冬に咲く花、春を待つ空


    雪 月

 半月ぶりに見た父パオロ二世の顔は、少しやつれてはいたものの血色はよく、心配していた風邪も多少良くなったようだった。
 ランバルド西南の都市ルッカにある離宮へ旅立つという父と母を見送るため、クリスは王宮へと出向いてきていた。
「お父様お母様、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
「向こうはここよりもずっと暖かいからな、しっかりと静養してくるよ」
「ねえクリス、今からでも一緒に行かない?」
 母である王妃ユーディトは後部座席の窓から心配そうな顔をのぞかせたが、クリスは黙って首を横に振った。心配性の母のことだ。今は離れて住んでいても、自分たちが遠くに出かけるとなると途端に一人娘のことが気がかりになるらしい。
「そう……では留守を頼みますよ」
 窓が閉められ、車は通用門を出て近くの駅へと向かった。ルッカまでは王室専用列車での旅となる。
 門を出て行く車を見送って、クリスは通用口から王宮の中へと戻った。公務の打ち合わせが入っていたので、冬宮殿に帰る前に片付けていかねばならない。
 直線状の長い廊下は所々ランプで照らされ、薄暗い中で伝統ある歴史の色を醸しだす。
 国王パオロ二世の居城であるランド宮殿は、さすがにクリスの住む冬宮殿とは比べ物にならないほどに大きい。ここは国王の公邸であるのと同時に執務の場でもあり、歴史ある建物の中に執務室のほか接見室、音楽堂、ギャラリー、舞踏会場、晩餐広間などの公式の場があり、さらに百近くの客間が存在する。
 庭園も、落ち着いた雰囲気の冬宮殿とは対照的に、国王の居城としてふさわしい絢爛さに満ち溢れている。ヴィートと一緒に逃げ込んだあの裏庭はその中でも寂れたほうで、まだ幼いクリスがここに住んでいた頃、勉強がイヤでよくあの裏庭に隠れていた勝手知ったる場所だったのだ。
 ここには国王夫妻をはじめ、王族に仕える多くの侍従たちも同じ宮に住み込んでいる。政府関係者や職員などの公務に関する人員や、さらに招待客や諸外国からの訪問者などを含めると、目まぐるしいほどの人の出入りだ。その煩わしさに耐えられず、年頃になったクリスは一人冬宮殿に住まいを移した。
 王宮と冬宮殿は、車で十分ほどの距離である。歩いてもそう遠くない。公務があるたび、クリスは王宮に出向いている。
 すぐ近くとはいえ、一人家を出た形のクリスに、父や母は時々寂しそうな顔を見せる。クリスとて両親と一緒に住みたくないわけではない。
 だが王宮にいる全ての人間が、自分に好意を持つ人間とは限らない。隙あらばつけ込み、自分を利用しようとする輩もいないとは言えなかったのだ。その目に冷たい光を宿して隙をうかがう肉食獣のような、そんな老獪な大人たちから逃げ出したい気持ちの方が強かった。
 我ながら、弱い人間だと思う。
 将来女王になるのだと言われても、どこか他人事で、公務にも積極的になれなかった。
 けれど、ヴィートに出会ってから、その心境に変化が出てきた。
 彼の華やかな見かけによらない人柄に触れ、英雄と呼ばれた『不死身の悪魔』の源流を知ったからだろうか。
 彼の昔話を通して、これからの自分が背負うものの大きさ、その重さを、改めて知った。
 この国を襲った戦争と言う名の悲劇の、その真実の姿を知ることで、自分が守るべきものが何なのかをしっかりと見据えられた、そんな気がする。
 あれからも度々ヴィートを宮殿に招いては、お茶会と称して色々な話を聞かせてもらっている。
 戦争の話だけではなく、飛行機や天候、空軍の組織や頑固頭の上司、果てはヴィートがこれまでお付き合いしたという女性の話まで、彼はどんな話でも面白おかしく語ってくれた。
 その巧みな話術は、彼が見てきた世界をクリスにも見せてくれる。
 自分の知らない世界を──一生見ることがないであろう世界をも垣間見れたような気分になれる。
 ヴィートと二人で話に華を咲かせるコンサバトリーでの時間は、クリスにとって何物にも代え難い至福のひとときになった。時が経つのも忘れてしまい、冬の早い日暮れが訪れてやっと過ぎ去った時間に気づくほどだ。
 気がつけば、彼の来訪を指折り数えて待っている。
 明日はその来訪の日。だからこそ母の誘いを断ってまでランバルディアに残ったのだ。
 侍従を引き連れて回廊を歩いていたクリスは、向こう側からやってくる白髪混じりの男が、満面の笑みを湛えてこちらを見つめていることに気づいた。
「これはこれは殿下……今日はこちらにおいででしたか。ちょうど良かった」
 三つ釦のスーツを折り目正しく着こなしたその男は、あのカルダノだった。よっぽど無視しようかと思ったが、そうもいくまい。仕方なく足を止めて挨拶をした。
「大臣、今日は何の御用ですの?」
 何となくはわかっているが、先制の意味も込めて聞いてみる。
「ベルンハルト皇子の海軍退役スケジュールが変更になりましてな。殿下との謁見の日時を少し早めることにいたしました」
 思わずため息が漏れそうになって、クリスは慌てて咳払いで誤魔化した。
「おや、お風邪でも召しましたか?」
「いえ、大丈夫です」
 カルダノは終始ニヤニヤとして、こちらを見下すような視線を送ってくる。同じ笑顔でもヴィートとはまるで違う。
「皇子は今はまだ駆逐艦の上ですが、直本国へ戻ってくるそうです。できれば夏辺りに婚約を発表し、次の冬には結婚の儀を執り行いたいところですなあ」
 自分の与り知らぬところで結婚の話は着々と進められているようだ。そこに自分の意思などあるはずもない。こちらの都合など聞かず、ヴォルガ側の意思ばかりを尊重する彼ら政治家は、この結婚が本当に国益につながると信じているのだろうか。
 彼らはクリスを王族だ次期女王だと奉っているが、心中では自分たちの野望成就のための道具としか考えてないことをクリスは重々承知している。ランバルドのためと言いながら、彼らはヴォルガにすり寄り媚びへつらうことで自分たちの地位を安泰のものにしようと画策しているのだ。結局は自分たちの利益を追求するのが目的なのだから、彼らの愛国心を疑いたくなるのも当然である。
「これで殿下がご世継ぎを産んでくだされば、ランバルド王室も安泰と言うものでしょう」
 まったく気の早い話だ。
 こちらがこの結婚に乗り気でないことを知っているはずなのに、嫌がらせとしか思えない発言である。
 この話は今までは父がやんわりと断りを入れてくれていたのだが、体調を崩すことが多くなって、強硬に推し進めようとする政治家たちの圧力にいつまでも立ち向かうことができなくなってしまった。一旦押し切られてしまったら、後はなし崩しだ。
 そして今は国王である父を差し置いて、彼ら政治家だけで話をどんどん進めてしまっている。父の影響力がここまで弱まっているのかと思うと、クリスは悲しくなってしまった。
「ええ……そうね」
 そう答えるのが精一杯だった。
 これ以上この話はしたくない。そう思って、クリスは「では」と軽く一礼してカルダノの脇を通り過ぎようとした。
「ところで殿下──最近冬宮殿の方に、頻繁に来客があるそうですね。なんでも軍の人間とか」
 クリスはハッとして足を止め、顔を上げた。
 真横でカルダノは意味ありげに片頬を歪めて笑っている。
「なぜ……」
 ヴィートのことを──そう続けようとして、クリスは慌てて口をつぐんだ。
 カルダノが言う来客がヴィートを指していることは明白だ。
 なぜ彼がそのことを知っているのか──だが今はそんな疑問よりも、彼が今ここでヴィートの話を持ち出した真意が何なのか、クリスは焦る頭で必死に探った。
「……彼はいいお友達よ」
 つまるところ、カルダノは牽制しているのだ。
 言い返しはしたが、彼の顔を見ることはできなかった。
 顔を背けた自分の頬に、カルダノの視線が突き刺さる。口元に笑みはあるが、その目は決して笑っていない。
「もちろん、殿下ともあろうお方が一軍人と間違いを起こすような真似はなさらないかと思いますがね……いや、奴も軍人。殿下に近づくことで、何か良からぬことを考えているやも知れません。もしかしたら殿下をそそのかそうと──」
「彼はそんな人じゃないわ」
 そう言って睨み返してきたクリスの剣幕に驚いて、カルダノは一瞬言葉を詰まらせた。
 だが彼はすぐに態勢を立て直し、優位を際立たせるように背をそらせてクリスを見下ろした。
「……とにかく、殿下はご婚約を控えた御身なのですから、くれぐれもご用心下さいませ」
 自分は何一つ間違ったことをしていない。なのになぜこんなにも屈辱的な気分を味わわせられなければならないのか。
 クリスは腹立たしくなった。カルダノを真正面から見据え、胸を張って王女として精一杯の威厳を見せ付ける。
「進言痛み入ります。ですが心配は無用です。自分の立場はわきまえていますから」
 落ち着いた、迫力のある声。睨みをきかす漆黒の瞳が冷たい光を放つ。
 たじろぐカルダノを捨て置くように、クリスは歩き出した。背後で彼が深々と黙礼しているのにも構わずに、硬い靴音だけを残して回廊をただひたすらまっすぐに進んで行った。

   ◇ ◇ ◇ ◇

 冬晴れの空は雲一つなく、どこまでも青く澄み渡っている。
 それだけに今朝の冷え込みは厳しかったが、日が高々と昇って日光が降り注げばこのコンサバトリーは暑いくらいの温度になる。薄いブラウスにスカートという出で立ちで十分なほどだ。
 この天気だと、父と母が滞在するルッカはこのあたりの春くらいの気候になっているのではないだろうか。温暖な気候のルッカは年間通して雪もほとんど降らず、この時期でも屋外に咲く花が途切れることがないと聞く。
 テーブルの上で頬杖をつき、雪深い庭園を見つめていたクリスは、もうすぐやってくるヴィートを心待ちにしながら、一方で憂鬱な気持ちを抱えていた。
 昨日のカルダノとの一件が、小さな棘となって胸に刺さっている。
 ヴィートは気が置けない友人の一人。それ以上でもそれ以下でもない。お互いにそれぞれの立場を理解し、尊重して付き合っているつもりだ。
 ヴィートとは月に数度、ここで楽しくお喋りに興じているだけ。
 カルダノの言うことなど余計なおせっかい、気にしなければいいだけの話だ。何も後ろめたいところはない。
 なのに──この胸に広がる疚しさにも似た甘い痛みはなんだろう。
 女性には手が早いと評判の彼だが、クリスの前では努めて紳士的である。時にきわどい冗談を言ってクリスを驚かせたりからかったりするが、口説くようないわゆる「手を出す」ことは決してしない。王女としてのクリスを敬ってくれているのか、それとも単に女性として興味がないのか……
 どちらでも構わないけどね──そこまで考えて、クリスは自分が少し怒っていることに気づいた。眉根を寄せた不機嫌そうな顔が、窓ガラスに映っている。
 これではヴィートが手を出してくれないことが不満みたいで、みっともないしはしたないではないか。仮にも王女、カルダノの言葉ではないが婚約を控えた身だというのに……
『恋はいつでもどこでも、どんな時でもできるんです……いくつになっても、たとえ伴侶がいてもね』
 頭の中で、ヴィートの言葉が繰り返される。
 この結婚がランバルドの平和につながる──そう信じることだけが救いだった。
 人並みの幸せを求めることなど許されない。身も心も国に捧げよ──そう言われている気がして、クリスの心は追い詰められ頑なになっていた。
 だが彼のあの言葉は、不思議なことに重荷に縛られた心を解き放ってくれた。たとえ道理に背くものだとしても、その言葉に勇気付けられたことは確かなのだ。
 でも、今までそんな相手が見つからなかったのに、これから先好きになれる相手なんているのだろうか?
 恋はしようと思ってするものではなく、気がついたら落ちているもの──ヴィートはそうも言った。
 気がついたら……
 クリスは母の話を思い出した。前に聞いたことがある。父と出合った時のことを。
 父と母は王族には珍しい恋愛結婚だったのだ。元々縁戚関係にあり、一応は見合いという形を取っているが、当時すでに国王だった父と、とある貴族の音楽会で顔を合わせた母は一目で恋に落ちたのだと言う。
『気がついたら、陛下のお姿ばかり目で追っていたのよ。見ているだけで胸がドキドキして苦しくなって……でもそれがまた心地いいのよ。それからはもう寝ても醒めても陛下のことばかり。次はいつお会いできるかしらとかね。うふふ……いつの間にか恋に落ちてたわ』
 頬を赤く染めて笑う母ユーディトが少女に戻ったかのように可愛らしかったのを覚えている。
 母の言葉を思い出しながら、クリスは何か既視感のようなものを覚えた。
 何だか……似ているような?
 突然、クリスは勢いよく立ち上がった。考えることをやめたのだ。
 折り良くエレナがヴィートの到着を告げに来た。ふと頬が熱く感じて、クリスは冷たい指先を当ててその熱を冷まそうと躍起になってしまった。

「現場に戻れることになりました」
 ヴィートの言葉に、クリスは飲もうとしていた紅茶で火傷しそうになった。
「そ、そう……おめでとう」
 確かに一月前には空軍参謀総長に彼の現場復帰を打診している。だが思っていたよりも随分と早い配置転換だ。
 目の前に座るヴィートは、静かに紅茶に口をつけた。セピア色の髪が陽光を受けて煌き、心なしか浮かべる笑顔まで眩しく見える。
 カップをソーサーに置き、彼は目を伏せて言った。
「……スティーアに行くことになりました。新設される中隊の中隊長を拝命することになりましてね」
 クリスは今度こそカップを落としそうになって、テーブルクロスに紅茶を少しこぼしてしまった。
 スティーアと言えばここランバルディアから遠く離れた南東の都市、しかもヴォルガに最も近い、いわば前線基地だ。
 彼がパイロットに復帰できるのは喜ばしいことだが、まさかそんな遠い基地に行ってしまうことになるとは……
 クリスは激しく動揺している自分に気づいていた。
「ここに来るのは今日が最後になりそうです」
「今日が最後って……いつ向こうに?」
「来週です」
 クリスは直感的に、カルダノのあの嫌味たらしい顔を思い出していた。この急な異動話には、政府親ヴォルガ派の意向が強く働いているような気がしてならない。
「そう……そうなの……」
 クリスにはそれしか言えなかった。
 それきりお互い言葉を失って、黙って紅茶を飲むしかなくなってしまった。
 考えてみれば、軍人が一つの基地に長年居座る方がおかしい。ましてや地上勤務からパイロットへの配置転換ともなれば、基地が変わることは十分考えられることだ。
 ヴィートにとっては長年待ち望んだ空への本格的な復帰、喜ばないはずがない。彼が最も彼らしくあれる場所──あの広い大空へ、ヴィートは還って行くのだ。
 それが彼の幸せなら──クリスはそう願わずにはいられなかった。
 互いのカップが空になった頃、ヴィートはおもむろに口を開いた。その目は庭園をじっと見つめている。
「殿下、外に出ませんか」
「えっ、でも雪が……」
「ここは冬が一番美しい庭園でしょう? 足を踏み入れたのはパラシュートで降りたあの日だけですし、見納めに案内してくださいませんか」
「……そうね」
 二人は席を立つと、それぞれのコートを着こんで外へ出た。
 外は日が傾き始め、西日が薄く雲をかけて柔らかい光を投げ落としている。アイボリーブラックのウール製ミリタリートレンチコートに身を包んだヴィートは、庭園の中心に立ち、辺りを見回して感嘆の白い吐息を漏らしていた。
 夏には、芝生と草木が織り成す緑の濃淡に色鮮やかな花々が彩りを加えるこの庭園。全ての生命がその命を燃やしつくさんと、眩しいばかりにそれぞれの色を主張する夏とは対照的に──
 冬の庭園は、白と影の世界だ。
 何もかもが雪に覆われて、その陰影が作り出す光景にまるでモノトーンの世界に迷い込んだような錯覚を覚える。
 雪の間からわずかに顔をのぞかせる常緑樹の黒にも近い緑。背の高い樹木には霜が降って、細い枝が薄いヴェールを被るかのように神秘的だ。
 その色彩はまさにランバルドの原風景。凍てつく冬をも甘受し、古くから大自然の中で生きる喜びを噛み締めてきたランバルド人なら誰もが心を震わせる風景のはずだ。
 それでいて、背後には中世に建てられた歴史ある冬宮殿がそびえ立ち、庭園の外周を石造りの防壁がぐるりと取り囲む。舗道も植栽も幾何学的に配置され、ここが人工的に作られた空間で芸術の一部であることを忘れさせない。
 全ての生命が眠りについたかのように、静まり返る庭園。外界の音も閉ざされて、ここだけ空間が切り取られたみたいだ。
 光を乱反射して、雪と氷の世界が輝く。
 それは春のような力強さではなく、夏のような激しさではなく、秋のような寂しさではなく、あくまで優しい、柔らかな煌き──
「美しいですね……」
 ヴィートはその美しさを目に焼き付けるかのように、ゆっくりと庭園を見回している。
 雪に溶け込むようなスノーホワイトのカシミアコートを身に纏ったクリスは、そんな彼の横顔をじっと見つめていた。
 この庭園にヴィートが舞い降りてきたあの日から二ヶ月余り。季節は進み、庭園も真冬になって大きく様変わりしてしまった。
 確かに今が一番美しい時期だけれど──庭園の四季を全て、彼にも見せてあげたい。
 スティーアは遠いが、飛行機ならまさにひとっ飛びだろう。まとまった休暇が取れたら、自慢の飛行技術でここに飛んでくればいいのだ。
 春がくれば、この雪の下でしばしの眠りについていた草木たちはいっせいに芽吹き始め、白一色だった庭園は萌黄に色づき始める。辺りには土の匂いが立ち込め、目覚めた樹木たちがその花を咲かせ始める。桜、木蓮、ライラック……
 ヴィートは友人の一人。婚約が間近に迫っていても、この庭園を再び案内してあげるくらいのことはできるはずだ。夏も、秋も、そうやってここを見せてあげよう。
 けれど、次の冬が来る頃には──
「殿下」
 名を呼ばれて顔を上げると、ヴィートがすぐ目の前に立っていた。
「実は……殿下にどうしても申し上げたいことがありましてね」
 ヴィートは柔らかな微笑を湛えながらも、瞳の奥に鋭い光を忍ばせてクリスをじっと見つめていた。
 どこか真剣な眼差しに、クリスは息を呑む。
「……何かしら?」
「殿下のおこころざしを踏みにじるようで、大変申し上げにくいんですがね……」
 ヴィートは逡巡するかのように一度顔を背けたが、心を決めたのか、再びクリスを真正面から見据えた。
「ベルンハルト皇子とのご結婚は、おやめになった方がよろしいかと」
 息が止まりそうだった──
 それは心のどこかで期待していた言葉だった。期待しながらも、望んではいけないと自制してきた言葉だった。
 胸の動悸を抑えきれず、苦しくなって半開きになった唇から淡い吐息が漏れる。
「……それはあなたの個人的感情かしら? 皇子に嫉妬でもした?」
 冗談めかしてそう言うのがやっとだった。
「殿下を娶るなんて幸せな男は、世の男の嫉妬を集めて当然ですよ。もちろん、私もそんな男の一人ですがね。ですがこれは王室のため、このランバルドのためを思ってのご忠告です」
 自分の中で、何かが急速にしぼんでいく。
 急に熱が冷めたように、クリスは冷静さを取り戻した。むき出しの手が冷え切って、手袋を忘れてきたことに気づく。
 いつの間にか、ヴィートの顔から微笑が消えていた。
「殿下とて、これがランバルドにとっての最良の道だとお思いになっているわけではありませんでしょう? 皆が皆、この結婚に賛同しているわけではないことを、殿下はおわかりになっているはずです」
 そんなこと──そう言いかけて、クリスは言葉を飲み込んだ。
 ヴィートの言う通りだ。
 何もかも一人で背負い込んだ気になっているが、王室の重鎮から結婚に対する反対の声が上がっていることは確かなのだ。クリスにごく近い人物は言わずもがな、エレナなどは仕組まれた政略結婚に怒り心頭で、冬宮殿に来る政府関係者を鋭く睨みつける始末である。
 だがここで政府の要求を突っぱねて、ただでさえ微妙な関係にある政府と王族、そして軍部のパワーバランスを崩し、ランバルド全体を混沌の渦に巻き込むことはしたくない。ヴォルガの圧政下にあって国内がバラバラになるようなことになれば、それはまさにヴォルガの思う壺ではないか。
 ましてや小康状態で落ち着いているヴォルガとの関係を悪化させ、「冬戦争の再来」などという事態に持ち込むのだけは絶対に避けたいところなのだ。
 ランバルド王室にヴォルガ皇家の血を入れることで、両国が適度な距離を保った良好な関係を結べるのなら──
 クリスはそう思って、苦々しい想いを噛み締めながらこの縁談を了承したのだ。その想いは王室、政府共にわかっているはず。いや、王室には友好的な軍部だって知っているはずだ。なのに……
「強がるだけが、この国を守る方法ではありませんよ」
 そう言うヴィートはやけに老成して、クリスは子ども扱いされたようで気分が良くなかった。
「……あなたに何がわかるのよ」
 人の気も知らないで──
 ふてくされたように、クリスはそっぽを向いた。その仕草がまた子どもっぽいことに気づいて、ヴィートの視線から完全に逃れようと背を向けてしまう。
 クリスは投げやりになって言った。
「じゃあどうすればいいって言うの? またヴォルガと戦争しろとでも?」
「……私を含め、ランバルド軍は国王陛下、そして殿下のためならいつでも命を捨てる覚悟にございます」
 そんな建前を言って欲しいのではない。
 クリスは段々と悲しい気持ちになっていった。
「ランバルドの行く末の鍵を握るのは殿下なのです。この国の真の平和を望むのなら、ヴォルガに下るのではなく、ヴォルガともう一度戦うべきだと私は思います」
 ヴィートは淡々と、ただ事実を述べるだけで、そこに何の感情もうかがえない。
 たまらなくなって、クリスは彼を振り返った。
「そんなに戦争がしたいの? あなたは好んで戦うような人ではないと思ってたけど? まさか冬戦争のことを忘れたわけではないわよね」
「それはもちろんです」
 ヴィートは神妙な面持ちでうなずいた。
『この罪を、一生背負って生きていくのです』
 彼は述懐をそう締めくくった。
 その目で血塗られた戦争を見てきた彼の言葉だからこそ、クリスはそれを重く受け止め、決意を固めたのだ。
 ふと、クリスの脳裏に、昨日のカルダノの言葉が蘇った。
『奴も軍人。殿下に近づくことで、何か良からぬことを考えているやも知れません』
 まさか……
 カルダノの声が耳鳴りのように耳から離れない。
 彼を信じていた心が途端に激しく揺らぎ始める。言いたくない言葉を言って、聞きたくない答えを聞くのは怖かったが、それでもクリスはたずねずにはいられなかった。
「それは本当にあなたの考え? 誰かがあなたにそう言わせてるのではなくて?」
 ヴィートは答えなかった。
 ただ目をそらす彼を、クリスは絶望的な思いで見ていた。
「……そうなの? 最初から私をけしかけるつもりで近づいてきたの?」
 焦れる気持ちを抑えても、口調はどんどんきつくなる。それでも答えないヴィートにクリスは苛立ちを隠せなくなった。
「答えなさい!」
 感情に任せて問い詰めた大声は静かな庭園に波のように広がり、そして消えた。残ったのは、静けさの中に響く息遣いの音だけ。
 ヴィートは穏やかな微笑を湛えたまま目を伏せていたが、やがて大きな息を一つ吐くと、ゆっくりと口を開いた。
「……確かに、私は将校たちから極秘裏の指令を受けています──ヴォルガとの開戦を決断するよう、殿下を説得しろと」
 聞きたくなかった事実──動揺を隠そうと、クリスは精一杯頬を歪めて見せた。
「お父様……陛下が動かないのなら、娘の私から切り崩そうというわけね。見くびられたものだわ。飛行機が壊れて飛び降りたって言うのも嘘だったのね」
「冬宮殿に降りたのは本当の事故ですよ。ですがあの事件をきっかけに私が殿下とお近づきになったことを知って、将校たちは千載一遇のチャンスと考えたのでしょう」
 軍とて一枚岩ではない。何とか王室を動かそうと、彼に厳命を下した国粋主義者が将校の中にいてもおかしくはないだろう。
 カルダノはそうした動きに気付いていたのだ。だからこそ軍の人事に口を出すなどという越権行為を犯してまで、ヴィートを遠く離れた場所に異動させたのだろう。
 何も知らなかったのは自分だけ……これではまるきり道化ではないか。
「ですが……私はなかなか決心がつかなかった。この国の平和を心から願う殿下のお心に触れてなお、新たな戦争でランバルドをさらに痛めつけるなどという殿下にとって辛いお話をするなど……殿下を騙すつもりなど、毛頭なかったのです。これだけは信じてください」
「ではなぜ……!」
「これはあくまで私個人の考え──将校からの命令などではない、私の心からの強い思いです……が、私を含めた全国民が望んでいることだとも思っています。国民からこれだけ厚く信奉されている王室です。誰の目にもヴォルガの圧力に屈したと映るような政略結婚を、国民が望んでいるとでもお思いですか? ランバルドの象徴たる王室、その未来の女王である殿下が、真の幸せを掴むことがひいてはこの国の平和につながると皆祈っているはずです」
「あなたの言葉の何を信じろというの? 何が私の幸せよ……何も……知らないくせに」
 ヴィートが嘘をついていないことくらい、彼の目を見ればわかる。彼も辛い役回りを背負わされて、さぞ心苦しかったのだろう。
 それでもなお、綺麗事ばかり並べてくるヴィートが憎らしかった。
 これが彼の本音なのかと思うと、なぜか悔しさがこみ上げてきた。うつむき、唇をきつく噛み締めて堪えようにも、あとからあとから湧き出てきて喉の奥に詰まったように苦しい。
「……私は私なりにこの国のことを、国民のことを考えてるのよ。これ以上あなたにあれこれ言われる筋合いはないわ。下がりなさい」
「どうしても……お聞き入れくださりませんか」
「下がりなさいと言ってるでしょう! あなたが下がらないのなら私が戻ります!」
 腹立ち紛れに大きく一歩踏み出した瞬間──雪がクリスの足を引っ張った。
「きゃ」
 足がうまく前に進まず、クリスの身体が大きくよろめく。白く降り積もった綿雪の中に身を投げ出して──
「あっ」
 その身体を柔らかく受け止めてくれたのは、冷たい雪ではなかった。
 背中に回る、逞しい腕の感触。腕の中に深く沈みこむような感覚がやけに心地よい。
 気がつくと、鼻先が触れそうな位置に、ヴィートの端正な顔があった。
「……大丈夫ですか?」
 そう聞かれても、声が出てこない。
 吐息が顔にかかりそうな距離で、呼吸さえうまくできない。彼の藍色の瞳に映る自分の驚いた顔を、ただ見つめることしかできなかった。
 こんなにも近い──
 様々な感情が胸の中で渦を巻いている。
 こみ上げる悔しさも、もどかしさからくる憤りも、胸が疼くような得体の知れない感情も、全てが激しくかき回されてどういう顔をすればいいのかわからない。
 クリスは胸を突き上げる想いに任せて、かすれる声でその名を呼んだ。
「……ヴィート」
 彼が微笑む。
 胸が苦しい。言葉にして吐き出してしまえばきっと楽になれる。けれどどう言葉にすればいいのかわからない。でも、この感情の正体を──私は確かに知っている。
 互いの唇から漏れる白い息が、二人を隔てる最後の壁。それさえなくなったら──
 クリスは小さく息を呑んだ。閉じられた唇が、何かを期待するように震える。
 心地よい眠りに誘われるように、瞳をゆっくりと閉じて……
「──クリス様!」
 庭園の静けさを破る、エレナの叫び声。
 クリスは飛び上がらんばかりに驚いて、我に返った。
 目の前には笑顔のヴィート。彼の腕に抱きとめられて、雪の中で二人……
 自分が今置かれている状況を思い出して、急激に現実に引き戻される。
「ごっ、ごめんなさい」
 何も考えられなくなって、ヴィートの腕から逃れようとあたふたともがいてしまう。
 彼は心得たかのようにクリスの身体を抱き起こし、きちんと立たせてくれた。
「ご無事で何よりです」
 彼の満面の笑みをまともに見ることができなかった。火照った顔を隠すように背を向けると、宮殿の方からエレナが走ってくるのが見えた。
 まさか……今のを見られてた?
 巨体を揺らして必死の形相で走ってくるエレナからは、何か只事ではない雰囲気が伝わってくる。
「どうしたの? そんなに慌てて」
 クリスは焦りをひた隠しにしながら、息を切らして駆け寄るエレナに怪訝な顔を見せた。
 エレナはクリスの前についてもすぐには喋れず、何度か深呼吸して息を整えて、ようやく話し始めた。
「ルッカの……離宮から……電話が、来まして……」
「ルッカから?」
「陛下が……国王陛下が危篤状態だと……」
 息も絶え絶えなエレナの喋りに、クリスは自分が一瞬聞き違えたのかと思った。
「えっ? 危篤って……」
 エレナはクリスの肩を掴み、その身体を揺さぶった。
「クリス様! お父上の一大事なんですよ!」
 エレナの言葉の意味がなかなか理解できなくて、クリスはしばし呆然と立ち尽くす。
「クリス様!」
 頭の中を、エレナの言葉がぐるぐると回る。
「……お父様が……?」
 昨日の朝、王宮で見送った時の父の笑顔が思い出される。あんなに元気そうだったのに、なぜ……
「嘘よ……嘘でしょ?」
 突然そんなことを言われてもにわかには信じられない。事実であるとしても、否定したい気持ちの方が大きいのだ。
 うわごとのように呟くクリスに、エレナは今にも泣き出しそうな顔で説明をした。
「お昼頃『胸が苦しい』と突然倒れられて、そのまま昏睡状態だそうです。医師の話では今夜が山だとか……」
 今からルッカに向かったとしても、今日中に着くのはどう考えても無理だ。陸路では最も早い列車を使っても六時間はかかる。
「そんな……」
 脱力し、雪の上にへたり込む。
 クリスはうつろな瞳でたそがれる空を見上げていた。
 あの南の空の向こうで、父は今、死の淵に立っている。
 行って父を励ましてあげたい。せめて一言、言葉を交わしたい。せめて一目、父の穏やかな微笑を……
「殿下、失礼しますよ」
 頭の上から、ヴィートの声が響いた。彼がいることさえ忘れていた。
 急に、身体がふわりと浮く。
 ヴィートが、動けなくなったクリスの身体を抱き上げてくれたのだ。
「殿下、ルッカに参りましょう」
 その言葉に驚いて、クリスは腕の中から彼の顔を見上げた。
「何を……」
「今ならまだ間に合います。乗り心地の悪い飛行機でよろしければ、すぐにご用意できますよ」
「……まさか」
 ヴィートの瞳が、鋭く光ったように見えた。それはパイロットの瞳、『不死身の悪魔』の目だ。
 恐ろしい光景が、クリスの脳裏をよぎる。
「そのまさかですよ。急げば夜には着くでしょう」
 答えを待たずに、ヴィートは歩き出した。
 クリスを抱えたまま、庭園からコンサバトリーへ。エレナにクリスの着替えと車の手配を頼みながら、宮殿の廊下にまで出る。
「……ちょ、ちょっと……ちょっと待ってよ!」
 ヴィートがあまりにも話を強引に進めるので、クリスは焦って叫んだが、彼は意に介していないようだ。
「ねえ、降ろして!」
 抱えられた腕の中で暴れるように身を捩ると、ヴィートは諦めたのかクリスの身体を床に降ろした。
 豪華な調度品の並ぶ薄暗い廊下で、ようやく自分の足で立ったクリスはヴィートに食ってかかった。
「勝手に話を進めないで! 私、飛行機に乗ったこともないのよ? それなのに……そんな……戦闘機だなんて……絶対にイヤ! 私は乗らないわよ」
「殿下は本当にそれでよろしいんですか?」
 ヴィートの真摯な瞳に射すくめられて、クリスは返す言葉を失った。
「今すぐ、陛下にお会いになりたいのではないのですか? 今を逃せば、もしかしたら、もう二度と陛下とお言葉を交わすことができなくなるかもしれないのですよ」
「それは……」
 今すぐ父に会いたい。飛べるものなら今すぐ飛んでいきたい。
 心ではそう思っても、実際に空を飛ぶとなると恐怖心が先立ってしまう。
 クリスは飛行機に乗ったことがないのだ。軍用機は発達していても、旅客機はいまだ一般的な乗り物ではないのである。
 ヴィートの引き締まった顔つきは、パイロットのそれに完全に戻っていた。
「あとは殿下のお心次第です。殿下──私を信じてください。このエヴァンジェリスティ、命に代えましても必ずや殿下をルッカまで送り届けます」
 クリスの心は揺れていた。
 初めて空を飛ぶ──しかもその飛行機が戦闘機だなんて、冗談にもほどがある。考えただけで眩暈がしそうだ。
 けれど──彼の言う通り、この機会を逃せば父の今際の際に間に合わないかもしれない。
 父にもしものことがあった時。
 それが自分にもたらすもの、その意味を、クリスは痛いほど知っている。
 遠い未来だと思っていたその日が、今、目の前に迫ってきているのだ。
 クリスは目をそらすようにうつむいた。
「……私は王宮の留守を預かる身。このランバルディアを離れるわけにはいかないわ」
 クーデターを狙う不届きな輩がいないとも限らない。今のクリスは王宮における国王の代理なのだ。
「けど……私はお父様に会いたい。ほんの少しでいいの。強くて優しい、大好きなお父様に……だからお願い。私をルッカまで連れて行って」
 それがわがままだとわかっていても──願わずにはいられなかった。
 この願いを叶えてくれるのは彼しかいないと思った。ましてや多少の危険を伴うのなら、この命を預けられるのは彼をおいて他にはいない。
 見上げたヴィートの顔が、ふっと緩む。それがとてつもなく頼もしいものに見えた。
「御意にございます」
 そう言って、ヴィートは深々とお辞儀をした。

   ◇ ◇ ◇ ◇

 ヴェネト基地司令部の裏口玄関に横付けして車を降りると、司令が血相を変えて飛んできた。冬宮殿からヴィートが電話で連絡を入れてあったので、飛行機を用意する手筈は整えていたが、彼が本当に王女を連れてくるとは思っていなかったらしい。
 挨拶もそこそこに、クリスは乗りやすいようにと女性士官用の飛行服に着替えた。更衣室から外に出るとヴィートもすでに着替えを終えていて、数人の整備員や同僚たちと何やら話しこんでいる。
 いずれは知れることになるかもしれないが、国王が危篤状態にあることはいまだ機密事項だ。クリスがこの基地に来ていることを知っているのもごく限られた人間のみである。ヴィートは口の堅い、信用できる人間だけを使って飛行機を用意させたと言っていた。さらには王女が飛行するということで、もう一機護衛機まで用意させたそうだ。
 向こう側に広がる長い長い滑走路から吹き込む風が異常なほど冷たい。様々な飛行機が並ぶ駐機場で、クリスは首に巻いたマフラーをたなびかせて空を仰いでいた。
 夕暮れが近く、東の空には闇が迫りつつある。 
 空は薄い雲があるものの穏やかで、風もそれほど強くない。この天候なら少しは安心できる。
 陸路では列車を使っても山脈を迂回して六時間はかかるルッカだが、飛行機なら山を越えてたった一時間だそうだ。
 飛行帽にゴーグルをしたクリスの姿は、ぱっと見では王女とはわからない。だが遠くのヴィートと目が合うと、彼はすぐに駆け寄ってきた。
「準備はよろしいですか」
 クリスは黙ってうなずいた。緊張のためか、喉が渇いて声が出そうにない。
「では参りましょう」
 ヴィートに先導され、駐機場に整然と並べられた軍用機の間を歩いていく。使用するプロペラ機はすでに暖気されて、いつでも飛び立てる状態にあるらしい。
 辺りにはエンジンの轟音が響き、吹き抜ける風に束ねた髪が激しく弾む。
 案内された飛行機は複座の偵察機だった。とはいえ戦闘機がベースなので、機関銃もしっかりとついている。これで人が殺せるのかと思うと血の気が引く思いがした。
「大丈夫ですよ」
 機体を前にしてたじろぐクリスに、ヴィートはそう言って笑いかけた。
 大丈夫──今はその言葉を信じるしかない。
 彼が差し出した手を取り、クリスは主翼に足を乗せた。翼の上に立ち、コクピットの後部座席に足をかける。
 何とか身体を滑り込ませ、座席に座り正面を向くと、前部座席の背面に当たるところに様々なスイッチやランプがついていた。だが何一つ意味がわからないので、絶対に触らないでおこうと心に決めた。
 両脇から整備員たちが寄ってたかってベルトを締めたり無線機を装着したりしている。緊急時の脱出方法についてのレクチャーも受けたが、そんな事態に陥ったらパニックになって全て忘れてしまいそうだ。もちろん、そうならないようヴィートの操縦を信じているが。
 彼も軽快に上ってきて、流れるような仕草で前部座席に座った。
「キャノピー閉めます」
 頭上で風防ガラスが降りてきて、コクピットが閉じられた。ガラス越しに見える空がやけに広く感じる。
 ヴィートが管制塔とやり取りしている内容が、無線機を通してクリスの耳にも入ってくる。タキシング(地上滑走)の許可が出て、機体がゆっくりと動き出した。
 整備員や他のパイロットたちが、帽子や手を大きく振って出立を見送ってくれた。ヴィートは敬礼でそれに応え、クリスもまた深々と頭を下げて、急な出発にも関わらずうまく取り計らってくれた彼らに感謝の意を表した。
 機体がゆったりとしたスピードで誘導路を進むのにあわせて、クリスの鼓動も段々と早まっていく。
 やがて正面に滑走路が見えてきた。どこまでもまっすぐな道。地平線の彼方まで続いているように見える。
 滑走路の入口で、機体が一度止まった。
「こちら【カヴァリエーレ(騎士)】、位置についた」
『【カヴァリエーレ】、離陸を許可する』
「了解。離陸開始する」
 ヴィートがそう言うや否や、機体がうなり声を上げて急加速を始めた。
 機体がガタガタと音を立てて揺れ、主翼がそのたびにしなっているように見える。クリスは怖くなって、目をぎゅっと硬く瞑った。
 加速度を増すたびに身体はシートに押し付けられ、重くて身動きが取れない。クリスは目を閉じたまま必死で神に祈っていた。
 どうか無事に飛び立てますように──
 どこまで加速するのか、いつまで滑走路を走るのか。このまま永遠に飛び立たないのではないかとさえ思ったその瞬間。
 激しい揺れが、突然消えた。
「あっ」
 ふわっとした浮遊感。
 経験したことのない不思議な感覚に襲われて目を開けると、世界が斜めに傾いていた。
「……浮いた?」
 慣性力に押し付けられた身体を捻って風防の外を覗き込むと、猛スピードで流れる地上の景色が茜色に染まりつつある空に沈んでいくのが見えた。さらに身を乗り出し、格納庫の屋根や滑走路に描かれた標識が次第に遠のくさまをじっと見つめる。
 機体は機首をさらに上げ、空へ向かってぐんぐんと高度を上げていた。
 ヴェネト基地の全景が姿を表し、その周りの風防林や河川、雪に覆われた農地も見えてくる。遠くにはランバルディア市街の街並みを望むこともできた。
 大小様々な家の屋根が白い大地にばらまかれた積み木のようだ。車も道路も橋ももちろん人も、全てがミニチュアみたいでまるで大きな箱庭を覗き込んでいるような気分になる。
 しかし、何よりもクリスの目を惹いたのは、果てしなく広がるランバルドの大地の、その広大さだった。
 国内の様々なところに行き、その距離を時間として体験しても、平面上を移動するだけでは視覚的な実感はわかない。地図でランバルドの広さを大体はわかっていたつもりでも、それはあくまで仮想のものだった。
 だが今、この目に映る景色は──
 森も林も畑も草原も、見渡す限り雪で白く化粧を施した大地。生き物がのたうつような迫力を持って川は流れ、人々の営みがそこにあることを示す道路が整然と地を走る。
 地平線の向こうは夕闇が迫る鮮やかな色の空。遠くには雪を頂いた山々がその存在を主張するかのように隆々とそびえ立つ。
 空の上から見る景色は、地図ではわからない立体感を伴って世界を見せてくれる。クリスの知らなかったランバルドの姿が、そこにあった。
「すごい……」
 なんて壮大で、なんて美しい──
 クリスは身体の震えを止めることができなかった。
 初飛行の恐ろしさも、父が今際の際にあることも忘れて、ランバルドの絶景をしばしその目に焼き付けていた。
「……殿下、大丈夫ですか?」
 前席のヴィートの声が無線機越しに聞こえてきて、クリスはふと我に返った。
「え、あ……は、はい」
「お加減はいかがですか」
「ええ、大丈夫みたい」
 機体は水平飛行に入っていた。安定してしまえば大きく揺れることもなく、気分が悪くなるようなこともない。
 さらに上空を見上げれば、東から西へかけて、濃紺から茜色へのグラデーションがまた一層美しかった。ランバルドの王女でありながら、この国が持つ雄大な自然の美を知らなかったことを、今はとても悔しく思う。
「では少々飛ばしますよ。景色を楽しみたいのは山々ですが、先を急ぎますので」
 機体がまた加速を始めた。だが今度はそれほどの恐怖は感じなかった。
 昼と夜の境目をなぞるように、進路を南に向けて飛ぶ。
 緩やかに流れていく大地を見下ろしながら、クリスは瀕死の父に想いを馳せ、その無事をただ願っていた。

   ◇ ◇ ◇ ◇

 ルッカ郊外の野戦飛行場に無事着陸した頃にはすっかり陽も落ちていた。頬に触れる空気はひんやりとしているが、ランバルディアのような厳しい寒さではない。辺りに雪はなく、地面を覆う枯れ草の中でタンポポが早くもつぼみを出している。緩やかに吹く風の中にも土と草の香りが漂っていた。
 迎えに来ていた車にヴィートも連れて乗り込み、一路市街地にある離宮を目指した。
 ルッカの離宮は代々王族の保養地として使われている。温暖な気候と中世から残る閑静な佇まいで、別荘地としても有名なのだ。
 玄関に到着してすぐ出迎えてくれた母ユーディトは、思ったよりも顔色が良く笑顔さえ浮かべていた。
「まあまあ……こんなにも早く来てくれるなんて。着替えもしないで飛んできてくれたのね」
 飛行服のままのクリスにユーディトは目を見張っていた。随分と明るい母が少し心配になる。
「……お母様、どうしたの?」
「実はね、あなた方がこちらへ飛んでくるって連絡が入ったすぐ後くらいかしら、陛下の意識が戻られたのよ」
「えっ、本当に?」
「本当よ。まだ横になってらっしゃるけど、容態は落ち着いているわ」
 母の様子からすると、一応の危機は脱したらしい。クリスはホッと胸をなで下ろした。
 母と共に離宮に入ろうとして、ユーディトがふと振り返った。後ろではヴィートが車の横で一礼をしている。クリスをここまで送り届けるのが使命とばかりに、分をわきまえた彼はそこでずっと待っているつもりなのだろうか。クリスよりも先にユーディトが声をかけた。
「エヴァンジェリスティさんだったかしら。あなたもどうぞお入りになって。陛下がお礼を述べたいそうよ」
 ヴィートは驚いたように顔を上げたが、「ありがとうございます」と言って頭を下げるとクリスの後をついてきた。
 父パオロは寝室のベッドに横たわっていた。クリスが来たことに気づいて身体を起こそうとしたが、枕元に駆け寄ってそれを押し留めた。反対側の手は点滴につながれ、白衣を着た医師や看護婦がその向こう側で忙しなく動いている。意識が戻ったとはいえ、まだ油断はできないのだろう。
「まだ寝ていてください」
「クリス……来てくれたんだな」
 かすれるような小さな声だった。
 その顔はやつれて土気色をしていたが、パオロは微笑を湛えた柔らかな眼差しでクリスを見つめていた。
「倒れられたと聞いて、文字通り飛んできたんですよ」
 枕元にひざまずいて握った父の手はひどく冷たかった。知らず知らずのうちにその顔の皺も随分と増えていたことに気づいて、クリスは思わず胸が詰まった。
「彼に送ってもらったのか?」
 パオロの視線が後ろに立つヴィートに送られる。クリスはうなずいた。
「無理を言ってお願いしたの。どうしてもお父様に会いたかったから……」
「昔からお前は一度言い出すと聞かないところがあるからな」
 そう言って父は相好を崩す。こんなに明るい笑顔を見るのは久しぶりだ。
 パオロはしっかりと顔をヴィートに向けた。
「……君は空軍のエヴァンジェリスティ大尉だな」
 ヴィートは一歩前に出て、敬礼を捧げた。
「はい……陛下とは勲章の授与式以来でしょうか」
「最近クリスと懇意にしてもらっているらしいな。娘の願いを叶えてくれて礼を言うぞ」
「もったいないお言葉……恐悦至極に存じます」
 父の口から「懇意」などといわれると、照れるやら恥ずかしいやらで冷や汗が出てきそうだ。
 パオロは困った顔をするクリスの頭を優しく撫でた。
「この子は多少わがままなところもあるが、人の痛みをわかることのできるとてもいい子なんだよ。これに懲りずにこれからも力を貸してやっておくれ」
「もちろんにございます。力の限り、クリスティアーナ殿下をお守りいたします」
 ヴィートの答えに、父は満足そうにうなずいた。
 父が自分をこんな風に子ども扱いすることなど、本当に久しぶりのことだった。最近では次期女王として国王の代理を務めることもあり、父と娘として向き合うことが少なくなっていたように思う。
 それだけに、いつもと違う父の様子が気になった。倒れてしまったことで単に気弱になっているだけかもしれないけれど。
 クリスはそんな父を元気付けてあげたかった。
「ねえお父様、空から見るランバルドは本当に素晴らしかったのよ。お父様にも見せてあげたいわ。だから早く元気になってね」
 父はニコニコしながら、黙ってクリスの頭を撫でるだけだった。方便でも社交辞令でもなく本気の願いなのに、父も飛行機が怖いのだろうか。そんな恐怖は杞憂だったと教えてあげようとした矢先、パオロはそばにいた侍従に向かって声をかけた。
「皆を……呼んでくれぬか」
 侍従はすぐに頭を下げ、隣の部屋にいたユーディトをはじめとする全員に声をかけた。程なくして全員が寝室に集まり、皆がベッドの周りをぐるりと取り囲んだ。
「お父様、どうなさったの?」
 クリスは父の手が震えていることに気づいた。
「この機会に皆に言っておこうと思ってな」
 そう言う父の唇は真っ青だ。また具合が悪くなったのではないかと思い、クリスが立ち上がろうとすると、父はつないだ手を少しだけ強く握り返してそれを引き止めた。
 パオロは侍従たちに宣言するように、少し声を張って言った。
「クリスはまだ若い……私のもとで国王としての勉強をしてきたとはいっても、君主としてはまだまだ経験不足だ。これから皆が一丸となってクリスを支えてやって欲しい」
 唐突ではあったが、侍従たちは一様にうなずいていた。
 そしてパオロは横にひざまずくクリスに顔を向け、その瞳をじっと見つめた。視線が一瞬後ろのヴィートを捉えたが、意味ありげに口元を歪めるとすぐに視線を戻した。
 心なしか、その呼吸が速くなっているような気がする。息切れして、声を出すのが辛そうに見えてきた。
「お前が幸せに生きられる世を残したかったが……時間が足りなかったようだ。お前を守りきれ……なかった父を……赦しておくれ」
「……お父様? 何を……」
 パオロの顔が苦悶に歪み始めた。胸を掻き毟るように毛布を掴み、肩で大きく荒い息をする。
「陛下!」
 皆が口々に叫んだ。突然の急変にユーディトも侍従たちも息を呑んで立ち尽くす。
 次第に早まる激しい呼吸音。額には脂汗がじっとりと浮かび、苦しさから逃げるようにのた打ち回る。医師が慌てて看護婦に注射を指示し、自らも聴診器を当てようとしたが、パオロは震える手でそれを遮った。
 クリスに言葉を伝えたい──何よりも早く。
 その想いだけが今のパオロを突き動かしているように見えた。
「だから……最後ぐらいは王ではなく、一人の父親として……お前の……幸せを願っているよ」
 クリスは父の冷たい手を強く握っていた。その瞳をじっと見つめたまま、身じろぎさえできない。父が遺す言葉を一言一句聞き漏らしてはいけない──そう直感していた。
 ふと、パオロが微笑んだ。
 クリスを大きく包んでくれるような、いつもの優しい笑顔。
「強く、正しく……心の……赴くままに生き……よ……クリ……ス」
 そして、パオロはゆっくりと目を閉じた。
 まるで眠りに落ちるように──それはきっと目覚めることのない、永遠の眠り。握った父の手にもう力はなく、放すとパタリと軽く落ちた。
 あちこちからすすり泣く声が聞こえてくる。医師が父の脈を取り、まぶたを開いて瞳孔の開きを確認する様をクリスはただ呆然と眺めていた。
「国王陛下、ご崩御なされました」
 そう言って頭を下げた医師の落ち着いた声が、部屋全体を震わせたような気がした。
 ユーディトはパオロの身体にしがみついて、声を上げて泣いていた。侍従たちも皆沈痛な面持ちで、溢れ出る涙を拭いている。
 そんな中でクリスは一人、涙を流していなかった。
 父が、死んだ──
 とてつもなく悲しいはずなのに、不思議と涙が出てこない。それどころか泣いてはいけないような気さえする。
 私は──私は、もう。
 クリスはふらふらと立ち上がった。
「……王宮に戻ります。陛下が崩御なされた今、王宮を留守のままにはできません。エヴァンジェリスティ大尉」
「はい」
 ヴィートを振り返ったその顔は、全ての感情を押し殺したような無表情でありながら、瞳はどこまでも澄んで凛然とした光を放っていた。
「ランバルディアまで送ってください。お願いします」
「御意」
 ヴィートもまた緊張した面持ちで一礼をした。
 侍従たちは我に返ったように慌しく動き始めた。国王の崩御は、国の根幹に関わる事態。関係各位に次々と連絡しなければならない。
 取り乱す母の世話を侍女にお願いして、クリスはヴィートを連れて足早に部屋を出た。
 一刻も早く王宮に戻らなければ──その思いだけがクリスを支配して、他のことが考えられない。離宮から車で飛行場まで戻り、待機していた飛行機の後部座席にすぐさま乗り込んで離陸するところまで、クリスは心から切り離された身体が自分ではない何か別のものによって動かされたような気がしていた。
 エンジンとプロペラの音だけが穏やかに響く夜間飛行。
 コクピットから見上げた夜空には満天の星が広がっている。一つ一つの星がその存在を主張して瞬く様を眺めていると、自分が本当にちっぽけな存在に思えてならない。
 父は一度は死の淵に立ちながらも、どうしても自分に伝えたい言葉があって現世に舞い戻ってきたのだろう。最期は王ではなく一人の父親として、自分の幸せを願うために。
 そして父は──星になったのだ。
 子どもじみた考えだけれども、北の空に輝く一際大きな星の柔らかい光を浴びていると、あの星が父みたいに感じた。きっと父はあの空からいつまでもいつまでも、このランバルドの地を照らし続けてくれるのだろう。
「殿下」
 ヴィートの声が空から降ってきた気がした。
 低く響く彼の声はとても心地よくて、まるで夜の闇が自分を優しく包んでくれるような錯覚さえ覚える。
「……もうすぐランバルディアです。基地に着陸するまでには泣き止んでくださいね」
「え?」
 そう言われて始めて、クリスは自分が泣いていたことに気づいた。あとからあとから溢れ出る涙がゴーグルの中に水溜りを作り、レンズを曇らせている。
「あなたはもう……ただの王女ではないのですよ」
 私はもう──今までの私ではいられない。飛行機がランバルディアに着けば、泣いてる暇などなくなるのだ。ヴィートの気遣いが、今はうれしかった。
 クリスはゴーグルを外してマフラーで涙を拭くと、無理矢理口元を歪めて笑顔を作った。
「あなたって、意外と生真面目なのね。本当に女性にモテてたのかしら」
「痛いところを突いてきますね。意中の女性に限って終始紳士的に振舞ってしまうから、私はいつまでも独身なんでしょう」
「それじゃ種馬っていうより当て馬じゃない」
「……殿下もきついことを仰る。でもそれがこの種馬の正体ですよ」
 クリスは声を上げてひとしきり笑った。ヴィートもつられて笑っていた。
 上も下も真っ黒な世界の彼方に、微かに街の灯りが見えてきた。行きに見た壮大さとはまた違い、宝石箱をひっくり返したようなキラキラとした光が下一面に広がる様は何物にも代えがたい美しさだ。あの灯りの下で、民がそれぞれの暮らしを送っていることを思うと、クリスは不思議と胸が熱くなった。
 このランバルドを、この大地を、これからは私が守らなければいけない──
「……ありがとう」
 クリスは呟いていた。
「あなたが空を愛する気持ちが、少しだけわかったような気がする」
「空はいいでしょう。見るもの全てが美しく感じるんです……私は殿下にこの景色をぜひお見せしたかった。その願いが叶えられました」
 このままずっと空を飛んでいたい──早く帰りたいと言って飛んできたのに、そんな風にさえ思ってしまう。
 ヴィートと二人。いつまでもどこまでも、あの空の彼方まで……
 二人を乗せた飛行機は無事ヴェネト基地に着陸した。すでに遅い時間だが、着替えをする時間も惜しんで待ち構えていた車に乗り込む。
 心細い気持ちが伝わったのか、何も言わずともヴィートは一緒に車に乗り込んで王宮まで送ってくれた。
 車窓を流れる街の灯りを見つめていると、ついさっきまで空を飛んでいたことが嘘のことのように思える。夜空を見上げても、ここからでは星が良く見えない。
 窓ガラスに映るヴィートの端正な横顔──いつもクリスが見つめれば微笑を返してくれるが、視線に気づいていない今は凛とした軍人の顔でまっすぐ前を見据えている。
 もうすぐ王宮。そこに着けば、クリスの静穏だった日々は終わりを告げる。もう冬宮殿には戻れない。あの庭園で、コンサバトリーで、ヴィートと二人語らうこともできなくなる……
 甘くほろ苦い痛みが胸いっぱいに広がって、静かにため息を漏らす。曇る窓を指で拭いてはまた曇らせて、幾度となくそれを繰り返しながらクリスはヴィートの姿に見入っていた。
 王宮に入ると、深夜にもかかわらず侍従や職員が所狭しと駆けずり回っていた。街はまだ眠りについたばかりだが、明日になれば新聞やラジオが国王の崩御を伝え、国中が大騒ぎとなるだろう。
「クリスティアーナ殿下!」
 車から降りると、幾人もの侍従たちがクリスのもとに駆け寄ってきた。国の柱を失い、憂いと不安にさいなまれた彼らの目が、新たなる柱となるべきクリスにすがりつくようだ。
 今夜は寝る暇もなく、様々な手続きや公務が怒涛のように押し寄せてくるのだろう。その荒波の前で一度立ち止まるかのように、クリスは後ろに立つヴィートを振り返った。
「大尉、送ってくださってありがとう」
「いえ、殿下をお守りするのが私の使命ですから」
 刻一刻と迫る別れの時。
 こうして名残を惜しむ間にも、侍従たちはクリスを連れて行くタイミングを計っている。
「殿下。今日庭園でお話したこと、覚えてらっしゃいますか?」
 突然切り出されて、クリスは戸惑った。
 もちろん忘れてはいない。そしてあの雪の中でのことまで思い出して、顔が熱くなってしまった。
「今一度、よくお考えになってください」
 クリスは躊躇しながらも、小さくうなずいて見せた。今ここで再び言い争うようなことはしたくなかった。わだかまりは残るけれど、そんな別れ方はしたくない。
 そんな葛藤を隠すように、クリスは伏目がちに言った。
「あの……時々でいいの。スティーアからここに飛んできてくれないかしら。友人……として、あなたともっともっとお話したいわ。庭園の四季も見せてあげたいし……」
 こんな時だからこそ、わがままを言いたかった。これから激変するであろう生活の中で、拠りどころとなるべき存在が欲しかったのだ。
 だがヴィートは微笑むだけで、イエスともノーとも答えなかった。
「……実は私にも縁談話が持ち上がってましてね。上司が早いとこ身を固めろとうるさいんですよ」
 嘘だ──瞬間そう思った。単なる願望ではなく、女のカン。
 だが、これはきっと決別の機会なのだろう。嘘でも、嘘でなくても、遅かれ早かれこんな日が来るのはわかっていたはずなのだから。
 ヴィートにはヴィートの、そして自分には自分の、成すべき仕事、背負うべき使命があるのだ。
「スティーアに行っても、殿下と過ごした楽しい日々のことは忘れません」
「……元気でね」
 クリスは笑顔を作り、右手を差し出して握手を求めた。
「これからは空の上から、貴女をお守りいたします」
 だがヴィートはその手を握らずに、恭しく膝をつく。
「……親愛なる、女王陛下」
 彼はクリスの手を取り──甲にそっと口づけた。
 素肌に触れた唇の熱さは、甘い痺れとなって全身を貫く。頭まで麻痺したようにボーっとして、言葉が出てこない。
 ヴィートは手を離すとゆっくりと立ち上がり、そして踵を揃えて敬礼を捧げた。クリスを見つめる目は鋭く、笑みの欠片もない。
「殿下、早くこちらに」
 侍従たちが急かすようにクリスの背に手を当てた。半ば押しやられるように振り向かされ、王宮の中に引き込まれる。
 さよならも言えなかった。後ろ髪を引かれる思いで振り返るが、遠ざかるヴィートは敬礼したままで、その厳しい顔は友人でもなく臣下の軍人としての顔だった。
 あなたは──どこまでも軍人なのね。
 悲しくはなかった。互いに楽しかった冬宮殿での日々へ未練を残させない、彼の気遣いがありがたかった。
 クリスは前を向いた。決意と、届かぬ想いを胸に抱いて、大きく一歩踏み出す。
 ようやく気づいた。自分の本当の気持ちに。
 認めてしまえば、今まで堅く築いてきた何かが儚く崩れ去ってしまいそうで怖かった。
 けれど今なら──もう振り返らないと決めた今はもう、迷わない。恐れない。
 あなたを守りたい。
 あなたが好きだから。
 だから私は──女王になる。




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