私の王子様                      



「──君は自分が思ってるより、ずっとずっと可愛いよ」
 テーブルの向こうで、楢原は食後のコーヒーを啜りながら言った。
 引き締まったドレスシャツ姿の彼は一見すればやり手のビジネスマンのようで、とても競馬の騎手には見えない。だがまくり上げた袖から覗く逞しい腕はまさしく騎手のそれだ。
 蝋燭の揺れる炎に照らされた横顔は、憎らしいほど整っていた。
「君の怒った顔なんか、最高にそそられるけどね」
 楢原と目が合って初めて、藍子は彼の顔に魅入っていたことに気がついた。
「ムチでなぐりますよ」
 慌てて目を逸らし、仏頂面を作る。手元に競馬用のムチがないのが悔やまれた。
「嘘じゃないけどね。でも君はもっと自分に自信を持つべきだよ」
 もっと自分に自信を持つべき──
 その言葉を楢原の口から聞いたのは二度目だ。彼は覚えているのだろうか。
『ほら、自分に自信持って』
 あれは確か六月のダービー当日、東京競馬場でのことだ。
 三月のデビュー以来、なかなか勝ち星を上げられなくて沈んでいた藍子に、楢原がそう言って優しく声をかけてくれたのだ。藍子はそのレースで初勝利を収めることができたから、しっかりと覚えている。
 そしてその日のメインレース、ダービーで楢原は初めてのGI勝利を収めた。
 競馬界最高峰の大舞台で、超満員の観衆の声援を受けながら、青々とした芝生の上を馬と共に駆け抜ける──その姿のなんと美しかったことか。
 同じ騎手でありながら、最高の栄誉を勝ち取った楢原と、今日やっと初勝利を収められた自分──藍子は賞賛を一身に浴びる彼を、ただ眩しく見つめることしかできなかった。
 目の前の楢原は、カップを皿に置くと、斜に構えていた顔を藍子にまっすぐ向けた。
「自分に自信がないから、それが騎乗に現れる。馬にもナメられるし、思い切った乗り方ができない」
 楢原の鋭い指摘が、藍子の胸を深く抉る。今日の騎乗がまさにそうだ。わかっていたつもりなのに、それができていなかった。
 そして同じことを同じ人間から指摘された。それもこの楢原に。
 この男には勝てない。勝つなんておこがましい。負けて然るべきなのか──どうしようもないほどの敗北感が、藍子を打ちのめした。
「なんで……どうして先輩は私に優しくするんですか?」
 俯いて消え入るような声で呟いた藍子に、楢原は少なからず驚いた顔を見せた。
「私なんて可愛くもないし、騎手としての実力も全然ない。先輩がどれだけ優しくしてくれても、私は先輩に何もしてあげられない。なのにどうして──」
「君に何かしてもらおうと思って優しくしてるわけじゃないよ」
 顔を上げると、楢原は少し怒っているようにも見えた。
「じゃあなんで……」
 藍子の問いに、楢原は口を開いた──が、すぐに諦めたように頭を振ると、藍子から目を逸らした。
「そりゃ何か──キスの一つでもしてくれるっていうのなら、大喜びで受け取るけどね」
 藍子の目を見ずに言った口説き文句は、明らかな逃げ口上にしか聞こえなかった。
「先輩は……一体何を考えてるんですか」
 藍子はイラついていた。
 楢原の考えることが全くわからない。わからないことが不安でたまらない。どうしてこんなにも不安なのか、自分でもわからなかった。それがまた苛立ちを募らせる。
「あ、そうだ。ちょうど来週クリスマスだし、今度はキスでも賭けようか」
 あくまでおどけてはぐらかそうという魂胆らしい。
 人がこんなに悩んでいるのに──藍子はついに怒りを爆発させた。
「……わかりました」
 静かにそう言った声は、微かに震えていた。
「え? いいの?」
「そのかわり私が勝ったら……もう私に付きまとわないでください」
 楢原の笑顔が一瞬凍りつく。
 だが藍子が真剣だとわかったのか、細く長い指を顔の前で組んで、穏やかに微笑んだ。
「……いいよ。じゃあ僕が勝ったら君の唇をもらう」
 藍子が勝つことはない、絶対に自分が勝つと言う自信の裏返しなのか。
 楢原の静かな笑みが怖かった。だが今更もう引けない。藍子にだって騎手としてのプライドがある。
「来週の日曜、中山九レースのフェアウェルステークスで勝負しよう」
 藍子はコートを掴んで立ち上がった。
「帰るの? 美浦まで遠いよ」
「電車で帰ります! ご馳走様でしたっ!」
 腹立ち紛れにお礼を言うと、藍子は楢原に背を向けた。
「……君は本当に覚えてないの?」
 その呟きはとても小さく、ともすれば聞き逃すところだった。
 驚いて振り返ったが、彼はただ唇の端に笑みを浮かべ、藍子を見上げるばかりだ。言葉の意味が気にはなったが、藍子には何のことか全くわからないし、かといって楢原にたずねるのもどこか癪だ。
 怪訝に思いながらも、藍子は足早に店を出て、夜の街に飛び出して行った。

   ◇

 それからの一週間は瞬く間に過ぎていった。
 ただでさえ年の瀬、街も人も慌しくなる中、美浦トレーニングセンターは競馬の一年を締めくくるGIレース・有馬記念を控えて、いつも以上に目まぐるしく動いていた。
 マスコミが連日のように押し寄せ、有力馬の関係者やトップジョッキーのコメントを求めようと右往左往している。GIどころか重賞にすら乗ったことのない藍子には所詮他人事、対岸の火事であるが。
 その有馬記念には楢原もダービー馬・シェアザワールドに乗って参戦する。
 馬の調教の合間、楢原が記者たちと談笑する姿を何度も見かけたが、もちろん藍子は声をかけるどころか近寄ろうともしなかった。
 藍子にも藍子の仕事がある。楢原に構っている時間などない。今の自分にできることを一つずつ、着実にやっていく──しがない新人はそうする以外にないのだ。
 調教の手伝い、馬の世話、筋トレにレースの研究……真夜中に近い冬の早朝、身を斬るような厳寒の中、藍子はただ実直にそれらの仕事を黙々とこなしていった。
 時折、楢原の視線を背中に感じたが、決して振り返ろうとはしなかった。

 競馬の騎手は、公正を期すために前日の夜から【調整ルーム】という宿舎に入り、外界との接触を絶つ。
 藍子も土曜のレースが終わり、夕方には中山競馬場内の調整ルームに入っていた。
 今日はクリスマスイブ。もうとっぷりと日が暮れた時間だというのに、個室の窓から見えるクリスマスツリーの下には何組ものカップルが肩を寄せ合っている。
 朝から晩まで馬と共に過ごし、少ない休日も茨城の片田舎で一人ひっそり──そんな毎日を送っているとクリスマスさえ縁遠く感じてしまう。
 好きで飛び込んだこの世界。そんな生活が嫌だと言うわけではないけれど、同年代の女の子が恋人と街を歩く姿を見ていると、ふと一抹の寂しさを感じることもある。
 不意に脳裏に浮かぶ、あの男の顔──藍子は振り切るように窓から離れると、ベッドに寝転がった。
 だがすぐにドアをノックする音がして、身体を起こした。
「藍ちゃーん」
 返事するのとほぼ同時にドアが開いて、円らな瞳が輝く顔が隙間から覗いた。
「萌黄さん……今着いたんですか?」
 萌黄は今日の土曜日、確か愛知の中京競馬場で乗っていたはずだ。明日は中山で乗るために、新幹線と電車でここ千葉まで移動してきたというわけだ。
 萌黄は部屋に入ると、藍子と並んでベッドに腰掛けた。
「聞いたよー。楢原君とケンカしてるんだって?」
 いきなりそう切り出されて、藍子はムリヤリ引きつった笑顔を浮かべた。
「いつもケンカしてますけどそれが何か?」
「楢原君、今日は藍ちゃんに話しかけもしなかったって、カズ君が驚いてたよ」
「有馬もあるし、私になんて構ってる暇ないんでしょう」
 吐き捨てるように言った藍子の顔を、萌黄はじっと覗き込んだ。
「……何かあったの?」
 萌黄の大きな瞳に映る自分の顔。鏡を見ているようで、藍子は思わず目を逸らした。
「別に……何も……」
「あ、もしかしてケンタイキってやつ?」
「だーかーら、私と楢原さんはそういう関係じゃないんですってば」
 一生懸命否定する藍子を、萌黄はただニコニコと見つめている。その穏やかな微笑みには、嘘を許さない妙な迫力があった。
「……たまーに食事に行くくらいですよ。ホントご飯食べてレースの話して、終わったらまっすぐ帰るだけ。それ以上のことは何もないです。トレセンじゃ顔合わせた時に話するぐらいだし。ホント、なんでもないんですよ」
 藍子は笑ったつもりだったが、うまく笑えている気がしない。
「大体、あれだけふざけたこと言っておきながら、『付き合って』とか『好きだ』とか、一度も言われたことないんですよ。人のことからかって、遊んでるだけなんです。ハナから本気じゃないんですよ……ホントもう、何考えてるのかわかんないですよね」
 最後には萌黄の視線から逃げ出し、俯いてしまった。このまま見つめられると、言いたくないことまで言ってしまいそうで怖かった。
 ふと、訪れた静寂。
 萌黄が動いたのか、ベッドが軋んだ音を立てた。
「藍ちゃんは、楢原君のことが好きなんだね」
 藍子はビックリして顔を上げた。
「ちが──」
 待ち受けた、萌黄の優しくも厳しい瞳──もはや小手先の嘘など通用するはずもない。ため息と共に言葉を逃がすと、藍子は小さく頷いて見せた。
 本当は──初めて声をかけられたあのダービーの日から、ずっと気になっていた。ダービージョッキーとなった彼に、少しでも近づきたかった。
「本当は……感謝してるんです。楢原さんのおかげで勝てるようになってきたこと」
 食事に連れ出しては、毎度毎度他愛もない話で藍子をからかうばかりの楢原。だがその会話の端々に、先輩騎手としてのアドバイスがこめられていることに、藍子はしっかりと気付いていた。
『君のお尻はとても魅力的だけどね、ちょっと仕掛けるの早かったかな。あの馬はもう少しタイミング遅いほうがいい。そうすればゴールまで君のお尻眺めていられたんだけど』
『先輩には勝ちたいですが、セクハラはやめてください』
 それだけではない。時には楢原が懇意にしている馬主主催のパーティーに同行させてくれることもあった。
『あ、関川さん。これ、僕の彼女』
『彼女じゃありません! 単なる後輩です!』
 競馬を動かすのは所詮人間。腕や技術だけでなく、小さな出会いが将来への道筋を開くこともある。
 一期一会を繰り返し、たとえ僅かずつでも信用を積み重ねていくことの大事さを、楢原は教えてくれたのだ。
 そこで出会った馬主に新馬を任されることになって、藍子は楢原のさりげない優しさを身に沁みて感じた。
「何がそんなに心配なの?」
 萌黄の問いは、藍子が幾度となく繰り返してきた自問そのものだ。
 楢原を想う時、胸に甘く心地よい痛みが走るのと同時に、胸をかきむしりたくなるようなどうしようもない不安を感じてしまう。
 その不安を紛らわそうと、つい刺々しい態度を取ってしまうのだ。本当はもっと普通に接したいのに──
「なんで……私なんだろうって。彼女として連れて歩くならもっと可愛い女の子がいるだろうし、騎手としてだってもっと見込みのある人は他にいる……なんで私なの? 私が楢原さんに何かしてあげた?」
 楢原に甘えるばかりで勝つこともできない自分に、藍子は怒りさえ感じていた。
「ただ『好きだから』って、それだけじゃダメなの?」
 萌黄は笑ったが、それで納得できないから藍子は深く悩んでいるのだ。
「本音聞こうにもはぐらかされるんですよ。だから本当に本気なのかどうかもわからない。もう……わからないことばかりですよ」
 わからないから、不安になる。楢原の本心が見えないから、どうしても知りたくなる。
 せめて一言──彼を信じきれるだけの確かな言葉があれば、こんなにも不安にはならなかっただろうに。
 沈む藍子とは対照的に、萌黄はどこまでも無邪気に笑っていた。
「理由なんて要らないよ。『好き』って、その気持ちだけでいいじゃん」
 そう言いながら足をぶらぶらさせる姿は小さな子どもにしか見えない。だがさすがに年長者。言葉にどこかしら重みがある。
「好きだから、相手に何かしてあげたい。好きだから、恥ずかしい部分は見せたくない。好きだから……絶対に負けたくない。藍ちゃんだってそうでしょ?」
「私だって……楢原さんに負けたくない。けど……私、あんな約束しちゃって……」
「約束?」
 藍子は楢原と交わした賭けの約束を萌黄に説明した。
「おおっ、それはおねーさんとしてはぜひ楢原君に頑張って欲しいなぁ」
「ふざけないでくださいよ! こっちは真剣なんです」
「えー、キスするのイヤなの?」
「……そうじゃなくてですね。私が勝つ可能性は微塵も考えてくれないんですか」
「勝てばいいじゃーん」
「私が勝ったら、楢原さんとのこと、終わっちゃうんですよ!」
「藍ちゃんが勝って、そんでキスすれば問題ないよー」
 楢原といい萌黄といい、人がこんなにも悩んでいるというのに、どうしてこうも能天気になれるのだろう。
 どうすればいいのかわからず、うなだれた藍子の頭を、萌黄はぽんぽんと撫でた。
「好きだから……負けたくないんでしょ? 勝てばいいんだよ。ムズカシイことは、勝ってから考えるの」
 子どもみたいだと思っていたのに、優しく諭すような口調はまるで母親だ。重苦しかった胸の内が少し軽くなる──と思ったのも束の間。
「あんまり悩んでると、私が勝って穴あけちゃうぞぉ」
 忘れてはいけない。この人は『芝生の魔女』──レースに大波乱を起こすことで有名な名騎手なのだ……
「……って、九レースは出番なかったんでしたー」
「ちょ、萌黄さん!」
「あはは、冗談冗談。きっとなるようになるよ」
 萌黄はひらりと立ち上がると、ドアに向かった。いつの間にか相談に乗ってもらっていたことに気付いて、藍子は礼を言おうとしたが、萌黄は素早くドアを開けて部屋を出て行くところであった。
「おやすみー。サンタさん来るといいねー」
 と、ドアが閉まる一歩手前でまたドアが開いて、萌黄の笑顔だけが戻ってきた。
「藍ちゃん、もっと自分に自信持ってね」
 この人は一体どこまで知っているのだろう──ドアがパタンと閉まる。萌黄が本物の魔女のような気がして、背筋が少し寒くなった。




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