢いは議会はおろかヴォルガですら無視できないものがある。
 クリスの父で現国王のパオロ二世は、表向きは中庸な立場を取り続けているが、軍部とは比較的友好な関係にある。
 かつて、中立を貫くがゆえに強力な軍隊が必要だったランバルドにあって、陸海空の三軍は国と王のために戦うという理念の下に作られた。今でも三軍は王室軍を名乗り、最高司令官は国王である。
 文民統制下にあるとはいえ、議会がヴォルガ寄りである現状では、軍も王室をより尊重し、議会を軽視する傾向にある。さすがに王室を担ぎ出してクーデターを起こすような真似はしないであろうが、そんな心配が笑い事では済まされないほど政府との仲は険悪になりつつある。
 それがまた王室の立場を微妙なものにしているのだ。

 正直、政治のことはよくわからない。
 王位継承権第一位を持ち、次代の女王であると言われても難しいものは難しいのである。
 帝王教育を受け、基本的なことは叩き込まれたとはいえ、今はまだ真剣に考える気にはなれない。
 まだ女王ではない。王女なのだ。
 クリスの口から漏れた大きなため息は、ボールルームの喧騒に溶けて消えた。
 煌びやかな王宮のボールルームは、ドレスや燕尾服で着飾った大勢の招待客で賑わっている。王室主催の晩餐会の後、場所を移して舞踏会が開かれているのだ。
 ロイヤルブルーのドレスを着て優雅に立つクリスの横には玉座があり、父・パオロ二世国王が妃と並んで座っている。次々と挨拶にやってくる招待客たちに愛想笑いを振りまきながら、クリスは内心疲れきっていた。
 恭しく礼をする貴族や政府関係者の美辞麗句を延々と聞き続けるのは結構な苦痛だ。さしたる中身があるわけでもなく、皆同じようなことしか言わない。まだ十八歳の小娘であるクリスを軽んじているのが手に取るようにわかる。
 それも当然かと思う一方で、次期女王である自分に対してまでこんな態度なのだから、立場の微妙さを実感せざるを得ない。
 今日何度目かわからないため息をついたクリスの横で、パオロが咳き込んだ。
「陛下、大丈夫ですか?」
 背中をさするクリスに、パオロは手のひらを向け大丈夫とアピールした。
 齢五十を超えた父は、この頃体調を崩すことが多くなった。公務に支障をきたすことは少ないが、それでも少しずつ体力が落ちてきているように思える。
 いつも穏やかに微笑んでいる父だが、人知れず抱え込む心労も多いのだろう。今のような状況では尚更だ。
 もう二十年も国王として、国の行くべき道を国民に示してきた。その中で世界大戦や冬戦争があり、ランバルド史上最も激動の時代を生きてきた国王とも言える。
 その顔に刻み込まれた深い皺は、この国の歴史そのものなのかもしれない。
 平静を取り戻したパオロと共に、クリスはまた客人の挨拶を受け始めた。次は確か空軍のクローチェ中将だ。
 と、その時。
 中将の軍服の肩越しに、知っている顔を見たような気がした。
 たくさんの女性に囲まれて楽しそうに談笑しているその男は、燕尾服ではなく空軍の礼装を身につけていた。セピア色の髪をかき上げ、軍人らしくない華やかな笑顔を淑女たちに振りまいている。
 藍色の瞳がこちらを向き、一瞬目が合った。
 驚くクリスをよそに、彼は微笑みと一礼を返し、また淑女たちとの談笑に戻っていった。
 あれは──エヴァンジェリスティ大尉だ。士官とはいえ尉官クラスの彼がなぜここに?
 クリスは目の前で型どおりの口上を述べていた中将に、挨拶もそこそこに聞いた。
「あ、あの……あそこにいらっしゃる方……」
「ああ、彼はエヴァンジェリスティ大尉ですね。殿下までがご存知だったとは……って、そういえば! 奴め、先日は殿下に大変なご無礼を働いたそうで……」
 冷や汗を流す中将を尻目に、クリスの目はやはり本人だったエヴァンジェリスティに釘付けだった。
「いえ、それはいいの。でもなぜ彼がこの王宮に?」
「上司であるフェラーリン准将の名代と聞いてます。ああいう奴ですが、国王陛下から勲章を賜ったことのある空軍のエースでもありますし」
「えっ、エース? 勲章?」
 整備不良の飛行機に乗ってしまうような、ちょっと抜けている男が空軍のエースとは。
 クリスは信じられなかったが、中将は彼の正体を知らなかったと見えるクリスに少し自慢げに話して聞かせた。
「彼は五年前の冬戦争で、六十二機のヴォルガ空軍機を撃墜したエースパイロットなのですよ。その他にも戦車や軍用車両など百台以上は撃破しています。その数字もさることながら、それ以上に彼がすごいのは、被撃墜回数が十五回もあるということなんですよ」
「……それって、十五回も撃墜されたってこと?」
「ええ。でも奴は今あそこでピンピンしているでしょう? 幾度も撃墜されながらそのたびに生還し、また出撃しては敵機を撃墜したのです。彼の機体には真っ白なユニコーンのマークがつけられていましてね、ヴォルガ軍からは『白い悪魔』『不死身の悪魔』と呼ばれ恐れられていたそうですよ」
 不死身の悪魔──その名はクリスも聞いたことがあった。首都ランバルディアに攻め込まんとするヴォルガ軍を間際で喰い止めた『空の勇者』、『ランバルドの守り神』と。彼がいなかったらランバルディアは陥落し、ランバルドは講和条約を結ぶどころかヴォルガに併合されていただろうとさえ言われていた。
 だが、まだ幼かったクリスはかの人物の名前も知らなかったし、もっと古めかしい厳つい顔をした軍人だと思い込んでいた。それがまさか──あんなに若く、涼しげな目元の色男だったとは。
「しかしあいつめ、殿下のご温情にあずかっておきながら挨拶にも来ないとは何たること……今すぐ呼んで参ります」
 そう言って中将は振り返ろうとしたが、クリスは止めた。
「いえ、彼もこちらに来るタイミングを計ってるのでしょう。それに今はとってもお忙しそうですしね」
 パイロットという職業は花形だと聞くが、あの顔ではそれでなくてもモテるだろう。四方八方淑女に囲まれて、身動きが取れないようにも見える。
「あとでこちらから行きますわ。それよりも彼のお話、もう少し聞かせてもらえます?」
 にっこり微笑んだクリスに、中将は目を白黒させた。

 父に断って暇をもらい、クリスはそばを離れた。
 エヴァンジェリスティは少し離れた場所で、こちらに背を向けて淑女たちとの歓談に熱中しているようだ。クリスはその背中に狙いを定め、歩みだした。
 ワルツを踊る男女を避け、人ごみで声をかけられて軽く挨拶を返しながらも、足は彼のもとへ一直線に向かう。
 エヴァンジェリスティはこちらに全く気づいていないようだ。何を話しているのか、取り囲む淑女たちを笑わせて、うっとりとした視線を一手に集めている。その鷹揚な背中を見ていると、なぜだかいたずら心に火がついてしまった。この間は驚かされたから、後ろから忍び寄って今度はこちらが驚かせよう。
 エヴァンジェリスティの背中をとらえ続ける視界が、急に遮られた。
「おや、殿下」
 燕尾服の男が突然目の前に立ちはだかったのだ。ぶつかる寸前で何とか足を止めたが、何という無作法な男だろう。
 苛立ち紛れにその男を睨み上げると、それは外務大臣のカルダノだった。初老に差し掛かろうという年齢のはずだが、色艶のいい顔には生気がみなぎって随分と若く見える。
 彼はその細い目に笑みを浮かべて、孫のような年齢のクリスを見下ろしていた。
「あ、大臣……」
「ちょうどよかった。今こちらからおうかがいしようと思ってたところです」
 カルダノは畳み掛けるように言った。
「あちらにヴォルガ皇帝陛下の縁戚に当たる公爵夫妻がいらっしゃってましてね。殿下にぜひご挨拶をしたいと申しておりました。もしお手すきでしたら私と一緒に来てくださいませんか」
 物腰は非常に丁寧だが、どこか強引な物言いをするカルダノがクリスは苦手だった。
 そもそも彼は首相の盟友と言われ、親ヴォルガ派の筆頭でもあるのだ。クリスを見つめるその瞳は野望に満ちて、ギラギラと光っているようにも見える。
 本来なら向こうから挨拶に来るべきではないのか──そうは思ったが、クリスは口には出さなかった。
「いえ……あの、私は……」
 それよりも今はエヴァンジェリスティのところに行きたいのに……
 目をそらして答えを躊躇するクリスに、カルダノは幼い子どもを諭すように穏やかに言った。
「殿下──今後のこともありますから、ね」
 クリスの顔がさっと青ざめた。カルダノを見上げる瞳に、悲しみにも似た憂いの色が浮かぶ。
 クリスは何か言いかけて──諦めたようにうなだれた。
「よろしいですか?」
 カルダノの問いかけに、うつむいたまま小さくうなずく。彼もまた満足そうにうなずくと、先に立って歩き始めた。
 気分はまるで連行される罪人だ。カルダノの後を追おうと一歩踏み出して、クリスはエヴァンジェリスティがいた場所を振り返った。だがそこに彼の姿はもうなかった。淑女たちに連れられてどこかに行ってしまったようだ。
 落ち込む気持ちに追い討ちをかけられて、クリスはまたうなだれて歩き始めた。が、その時。
 またしてもクリスの視界が遮られた。目の前に突然現れた男の胸に、今度は止まりきれずにぶつかってしまった。
「んもう!」
 その男からは枯葉の匂いがした。
 つぶれた鼻の痛みをこらえながら、今度こそ怒ってその男をきつい目つきで見上げる。
「ちょっと……あ」
 藍色の双眸が自分を優しく見下ろしていた。
 急に恥ずかしくなって逃げ出そうとしたが、両肩をしっかりとつかまれてしまう。軍の礼装に身を包んだその広い胸板に吸い込まれそうな気がして、クリスは身体を硬直させた。
「……殿下?」
 ついてこないクリスを心配してかカルダノは振り返った。だが彼の訝しげな視線を受けて答えたのはクリスではなかった。
「ああ、これは失礼いたしました。クリスティアーナ殿下が市場に売られに行く子牛みたいに大臣の後をついて行くものですから、あまりの可愛らしさについつい捕まえてしまいました」
 子牛とはひどい例え方をされているが、そんな気分だったのは確かだ。
 カルダノは明らかに不快そうな表情を浮かべてその男に聞いた。
「……貴殿は?」
「空軍大尉のヴィート・エヴァンジェリスティと申します」
 その名を聞いて、カルダノの瞳に侮蔑の色が浮かぶ。
「ふむ……貴殿がかの『英雄』か」
 カルダノは満足そうに目を細めたが、胸をそらすその姿はどこか高圧的だ。
「大尉とは色々とお話したいこともあるが、今は急いでいるのでな」
 そしてカルダノはギラギラとした瞳でクリスを射すくめた。
「殿下、参りますよ」
 カルダノは手を差し出したが、クリスは身を縮こませてエヴァンジェリスティに寄り添った。もうカルダノについて行く意思がないことの表れだ。
 エヴァンジェリスティはクリスをその背に隠すように一歩前に出た。
「どうやら殿下は私と踊りたいようですよ。大臣には申し訳ありませんが、殿下のダンスパートナーの座をお譲りください」
「しかし殿下は……」
「大臣……女性にしつこくすると、嫌われてしまいますよ」
 エヴァンジェリスティはおどけて言った。
 周りにいた淑女たちが、カルダノを見てクスクス笑い始める。居たたまれなくなったのか、カルダノは顔を真っ赤にしてエヴァンジェリスティを睨みつけた。
「……この『悪魔』が」
 吐き捨てられたその言葉はエヴァンジェリスティの代名詞などではなく、明らかな侮蔑の言葉だった。
 クリスは怒りがこみ上げるのをはっきりと感じた。だが目の前のエヴァンジェリスティは何も言い返さず、ただ微笑むばかりだ。
 もどかしくなって、クリスは彼を押しのけてカルダノの前に出た。
「大臣……大尉に対してのそのような口の聞き方は赦しませんよ。慎みなさい」
 毅然と言い放った言葉に、カルダノはもちろん、エヴァンジェリスティまでもが驚いて目を見張った。
「はっ……」
 弾かれたようにカルダノは頭を下げた。その額には冷や汗が浮かんでいる。
 この機に乗じてクリスは続けた。虎の威を借る狐ではないが、後ろにエヴァンジェリスティがいるだけで何だか強気になれる。
「私はこの方のところに行く途中だったのです。公爵夫妻へのご挨拶はまた後ほど、改めてさせていただきますわ」
「し、しかし公爵夫妻はヴォルガ皇帝陛下の……」
「ランバルドはヴォルガの属国ではありません」
 クリスはピシャリと言い放った。
 怯むカルダノに対して、周囲からは小さな拍手が巻き起こる。ヴォルガに対する国民と政治家の意識に大きな隔たりがあることの表れだ。分が悪いと感じたのか、カルダノは苦りきった顔で一礼すると、足早にその場を立ち去った。
 一息つく暇もなく、クリスは周囲の貴族や招待客から次々と称賛の声をかけられた。口にしたくてもできない言葉をクリスが代弁してくれたことに、皆胸がすく思いだったのだろう。
 それが一段落して、ようやく後ろを振り返ると、エヴァンジェリスティはそこにとどまって待っていてくれた。というよりは、また女性たちに取り囲まれて引き止められていると言った方が正しいだろうか。
 自身を見つめるクリスに気づいたのか、彼は淑女たちに断りを入れながら人ごみをかき分けるようにして出てきた。引く手数多の様子には、助けてくれた礼よりも先に皮肉が口を突いて出てしまう。
「随分とおモテになるのね」
 クリスが苦笑すると、エヴァンジェリスティは服装と姿勢を正し、敬礼を捧げた。濃紺地に袖口の金ラインが眩しい礼装は凛々しく、フライトジャケット姿も似合ってはいたが、華やかな雰囲気の彼にはこちらの方が似合うような気もする。
「いえいえ……ご人望の厚い殿下の人気にはかないませんよ。それはそうと、先日は大変失礼をいたしました」
「どうやら銃殺刑にはならなかったようね」
「殿下のお口添えがあったからこそですよ。あの後、殿下から私を弁護する旨の通達があったそうで……銃弾の代わりに、准将から言葉の銃殺刑を受けましたがね」
「身体に風穴開かなかっただけ良かったわ」
「ついでにこの顔に傷がつかなくて良かったです。戦争中も必死で守った顔に傷をつけられるのは忍びないですからな」
 軽く噴出すと、彼も相好を崩した。
 ひとしきり笑って、やっと素直になれる。
「……助けてくれてありがとう」
 はにかみながらそう言うと、彼は首を捻った。
「はて……私は何もしていませんが?」
「でも……」
「私は大臣から可愛い子牛を横取りした悪い『悪魔』ですよ」
 エヴァンジェリスティはどこまでもとぼけるつもりらしい。それが彼なりの女性に対する優しさなのだろう。
 礼の代わりにクリスはスッと手を差し出した。
「……踊ってくださる?」
「ええ、もちろん」
 エヴァンジェリスティはその手を取り、ボールルームの中央へとクリスを導いた。
 優雅なワルツにあわせてステップを踏む。こういう場には慣れているのか、さり気ないリードがうまい。見た目よりもがっしりとした腕と肩の感触に身体を預けていると、不思議な安心感があった。
「……あなたがあの『不死身の悪魔』だったとはね」
 踊りながら、エヴァンジェリスティを見上げてクリスは言った。
「おや、ご存知ありませんでした? だからこそあのようなもてなしを受けられたのだと思っていたのですが」
 至近距離で見る彼の笑顔にどぎまぎしてしまう。クリスは慌てて視線をそらした。
「だって、もっと怖そうな軍人さんだと思ってたから……あなたも人が悪いわ。そうならそうと言ってくれればいいのに」
「空から『不死身の悪魔がやってきましたー』と叫べばよかったですか?」
 答えに窮していると、彼はニヤリと笑って見せた。してやったりという顔だ。
 クリスは諦めて話題を変えた。
「空の勇者も今は地上勤務なんですって? それなのにあの日はどうして飛行機に?」
 エヴァンジェリスティは自嘲気味に頬を歪めた。
「実は……地上勤務に飽きて、どうしても空を飛びたくなったんです。それで一機無断拝借して飛び立ったところまでは良かったんですが……上空千メートルでエンストしてあのざまですよ。まったく、面目ないです」
 それでもさしたる処分もなく、こうやって名代を務められているのは、それだけ戦時中の彼の働きがすごかったということなのだろう。
「さすがは『不死身の悪魔』と言うべきかしら。でも地上じゃ悪魔というより『種馬』らしいわね。さっきクローチェ中将が仰ってたわ」
「中将が殿下にそんなことを?」
 あまりのモテっぷりに、彼をひがむ同僚たちがそう呼んでいるそうだ。
「ユニコーンのエンブレムも形無しね。今度は馬のエンブレムにしたらいかが?」
 クリスとしてはやり返したつもりだが、彼は余裕ある笑みを崩さない。
「殿下……ユニコーンという生き物は見た目の美しさばかりが強調されていますが、実は非常に獰猛で恐ろしい生き物なんですよ。どんな相手にも臆することなく、その美しく鋭い角で相手を突き刺して八つ裂きにしてしまうんです」
 まるでエヴァンジェリスティの乗る戦闘機そのものだとクリスは思った。彼は華麗な戦闘機動で相手を惑わし、機銃の鋭い一撃で並居るヴォルガ軍機を次々と撃ち墜としていったという。
「捕まえて飼い慣らそうにも絶対に服従しない、そんな凶暴なユニコーンを手なずけることができる唯一の方法──ご存知ですか?」
 クリスが首を横に振ると、彼はニッコリ微笑み、耳元に顔を近付けてきた。
「──処女ですよ」
 耳朶をかすめるささやき声。クリスは顔が熱くなるのを感じた。
「清らかな乙女に魅せられたユニコーンは自らの獰猛さも忘れて、おとなしくその腕に抱かれて眠るのだそうですよ」
 エヴァンジェリスティはどこか満足げだ。自らが乙女の腕に抱かれて眠るユニコーンだといわんばかりに、たおやかに緩やかにワルツのステップを踏み続ける。
 何か言い返したかったはずなのだが、言葉が喉に詰まって出てこない。代わりに胸の奥から熱いものがこみ上げてきて、クリスの唇から吐息が漏れた。
 ワルツの音楽が途切れ、二人のダンスは終わりを告げた。
 足を止めたクリスはキョロキョロと辺りを見回し、それから彼の瞳をまっすぐに見つめて言った。
「お願いがあるのだけれど、よろしいかしら?」
「何なりと、殿下」
 背伸びして、エヴァンジェリスティの耳に何事かささやく。彼は驚いていたが、すぐに神妙にうなずいた。
「……お願いできる?」
「簡単すぎて、ご恩返しにもならないほどですよ。そういうのは得意ですから」
 笑って胸を張るエヴァンジェリスティが、妙に頼もしかった。

「……誰もいない?」
「大丈夫ですよ」
 柱の陰に隠れていたクリスは、エヴァンジェリスティに促されて姿を現した。忍び足で薄暗い回廊を渡り、外に飛び出す。
 そこは王宮の裏庭だった。敷石を避け、靴音を消してくれる枯れた芝生の上を歩く。見上げれば澄んだ夜空に月はなく、無数の星だけがその存在を主張して瞬いていた。
「本当によろしいので? 殿下がいなくなったとわかれば騒ぎになりますよ」
 彼は困ったように微笑んでいたが、クリスはキッパリと言った。
「いいのよ。私がいなくなったって何の支障もないわ。それに晩餐会の主役はお役人たちなんだし」
 王室主催の舞踏晩餐会とはいえ、ほとんど政治の一環のようなものだ。華やかな雰囲気の裏で政治家たちの権謀術数渦巻く駆け引きが行われていることは、先ほどのカルダノを見れば一目瞭然である。
「彼らにとって、王室はあくまでお飾り。でもお飾りにはお飾りなりの矜持ってものがあるでしょ?」
「それが舞踏会からの逃亡ですか?」
「……わがままかしら?」
 エヴァンジェリスティを振り返ると、彼は首を横に振った。
「わがままは女性の特権ですよ。男にはそのわがままに付き合う義務があるのです」
「ありがとう……あなたにそう言ってもらえると、少しは救われるわ」
 舞踏会のざわめきが遠く彼方に聴こえる。
 夜の裏庭には灯りもなく、月もない今夜は部屋の窓から漏れてくる淡い光だけが頼りだ。夜が更けて一段と冷え込んだ空気に、クリスはむき出しの肩を抱いて震えた。
「殿下、これをどうぞ」
 エヴァンジェリスティは自分のジャケットを脱ぎ、クリスの肩にかけた。
 ふわりと香る香水の中に、微かに混じる彼自身の匂い。胸がドキリとする。
「ありがとう。でもあなたは寒くないの?」
「これでも一応軍人ですから」
「……あなたって不思議ね」
 素直にそう思った。
 白いシャツにボウタイ、ウエストコート姿となった彼はますます軍人には見えない。立ち居振る舞いは洗練されていて、どこぞの貴族だと名乗っても不思議はないだろう。
 けれど、時折見える瞳の中の鋭い光は、彼が数々の死線を潜り抜けた『不死身の悪魔』であることを思い出させる。
「そうですか? 私は殿下の方が不思議なお方だと思いましたが」
 そう返されて、クリスは驚いてエヴァンジェリスティを見た。
「私? 私は何のとりえもないただの王女、お飾りの人形よ」
「私も実際にお会いするまではそう思ってましたがね」
 彼は含み笑いを浮かべた。
「空から降ってきた闖入者にお茶を出したり、ワルツを踊りながらどぎついジョークを言ってみたり。果てには舞踏会から逃げ出してしまったり、実に生き生きとして人間味に富んでいる──そうかと思いきや、気高き威厳を持って大臣を叱り付けたり、陛下の横に立つお姿は神々しく眩しいくらいでした。どれが殿下の本当のお姿なのでしょうか……けれど少なくとも、今目の前に立っていらっしゃる殿下は飾り物の人形などではありませんよ」
「それは褒め言葉として受け取っていいのかしら?」
「もちろんですよ」
 クリスは微笑んで見せたが、夜空を見上げて白いため息を漏らした。
「でもやっぱり私は人形なのよ。自分では何にもできない、飾り物のお人形さん……情けなくって悔しい……」
 かすれるような呟き声は、白い息と共に夜の空気に溶けていく。
 遠くから聞こえていた楽団の音楽が途切れ、一瞬の静寂が訪れる。その間隙をつくように、エヴァンジェリスティの声が響いた。
「……何かあったんですか?」
 察しのいい男だ──とクリスは思った。そうでもなければ女性の人気を集めることはできないかもしれない。けれど今はそれがありがたかった。
 クリスは花壇の前にしゃがみこんだ。一輪だけ咲いていたコスモスの花が目の前で寂しそうに揺れている。その花に手を差し伸べ、語りかけるようにクリスは口を開いた。
「縁談の話が来てるの──相手はヴォルガ皇帝イヴァン三世の甥に当たるベルンハルト皇子ですって。いずれこういう日が来るとは思ってたけど……実際に来てみると、ね」
「ショックでしたか」
「ショックっていうか……私なんてまだまだ未熟者で、やっと大人への入り口に立てたかなって思ってたくらいなのに、それが急に結婚だなんて、何だか実感がわかないのよ」
 降ってわいた話ではなく、実は前々からそういう話はあった。だが正式に話を出されて、クリスは自分の意思とは関係なく大人の仲間入りをしていたことを否応なしに痛感させられた。
「あまり乗り気ではないようですね」
「乗り気じゃなくても、私には断る権利はないのよ。向こう側の強い要望みたいで……万が一断れば何されることか……最悪また戦争ってことになるでしょうね」
 そもそもこの話は父ではなく、政府親ヴォルガ派から出されたのだ。あのカルダノは特にこの縁談を強く推している。
 いまだに国内での独立戦争をいくつも抱え込んでいる軍事大国ヴォルガ。
 冬戦争では痛みわけに終わったが、現実として宗主国的なヴォルガの皇子と姻戚関係を結び、良好な関係を保っておくことが、このランバルドの確かな存続の道だと彼ら政治家はクリスに説いた。だがそこに綺麗事だけでは済まされない彼らの様々な思惑が渦巻いていることもクリスは知っている。
「結婚するのはいいのよ。王族の女には血統を残していくという大事な仕事があるのだし、そのためには誰であろうと伴侶が必要だもの。でも……でもね」
 クリスはコスモスの花を手折り、立ち上がった。その頬はコスモスの花びらと同じほのかなピンク色に染まっている。
「欲を言えば……好きな人と結婚したかったなあって。ううん……それ以前に、私、ちゃんとした恋をしたかった。自分じゃない誰かを本気で好きになるってどんなことなのか知りたかった……」
 王女に生まれ、次期女王の地位にある自分にそれは赦されない事なのかも知れない。だが人に生まれ、女に生まれて、それを望むのは必然なのではないかとも思う。
 けれども、自分は臆病者だ──
 王宮の喧騒を避けて一人冬宮殿に閉じこもり、『白馬の王子様』が向こうからやってくるのを待つばかりだった。
 傷つくのがイヤで自ら逃げ出しておきながら、魅力的な男性に巡り会えなかったことを不運のせいにして、ここで待っていればいつか会えると都合のいいことばかり考えている。そんな自分の浅はかさを今更恥じたところでもう遅い。
 穏やかな日々に終わりを告げる婚礼の鐘が、もうすぐ鳴ろうとしている。
「できますよ、恋。いつだってできますよ」
 急にそう言われて、クリスは驚いて振り返った。
 声の主はポケットに片手を突っ込んで、夜空を見上げている。事も無げな言い方に、クリスはムッとして言い返した。
「そんなことできるわけないじゃない。私結婚するのよ? 夫がいるのにそんな……他の男性に……」
 こちらを向いたエヴァンジェリスティは、クリスの正論をあざ笑うかのように片頬を歪めていた。
「殿下──恋はしようと思ってするものではなく、気がついたら落ちてるものなんですよ。恋はいつでもどこでも、どんな時でもできるんです……いくつになっても、たとえ伴侶がいてもね」
 クリスはあっけに取られた。
 開いた口が塞がらなかったのは、呆れたのではなく、彼の言葉が圧倒的な説得力を持っていたからだ。
「結婚したからといって、恋ができないわけではない……殿下はこれを不貞とお嘆きになるかもわかりませんがね。自分の心を偽ることとどちらが罪かと問われれば、私は後者だと信じたい」
 クリスは彼の顔をしげしげと眺め、話に聞き入っていた。
 倫理に背くことはよくわかっている。けれど、自信たっぷりに語る彼の言葉を聴いていると、石を飲み込んだように重かった胸の内が、すうっと軽くなっていくような気がした。
「ものすごく納得させられてしまうのはなぜかしら……」
「お褒めにあずかり光栄です」
 エヴァンジェリスティはおどけたが、自由な恋愛を享受しているであろう彼の言葉だからこそ、心に響くものがあったに違いない。
「自分の心を偽る……か。本当はね、愛のない結婚なんかしたくないって大声で叫びたかったの。でも王女として、そんな自分勝手なことはできない。ましてやランバルドがこんな状況にあって、結婚相手に注文つけるような真似なんてできない……」
『ランバルドはヴォルガの属国ではない』
 カルダノを叱責したこの言葉に偽りはない。だが現実問題として、ヴォルガの干渉を受け続けていることは事実であり、背けば敵対行為とみなされて再び侵略される危険に晒されてしまうのだ。 
 王女である自分の振舞い一つで国の平和が左右されてしまう。政治家たちに利用されているとわかっていても、そう簡単に利己的にはなれないのだ。
「あなたの話を聞いていたらすごく気が楽になった。たとえ気休めでも、そう思えるだけでも心強いわ。ありがとう……縁談がまとまって結婚することになっても、私、きっと素敵な人を見つけて恋をするわ」
 吹っ切れたようにクリスは笑ったが、エヴァンジェリスティは対照的に苦笑いを浮かべていた。
「素晴らしい心がけだとは思いますがね。ですが殿下──殿下はまだお若いのですから、もっとわがまま言ってもいいと私は思うのですよ。叫びたかったら叫べばいい。若いうちから色々と我慢しすぎると、あっという間に老けてしまいますよ」
「やだ……でもそんな……」
 急に──エヴァンジェリスティの顔が眼前に迫った。
 藍色の瞳の中に映る自分の顔。胸の高鳴りは何かを期待するようだ。
「あ──眉間にシワ」
「え?」
 慌てて眉間に手をやると、彼は声を上げて笑った。
「冗談ですよ。殿下はいつだってお美しい……」
「ちょっと、あなたって人はもうっ!」
 クリスは頬を膨らませたが、すぐに吹き出した。
「本当にあなたって面白いのね……私、あなたにもう一つお願いしたいことがあるの」
「何ですか?」
「あのね……」
 言葉を遮るように、遠くからクリスの名を呼ぶ声が響いてきた。それも一つではない。
「クリス様! どこにいらっしゃるんですか!」
 侍従たちだ。とうとう逃亡がバレてしまったらしい。
「早くお戻りになった方がよろしいですよ」
「んもう……しょうがないわね」
 クリスはエヴァンジェリスティのジャケットを脱ぎ、礼を言って彼に返した。ジャケットを着なおした彼の胸元に手折ったコスモスの花を差し込みながら、クリスは彼の顔を見上げた。
「……また冬宮殿に遊びに来てくれないかしら。色々とお忙しいとは思うのだけど」
「ありがたくお誘いを受けたいところなんですが、一応仕事のある身ですし、怖い上司が何と言うか……」
「准将にはこちらから話をつけておきますよ。それともう一つ、遊びに来てくれたら、あなたが地上勤務から現場に戻れるよう参謀総長にお願いしてあげる」
「えっ」
 初めてエヴァンジェリスティの顔色が変わった。驚きの中に期待と不安が入り混じる、複雑な表情だ。だがそれはすぐに含み笑いに変わった。
「……それは取引ということですか?」
「そう取ってもらっても構わないわ。あれだけモテるあなたですもの。こうでもしないとお時間取ってくれないでしょ?」
「そんなことはありませんよ。殿下のような美しい女性のためならいつでもどこでも馳せ参じますよ」
「それ、出会う女性みんなに言ってるんでしょ」
「そうやって疑われてしまうのが色男の辛いところでしてね。ですがせっかくのお申し出です。ありがたく受けさせていただきます」
「取引成立ね」
 手を差し出すと、エヴァンジェリスティはその手を握り返した。
 大きく、暖かい手──踊る時に手を取り合ったはずなのに、改めて握手するとその力強さを感じて少しだけ狼狽してしまう。
「では……えーと……エ、エヴァンジェ」
「長ったらしくて呼びづらい名前でしょう? これからはヴィートとお呼びください」
 親しい間柄というわけでもないのに、彼をファーストネームで呼ぶというのは少し気恥ずかしい。
 なるほど、とクリスは一人合点した。
「……そうやって女性と親密な関係を築いていくのね」
 意地悪っぽく見上げると、彼は愛想笑いを浮かべて頭を掻いていた。
「気のせいですよ。まったく、殿下にはかないませんな」
「では、また今度。付き合ってくれてありがとう」
 ドレスの裾を翻して芝生を駆けていこうとしたクリスを、エヴァンジェリスティが呼び止めた。
「殿下──言い忘れていたことが」
 振り返ると、彼は胸のコスモスの花を指差していた。
「コスモスの花をむやみに男性に贈るのは、お止めになった方がよろしいかと思いますよ」
「えっ、なぜ?」
「コスモスの花言葉はね、『乙女の純潔』って言うんです」
 クリスは顔を真っ赤にして、エヴァンジェリスティのもとに駆け寄った。そしてひったくるようにしてコスモスの花を奪うと、また踵を返して駆けていった。
 どうもエヴァンジェリスティの前では自分が自分でなくなるようだ。ものすごく饒舌で毒舌になってみたり、感情が制御できなくて露にしてしまったり。優位に立ったつもりでもいとも簡単に崩されてしまう。
 回廊に戻る一歩手前で、クリスはもう一度振り返った。
 だが彼の姿は見えなかった。いつの間にか薄く立ち込めていた夜霧が、彼の姿をベールの向こうに隠してしまっていた。
 不意に訪れる、一抹の寂しさ。姿が見えなくなった途端、もう何年も彼に会っていないような不思議な懐かしさに襲われる。
 クリスは手にしたコスモスをドレスの胸に飾った。言いようのない気持ちを置き去りにして、クリスは暗い回廊へあがり闇の奥へと消えていった。




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