ヒヨクノトリ                      



『レインか……あれは出来の悪い教え子だよ』
 電話の向こうでため息混じりにそう言った父の言葉を、梨緒はそのまま信じることができなかった。
 少なくとも梨緒が見てきた中では、レインは最高の技術を持ったパイロットだ。とても出来が悪かったとは思えない。愛娘が抱いた疑問を、ジェラルドも悟ったようだ。
『もちろんパイロットとしての腕は、教え子の中では随一だがな。何度も本土に呼び戻そうとしてるんだが、あのバカ、ガミューが気に入ったとか抜かして離れようとせん』
 出世できるだけの力がありながら、この辺境の地にしがみついているレインを父は苦々しく思っているらしい。
『あいつのことばかり聞いて、何かあったのか?』
「ううん……何もないよ。昔の知り合いだって言うから聞いてみただけ」
 梨緒がガミュー島に来てから初めての電話だというのに、半分以上レインの話になってしまった。父がいぶかしむのも無理はないかもしれない。
『……あいつにだけは深入りするなよ』
 ジェラルドの言葉に、梨緒は頬が熱くなるのを感じていた。心外にもほどがある。
「何言ってるのよ、パパ。そういうんじゃないんだってば」
 そう言いつつも、胸の奥深くに潜むもやもやとした何かを父に見透かされた気がして心臓がチクリと痛む。
『今のあいつは……ただの死にたがりだ』
 ジェラルドが吐き出すように言ったその言葉に、梨緒は息を呑んだ。

 遥か上空から眺めるガミュー島は、青の中に浮かぶ白に縁取られた緑だ。その鮮烈なコントラストでこの島の美しさがよくわかる。
 色鮮やかな動植物が住まう熱帯雨林、そして青い海と白い砂浜をはべらせた開放的なリゾート。そこに暮らす人々も明るく陽気で、降り注ぐ陽光のように笑顔が眩しい。小さな島ではあるが、美しくも情熱的なこの島の魅力に取りつかれて世界中からやってくる観光客が後を絶たない。
 ヴィグラスの基地も、軍の管轄下とはいえ本土から遠く離れていることもあり、それほど規律に厳しくなく自由闊達なところがある。これでも戦時中な分、前よりは厳しくなったというのだから驚きだ。基地を一歩外に出たら、戦争のことなど忘れてしまうだろう。
 肌を焦がす灼熱の太陽の下、気が狂いそうな暑さの中では服装も規律も、頭のネジも緩んでしまうのかもしれない。レインを見ていると特にそう思う。
『この島はいいだろ? 海はキレイだし、自然は多いし、メシもうまい。ちょっと暑いが、その分肌の露出も多くなるから目の保養にもなるしな』
 思い浮かぶのは彼の笑った顔ばかりだ。このガミュー島の陽気さを体現したような彼の姿からは、父が評した「死にたがり」の一面など全く見えない。父の思い違いに決まっている。
 窓を濡らす雨の雫を眺めながら、梨緒はぼんやりと考えていた。
 ガラスに映った自分の物憂げな横顔に気付き、慌てて厳しい表情を作る。こんな顔をレインに見られたらと思うと気が気でない。
 と思っていたら、そのレインは窓のずっと向こう、滑走路に近い岸壁に立っていた。傘を差し、海を見つめるその背中が少し寂しげに見えたのはきっと気のせい──父があんなことを言うからだ。
 梨緒は立ち上がり、傘を掴んでいた。
 考えすぎ──そうは思いながらも、雨に煙る彼の背中がそのまま海に消えてしまうのではないか、そんな不安が頭から離れない。
「隊長」
 彼は岸壁でしゃがみこむレインに梨緒は声をかける。
「おう」
 立ち上がり、振り返った彼の手の中では、赤い小鳥が一羽、濡れた羽根を震わせていた。
「この島に住む極楽鳥の一種だな。羽根が折れてるみたいだ」
 よく見てみると、確かに羽根の一部がありえない方向に曲がっている。
「どうするんですか?」
「もちろん、助けるさ」
 そういってレインは微笑んだ。
 彼は確かにここにいる──手の中の小さな命を見守るあたたかい瞳に、死の影など見えるはずもない。

 先日の爆撃作戦の成功以来、ランティア軍は一気に攻勢に転じ、特殊部隊をはじめとする地上軍はメルヴィナス島奪還に向けて猛攻撃を仕掛けていた。
 だがあと一歩というところまで攻め込みながらも、メルヴィナスの地形や気候を熟知したテージスのゲリラ部隊に行く手を阻まれ、最後の砦を攻めあぐねているというのが実情である。
 ランティア軍は事態を打開しようと、増援兵力を乗せた艦隊を本国から送り出してきた。メルヴィナスの沖合で強襲揚陸艦に移乗させ、幾手にかに別れ揚陸作戦を行うのだ。
 その艦隊の護衛任務に当たっていたセイレーン隊に、AEWからの通信が入った。
『【オラクル】よりセイレーン隊へ。方位306、距離235に国籍不明機発見。IFFに応答なし。敵機と思われる』
 度重なる戦闘で航空兵力がかなり削られ、台所事情がかなり逼迫しているとはいえ、テージス軍もただやられっぱなしというわけにはいかないのだろう。何より、あの部隊がまだ残っているはずだ。
 レインもそれを意識しているようだった。
『こちらセイレーン1、ヴァルチャー隊か?』
『その可能性が高い』
『随分とご無沙汰だったな。久々に顔を拝んでくるか」
 まるで遠距離恋愛中の恋人に会いにいくかのような、いつも以上に楽しそうな声だ。
『セイレーン隊全機、行くぞ。ただし無理はするな。ヤバイと思ったらすぐ逃げ出せよ。ナンパした女の電話番号教えれば許してやるから』
 レインはいつもこうやって冗談めかした物言いをするが、これは全て彼の本心なのだろう。冗談の中にも、戦争という不条理な世界に部下たちを追い込まなければならない彼の軍人としての煩悶が滲み出ている。撃墜され還らぬ人となった部下を想い、海に向かって花を手向けた彼の泣き笑いのような顔を梨緒は一生忘れないだろう。
 隊員たちもそれがわかっているのだ。だからこそレインを信頼し、隊長のためにもと格上を相手に一歩も引かない覚悟を見せている。
 セイレーン隊は編隊を組んだまま、国籍不明機に向けて機首を動かした。先を行くレインのアフターバーナーの炎でさえ生き生きとして見えるのは目の錯覚だろうか。
 夕焼けに染まりつつある雲海の上、下界とはまるで違う澄んだ空だ。雲は強烈なほどの立体感で、雪山に迷い込んだかのような錯覚さえ覚える。
 その中をご挨拶とばかりに飛んでいく長距離ミサイル。向こうからもやってきた。アラートがうるさいくらいに鳴り響き、空を鋭く切り裂く白煙が目の前に迫る。チャフと急旋回でそれをかわす。
 身体をねじ切られそうな重力の苦しみに耐え、梨緒は酸素マスクの中で歯を食いしばった。キャノピー越しに突き刺すギラギラとした直射日光で、ヘルメットの中で汗が滴る。重い頭をもたげると、視界の中を敵機が掠めていった。
『梨緒、任せたぞ』
「セイレーン2、エンゲージ」
 ダンスタイムの始まりだ。
 狙いを定めた敵機と共に、大空に螺旋を描いて踊る。壮絶な背後の取り合い。一瞬でも気を抜いたほうが負けだ。しつこく追尾してくるミサイルの餌食となり、機体はおろか、その命までをもこの空に散らしてしまう。
 梨緒もまたヴァルチャー隊の一機をパートナーに選んだ。目まぐるしく変わる天と地の中で、ミサイルシーカーを逃すまいと必死で敵機の姿を追い続ける。
 ふと、敵機の動きが鈍ったような気がした。ロックオン──HUDにシュートキューが表示される。梨緒は迷わなかった。
 発射ボタンを押すのと同時に、ミサイルが白煙を残して敵機を追いかけていった。その軌跡を追うと……
 敵機が炎を吹いた。黒煙を上げながら、徐々に高度を落としていく。そして──爆発した。
「やった……」
 ヴァルチャー隊の一機を撃墜したのだ。喜びをかみ締めたのも束の間、ミサイルアラートが鳴った。
「──ヴァルチャー1!」
 かわしざまに見上げれば、コンドルの隊章の下にキルマークをたくさん並べたヴァルチャー1が梨緒を狙っていたのだ。仲間を落とされた恨みを晴らそうとでも言うのか、梨緒だけを執拗に追いかけてくる。
「以前の私とは違うっ!」
 初めてヴァルチャー1と対峙した時のような醜態はもう晒さない。操縦桿を思い切り引き、ヤツの後ろを狙い対決姿勢を見せた。
 さっきのとはまるで動きが違う。さすがは隊長機、エースと呼ばれるだけのことはある。だが不思議なことに殺気を感じない。顔が見えないせいもあるだろうが、無機質な機体そのものが意思を持って動いているのではないかとさえ思う。
 そこがヴァルチャー1の恐ろしいところ──と気付いた時には、梨緒はヴァルチャー1を見失っていた。
「ど、どこっ?」
『後ろだ!』
 鳴り響くロックオンアラート。自分がロックオンされているのだ。
 やはり自分では歯が立たないのか──再びのミサイルアラートに肌が粟立つ。
『梨緒のケツじゃ満足しないか。やっぱりお前の相手はオレしかいないようだな、ヴァルチャー1。』
 爆音を轟かせて、レインが梨緒を追い越していく。
 放たれたミサイルはレインを追いかけていった。梨緒の身代わりとなったのだ。
 並外れた機動でそれをかわすと、レインとヴァルチャー1は互いに絡み合いながら空を駆け上がっていく。難を逃れた梨緒は、その様子をただ呆然と見つめるしかなかった。
 実際の戦闘を見ても、二機の実力は互角に見える。優美でさえある軌跡を描いて、二機はまるでじゃれあうかのようにこの空を自由に飛びまわっている。
『オレはな、お前の腕を認めてるんだぜ──お前ならオレを撃ち落としてくれると』
 レインの独り言に、梨緒は耳を疑った。彼は一対一のドッグファイトに熱中し、そんな独り言をはいていることにも気付いてないに違いない。
 今日もまた決着はつかなかったようだ。行動時間の限界を迎え、ヴァルチャー1はこの空域を離れ始める。そしてレインもまた、それを追いかけるような真似はしなかった。
 彼方に消えていくヴァルチャー1の機影、そしてそれを見送るレインの機体。その色は空と同じ茜色に染まって、少しメランコリックに見えた。

「隊長!」
 愛機を降りて、梨緒はヘルメットを脱ぐのももどかしくレインの下に駆け寄った。
「ひとに『無理するな』って言っておきながら、なんで自分はあんな無茶するんですか!」
 噛み付くように言ったが、レインは笑みさえ浮かべてまともに取り合おうとしていない。食い下がる梨緒に彼は自室に戻る足を止めずに言った。
「ヴァルチャー1はオレの恋人だからな。他のヤツには落とされたくないんだよ……ん、なんだお前、もしかして妬いてるのか? 大丈夫だって。地上での恋人はお前だけだからさ」
 いつもの梨緒ならレインをぶん殴って冷たい言葉の一つでも吐いているところだが、今は違う。こちらを激昂させて話をはぐらかそうという魂胆が見え見えなのだ。
「……真面目に答えてください」
 レインの行く手を阻み、梨緒は彼の琥珀色の瞳を真っ直ぐに見つめた。空の下では陽光を反射して明るく煌いている彼の瞳も、廊下のくすんだ蛍光灯のせいかいつものような光は見えない。
「お前は心配しすぎなんだよ」
 柔らかく笑って、レインは梨緒の頭にポンと手を乗せた。その優しさが逆に梨緒の不安を逆なでするのだ。自室に入っていく彼の後を追って梨緒も隊長室に入った。
「──父は、あなたのことを『死にたがり』だと言ってました」
 上着を脱ぐレインの背中に向かってそう言うと、彼は動きを止めたが、振り返ることはしなかった。
「あのおっさんもお前と同じだな。心配してくれるのはうれしいが、そんな簡単に死んでたまるかよ」
「じゃあなんでヴァルチャー1にあんなことを言ったんですか」
「……聞いてたのか」
「ええ」
『お前なら、オレを撃ち落してくれると』
 はっきりと耳に残るあの言葉。
 思えばヴァルチャー1と戦う時のレインはいつも楽しそうだった。それは好敵手に出会えたからだとばかり思っていたのだが、真剣な命のやり取りをゲームのように楽しみ、尚且つヴァルチャー1に撃ち落されることを望んでいたとは。
 矛盾ばかりのレインに、梨緒は苛立ちをぶつけずにはいられなくなっていた。
「部下の命は守ろうとするくせに、自分の命は簡単に投げ出す……そんなの、ただの無謀じゃないですか。そんな上司に命を預けるなんて、私にはできません!」
 大声を上げた梨緒をたしなめたのは、目を見開いたレインではなく──小鳥の甲高い鳴き声だった。
「あ……」
 凛然としながら、柔らかく響く美しい声。
 目をやれば、隊長室の片隅にある金属製の鳥かごの中で、あの極楽鳥が傷ついた赤い羽根を休めていた。
 レインは小鳥の下へと歩み寄った。羽根の治療はすんでいるようだが、まだ大空を飛べるまでには回復してないらしい。
「アイツが死んで、もう五年か……」
 レインは小鳥に向かって囁くように言った。
「……アイツ?」
「まあ、昔の恋人ってヤツだよ。この島で生まれ育った女でな、観光客相手に遊覧飛行するセスナのパイロットだったんだ」
 レインは少し恥ずかしげに、そして寂しげに、とつとつと語り始めた。
「この島に来て以来、観光らしい観光なんてしたことなかったオレに、戦闘機ではわからないこの島のキレイなところを見せてやるって言ってくれてたんだ」
 梨緒も見たことがある。夕陽が空と海を赤く染める時間、低空を飛ぶセスナが湾を横切り、この島の名所を巡っていた。観光客には随分と人気があると聞く。
「約束の日、オレはスクランブルがあって彼女のところには行けなかった。彼女は仕方なく、仕事の下見がてら一人で空に上がったそうだよ。そして海の上でエンジン故障を起こし、墜落した……遺体は今も暗い海の底だ。たった一人で、今もオレのことを待ってるんだ」
 レインは鳥かごの蓋を開けた。だが小鳥は僅かに羽根を震わせるのみで、飛び立とうとしない。
「この鳥な、東の国では【ヒヨクノトリ】っていうんだそうだ。ヒヨクってのは二羽の鳥が互いの翼を並べるって意味なんだとよ。アイツが言ってた。今のオレは片翼をなくしたただの死にぞこないさ」
 小鳥を見つめる彼の瞳には、今は亡き恋人の笑顔でも映っているのだろうか。愛おしささえ感じるその表情に、梨緒は言い様のない感情があふれてくるのを止めることができなかった。
「なーんだ。単なる未練ってことね」
 呆れ顔で、梨緒は吐き捨てた。
「彼女がこの海に沈んでいるから、あなたもここで死にたいって、そういうことなんですね」
 言いたくもないことがこぼれ出てくる。言い過ぎだとわかっているのに、苛立ちを抑えられない。
「そんなに海で死にたいのなら、今すぐ飛び込めばいいじゃないですか」
 レインは心外だという顔で反論してきた。
「オレはだなぁ、戦闘機パイロットとして死にたいんだよ。オレを撃ち落としてくれるヤツをずっと待ってたんだ」
「死ぬのにあれこれ注文つけるんじゃないっ! 死んじゃえばみんな同じっ!」
「そうだ。腹上死ならいいかも」
 ふざけた物言いに、ついに梨緒はキレた。腰の拳銃を素早く抜き、レインの顔に突きつける。
「今すぐ死ねっ! ここで死ねっ!」
 相手が上司とか、服務規程違反だとか、そんなことはどうでもよくなっていた。今はただ、目の前のこの男のヘラヘラした顔が心底憎かったのだ。
 憎くて憎くて仕方がないはずなのに──瞳から涙が零れ落ちるのは何故だろう。
「……撃たないのか?」
 こんな時に限ってレインは真っ直ぐな瞳で、怒りもせずに穏やかに微笑んでいる。本当に撃ってくれと言わんばかりの優しい瞳に、梨緒の胸はきつく締め付けられた。
「あほらし……弾の無駄づかいだわ」
 梨緒は涙を拭いて、拳銃をホルスターに戻した。
 この男にこれ以上何を言っても無駄のようだ。むかつく気持ちを吐き出しきれないまま、踵を返してドアへ向かう。
 ドアノブに手をかけたところで、梨緒は足を止めた。
「──隊長が私に言ったように、あなたにも守りたいものがあるからここにいるんですよね。隊長の守りたいものって一体何なんですか? 恋人との思い出? 残されてしまった自分? 彼女が眠っているこの海?」
 振り返らず、背中越しに聞く。
 やや間を置いて、レインが答えた。
「……さあな。実のところ、オレにもよくわからないんだ。何のために飛び続けているのか、何のために生き続けているのか……」
「守りたいものがあるから生き続けてるんじゃないんですか?」
 振り返ると、逆光の中でレインは静かに笑っていた。
「何かを守って死ねたら、それは最高のことだよ」
「そんなの……ただカッコつけてるだけじゃないですか」
 吐き捨てた台詞を残して、梨緒は乱暴に隊長室のドアを閉めた。






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