私の王子様                      



(開いたっ!)
 四コーナーを過ぎた最後の直線。
 目の前の馬群が割れ、馬一頭分の隙間ができた。藍子はすかさず左手の鞭を振り上げ、跨る馬・フェアウィンドの尻に一発入れる。
 気合を入れられた馬が一気に加速した。十二月の寒風が頬を切るように冷たい。そのまま馬群の真ん中を突っ切って……
「あっ」
 突然、行く手を阻まれた。慌てて手綱を絞り、馬の加速を止める。
 一頭の栗毛馬が、藍子が通ろうとした勝利への道筋を完全に塞いでしまっていたのだ。
 その馬の上に跨るのは──憎たらしい、あの男だ。
「先輩っ! どいてください!」
 藍子は力の限り怒鳴るが、芝生を叩きつける蹄の轟音と、スタンドから響く大歓声にかき消されて、半分も相手に届いてないだろう。
 だがその男は振り返った。
 頭にはヘルメット、目元は黒いゴーグルに覆われて、その表情を窺い知ることが難しい。だが形の整った薄い唇に浮かぶその笑みは、明らかに勝ち誇った笑みである。
 栗毛馬の尻がどんどん遠ざかる。藍子もフェアウィンドの首を押して加速しようとするが、機嫌を損ねてしまったのか、うんともすんとも加速しない。
「ちょ、ちょっと! 早くしないと置いてかれるよ!」
 藍子は焦るが、フェアウィンドは完全にへそを曲げてしまったようだ。馬群に取り込まれたまま、ゴール板の前を通り過ぎてしまった。

「先輩! 進路塞いだでしょう!」
 憤怒の形相を浮かべ、藍子は検量室の出口で仁王立ちになった。
 切れ長の瞳を吊り上げ、口をきゅっと結んで相手をキッと睨みつける。十九歳にしてこの迫力。並みの男だったら尻尾を巻いて逃げ出してるところだ。
 ヘルメットを外して乱れた長い黒髪がまたおどろおどろしい。騎手特有のド派手な蛍光ピンクの勝負服も、彼女の負けん気の強さを一層引き立たせるようだ。
 先ほどとは立場が逆──行く手を遮られた男・楢原耕一郎(ならはらこういちろう)は、そんな彼女に目を細めた。
「でも……審議にはならなかったんだから、僕の勝ち」
 優しく響くテノールの声。馬と同じ栗毛の髪を指で弾いて、彼は甘いマスクに柔らかい微笑みを浮かべた。
 キザったらしい……藍子はいつも背中がむず痒くなる思いがするのだが、巷での彼の評判はどうも違うようだ。
 競馬界の王子様──それが彼につけられた称号だ。
 何と言っても今年のダービージョッキー。端正な顔立ちで人当たりもよく、洗練された振る舞いはまるで白馬の王子様──と、どこかの女性雑誌に書いてあったことを思い出したが、今はそんなことはどうでもいい。
「審議にならなかったからいいとか、そう言う問題じゃないでしょう! 一つ間違ったら大事故ですよ? 仮にも今期リーディングの貴方がそんなこともわか……」
 楢原の腕がスッと伸びてきて、人差し指が藍子の唇に当たった。驚いて藍子の罵倒が止まる。
「いつも言ってるよね。ここは勝負の世界──勝つためには多少のリスクも負う覚悟が必要……ってね」
 藍子は何も言い返せなかった。
 騎手の世界は勝利数ですべてが決まる。藍子の進路を塞いで反則を取られるリスクを顧みず、無理を通した楢原が一着を勝ち取ったのだ。そこで引いてしまった藍子は六着。勝利への貪欲さが明暗を分けてしまった。
 自らの惨めさに打ちひしがれ、勢いを失って黙りこくった藍子に、楢原はまた微笑みかけた。
「さて、今夜もまた僕に付き合ってもらうよ」
 藍子はギクリと身を硬くする。
「また……ですか」
「最初に約束しただろ? 同じレースで僕が勝ったら、二人で食事に行くって」
 思わず顔を引きつらせる。楢原がほぼ一方的に約束してきたこととはいえ、負けず嫌いの藍子がそれに乗ってしまったことは確かだ。
「『今日こそは絶対に勝つ!』って、あれだけ意気込んでたのにねぇ」
 意気込み空しく、今日もまた負けてしまった。勝ち誇ったように見下ろす楢原の鳶色の瞳が、艶っぽく煌めく。
「食事だけで物足りないなら──ホテルも予約しておこうか?」
 藍子はものすごい勢いで首をぶんぶんと横に振った。この男はこういうタチの悪い冗談をサラッと言うから嫌いなのだ。
「じゃあまた後で」
 そう言って楢原は爽やかな風だけを残して外に出て行った。中山競馬最終レースを勝った彼には、まだまだ仕事がある。関係者との記念撮影、マスコミの取材……

   ◇

 もうすぐ今年も終わり、嵩村藍子(たかむらあいこ)の騎手一年目も来週末の中山開催で終わる。
 競馬場正門前の大きなヒマラヤ杉が、煌びやかなイルミネーションに彩られて巨大なクリスマスツリーに変身している。駐車場からそれを遠目に眺めながら、藍子は一人ため息を吐いていた。
 一年で一番陽が短いこの時期、宵闇の空に浮かぶ雲の隙間に星が瞬き始め、白く立ち上る息が薄いベールをかけるようだ。アスファルトの足元から忍び込む寒さに、藍子はコートを着込んだ身体を抱いて震えた。
 緊張でガチガチだった三月のデビュー戦から九ヶ月、あっという間の出来事だったように思う。
 中央競馬で八年ぶりにデビューした女性騎手とあって、最初の頃は色々と注目もされたが、成績はなかなか派手にとは行かなかった。
 思うように勝ち星を上げられない日々……どれだけ努力を積み重ねても、それが結果につながらない。人前で弱音を吐くことなど絶対にしない、いつも強気な藍子ではあるが、情けなさに人知れず涙を流すこともあった。
 不甲斐ない成績のまま夏を越し、秋のGIシーズンに入った頃だ。
 それまで殆ど話したことのなかった楢原に、突然声をかけられた。
『このレース、僕が先着したら夕食に付き合ってもらうよ』
 向こうはトップジョッキー、こちらはぺーぺーの新人。相手になるはずがない。訳もわからないまま賭けに付き合わされ、当然のごとく負けた。
 あれ以来、楢原と同じレースになる度に同じ賭けを持ち出される。断るのは簡単だが、藍子とて勝負師の端くれ。勝負を挑まれたなら逃げるわけには行かない──と、毎度毎度賭けに乗っては負けるという愚行を繰り返している。
 まったくふざけた男だ──といつも腹立たしく思うのだが、その男に一向に先着できない自分はもっと腹立たしい。
 いつか楢原に勝って、ギャフンと言わせてやる──夜空に光る星を見上げて、藍子は密かに誓った。
「藍ちゃーん」
 女性の甲高い声に呼ばれて顔を向けると、向こうから走り寄ってくる人影が見えた。
「萌黄さん……」
 早川萌黄(はやかわもえぎ)──藍子の前に女性騎手としてデビューした先輩だ。藍子より八歳年上のはずなのに、小さな身体に大きな瞳、そして天然ぽい喋りのせいか随分と幼く見える。
「藍ちゃんもこれから帰るの? 美浦(トレーニングセンター)まで送って行こうか?」
「オレの車だっ! 勝手に約束すんな」
 いつの間にか萌黄の後ろに立っていた男が、萌黄の頭を小突いた。
 柘植和弥(つげかずや)だ。彼の父も兄も競馬関係者だから、皆『カズ』と呼んでいる。この二人は同期で、仲はいいが別に付き合ってるとかではないらしい。
「いや、あの……」
 藍子が口篭っていると、萌黄は一人合点したように目を見開いた。
「あ、楢原君を待ってるのかぁ」
 楢原もまた萌黄や柘植の同期で、彼らは旧知の仲なのだ。
「え……ええ、まあ……って何で萌黄さんが知ってるんですか」
「だって、美浦中でウワサになってるよ。楢原君と藍ちゃんが付き合ってるって」
「付き合ってませんよ!」
 そんな噂は初耳だ。一体誰が流したのか、頭が痛くなってくる。
「そういや楢原君、さっき中で女の子に囲まれてたよ」
「またですか……」
 楢原はとにかくモテる。イケメンで稼げる騎手とあっては、女性の方が放って置かないのだろう。
 知らず知らずのうちに、藍子の口からため息が漏れ出ていた。
「モテる彼氏を持つとツライねぇ……」
 萌黄がしたり顔で言うので、藍子は顔を真っ赤にして否定した。
「だから彼氏じゃありませんって!」
 怒る藍子を見てケラケラと笑いころげる萌黄は小さな子どものようだ。見かねたのか、柘植が萌黄の頭をもう一度小突いた。
「からかうのやめろよ、萌黄。オレ行って楢原呼んでこようか?」
だが藍子は首を横に振った。随分と待たされていい加減疲れているというのもあったが、それ以上に訳のわからない苛立ちが募っていた。
「いえ、いいです。もう……やっぱりカズさんの車に乗せてもらおうかな」
 楢原を待つ義理などどこにもないのだ。勝手に賭けに付き合わされ、こっちは迷惑するばかりだ。
 藍子が俯いたその時、萌黄が声を上げた。
「あ、楢原君出てきたよー」
 振り返ると、玄関から楢原がちょうど出てくるところだった。仕立てのよさそうな黒のコートを着込んで、ブランド物のボストンバッグを抱えている。
 その彼の両脇には女性が一人ずつ──あれは確か競馬番組の巨乳タレントと、競馬雑誌の美人記者だ。代わる代わる楢原に何事か話しかけながら、一緒に玄関を出てきた。それに答える楢原もどこか楽しそうに笑っている。
 あの男が誰といようと、どんな女を連れてようと自分には関係ない。向こうの勝手だ。
 わかっているのに──胸がチクチクと痛んでかきむしりたくなる気分になるのはどうしてなのだろう。
 こちらに気付いたのか、楢原は女性たちに断りを入れて小走りで駆け寄ってきた。
「楢原君、彼女待たせたらダメじゃーん」
 楢原を出迎えた萌黄の冷やかしの言葉を、否定する気力もわかない。
「悪い悪い。雑誌のインタビューが長引いちゃって」
 楢原は息を切らしながら萌黄に言ったが、すぐに藍子に向き直った。その笑顔が妙にイラつく。
「藍子ちゃん、お待たせ」
 藍子は答える代わりに、じとーっとした恨みがましい視線を楢原に送った。待ちくたびれて文句の一つも言いたいところだが、それを口に出すのですら面倒な気分だ。
 その背中を萌黄がポンと叩いた。
「じゃ、藍ちゃん。あたしたち先に帰るね」
 振り返ると、萌黄がニコニコと微笑んでいた。その笑顔に少しだけ救われた気分になる。
「あ……はい。お疲れ様でした」
 手を振りながら去っていく萌黄に藍子は深々と頭を下げた。柘植は軽く手を上げて、楢原に挨拶している。
「さて、行こうか」
 楢原は自分の車のトランクに荷物を押し込むと、助手席のドアを開けて藍子を促した。
「……あの人たちと一緒に行けばいいじゃないですか」
 藍子は一歩も動かず、吐き捨てるように言った。
 視線を向けた先には、楢原に言い寄っていたあの女性二人がいる。さっきから投げつけられる刺々しい視線が頬を刺して痛い。
 二人とも自分とは比にならないぐらい美しい。可愛い小顔にバッチリメイクをきめて、スタイルのいい身体をモデルのようなファッションで包んでいる。
 それに引き換えこちらは年がら年中砂や草やウッドチップにまみれて、化粧なんてするだけ無駄だと思っている。服だってどこか垢抜けないし、馬の匂いが身体に染み付いているような気さえする。
 競馬に関すること以外で、彼女たちに勝てるものなんて何一つない。
「私なんかよりもずっと美人だし、先輩のことちやほやしてくれますよ」
 楢原に連れられてどこかに行く度に、女性から値踏みするような視線を送られる。
 何故そんな目で見られなければいけないのか──自分は楢原の恋人でも何でもないのに。
 あんな腹立たしい思いをするくらいなら、今日こそ賭けなんか無視して逃げ出してやる。
「……藍子」
 楢原の呟きは、夜風のように冷ややかだった。顔を向けると、彼の鋭い視線に射抜かれて、藍子の心臓に小さな痛みが走った。
 彼の手が急に伸びてきて、藍子の手首を掴んだ。あまりの力強さに驚いて声を上げそうになったが、抵抗する暇もなく藍子は身体ごと引き寄せられてしまった。
 いつの間にか背中に腕を回され、楢原の腕の中にすっぽりと収まっている。
 触れ合った部分がほのかに暖かい。心地よさに眩暈さえ覚えたが、状況を思い出して何とか踏み止まる。
 藍子は噛み付かんばかりに怒鳴った。
「何を──」
 顔を上げたすぐそこに、彼の鳶色の瞳があった。通った鼻筋も形のいい唇も、あまりにも近すぎてこれ以上声が出せない。
 抗議が止まったのをいいことに、楢原は藍子の耳に唇を寄せてきた。何を囁かれるのか──そう考えただけで耳が熱くなってくる。
 耳元で、彼が小さく息を吸う音が聞こえた。
「実は僕……ドMなんだ」
「え?」
 のぼせた頭では、楢原の言葉の意味がなかなか理解できない。マヌケな顔の藍子とは対照的に、楢原はニッコリと微笑んで見せた。
「僕は君にののしられるのが大好きなんだよ」
「……は?」
 あまりのバカバカしさに膝から崩れ落ちそうになる。そんな藍子の身体を、楢原は抱えるようにして車の助手席に押し込んだ。
「……ちょ、ちょっと先輩!」
「続きは車の中でね」
 そう言って悪戯っぽく笑うと、楢原はドアを閉めた。
 ヤラれた──からかわれたのだとわかった途端、どっと疲れが押し寄せた。革張りのシートに身を深く沈め、脱力する。もはやドアを開けて逃げ出す気にもなれない。
 楢原が嬉々として運転席に乗り込む様を、藍子は疲れきった表情で見つめることしかできなかった。




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