冬に咲く花、春を待つ空


    エピローグ  風 月

 春の乾いた風が、長い黒髪をかき乱す。風に乗って漂う若草の香りが胸に清々しい。
 暴れる髪を手で押さえ、クリスは空を見上げた。
 雲一つない晴天。この場所は視界を遮るものがないから、果てしなく広がる青い空に吸い込まれそうな感覚に陥る。白いブラウスにコットンパンツというこの服装でちょうどいい暖かさだ。
「陛下……」
 呼ばれて振り返ると、傍らに控える若い侍女が今にも泣き出しそうな顔でこちらを見つめていた。今はもう隠居したエレナの遠縁に当たる娘だ。
 春戦争が終わって八年。自分を取り巻く環境も随分と変わった。
「ほ、本当に行かれるんですか?」
 黒い髪に黒い瞳。この娘もランバルド人の血を色濃く受け継いでいるらしい。眉根を寄せて心配そうな表情を見せる彼女を見ていると、かつての自分を思い出す。
「当たり前でしょ」
 そう言いながらクリスは手に革手袋をはめ、ニッコリと微笑んで見せた。
「でも……お一人でなんて……」
「一人で飛びたいから、免許を取ったのよ」
 歩き出したクリスの後を追うように、侍女もついてきた。
 クリスの足は、一機の小型セスナ機の前で止まった。
 おもむろに取り出した大き目のサングラスをかける。ラフな服装といいサングラスといい、一目ではこの国の女王とわからないだろう。
 正式にセスナのライセンスを取り、今日が初の単独飛行となる。クリスはこの日を長いこと待ち望んでいたのだ。
 操縦席に乗り込み、ヘッドフォンをかける。色々と計器をいじるその姿はいっぱしのパイロットだ。
 管制からOKが出て、いよいよタキシング開始。外で待つ侍女にちょっと格好をつけて親指を立てて見せると、彼女の口が「お気をつけて」と言ったように動いた。
 ここはランバルディア郊外にある小さな飛行場だ。ジェット機のような大きな飛行機はいない。それだけに比較的静かで、周囲も野原や畑が広がるばかりだ。
 のどかな景色を横目に滑走路の端までたどり着く。空までまっすぐ伸びるような灰色の滑走路を目の前にして、クリスは一度目を閉じた。
 訓練に訓練を重ね、教官つきではあるが何度も飛行したのだ。一人でも大丈夫──
 離陸許可が出た。スロットルを押し込み、フルパワーで加速する。慎重にペダルを踏み、機体がぶれないよう操縦桿をしっかりと握った。
 加速がついたところで操縦桿を引くと、機体から伝わる地面のごつごつした感触がなくなり、一瞬世界が静かになった。重力からも解放されたかのようなふわりとした感覚に、自分が今空を飛んでいることを実感する。
 地上の景色があっという間に遠ざかり、下に消えていく。見上げれば視界全てが紺碧の空だ。
 水平飛行に入り、機首をランバルディア市内の方へ向けた。
 見下ろす大地は平穏そのものだ。種まきの季節を迎えた土色の田畑では人々が農作業に精を出し、雪解け水を集めて流れる川面は春風に波立って煌く。
 道路を走る車も、あちこちに立つ工場も、戦前と比べてその形を大きく変えた。その一方で王宮は以前と変わらない姿で、古きよき時代をそのままに映し出している。
 古きも新しきも混在するランバルディア──冬戦争、春戦争を経て真の独立を果たし、苦しい時代を耐え忍びながら確実に成長したランバルドの姿に、クリスは胸が熱くなる想いだった。
 女王として、この国の象徴として、戦後の復興に持てる力の全てを注いだ日々。どんなに辛くとも、この胸に灯る希望の灯火だけは絶やさずに歩んできた。
 ちょうど眼下に冬宮殿が見える。かつて住んだこの宮も、今は美術館として広く民衆に解放されている。冬は雪に埋もれるあの庭園も、今は桜、木蓮、チューリップ、マーガレット等の花々に彩られ、緑と茶色のキャンバスに色鮮やかな絵の具を散らしたようだ。
「きれい……空からの眺めがこんなに素晴らしかったなんて」
 そう言ってクリスは横を向いたが、そこには誰もいなかった。単独飛行であることをすっかり忘れていた。途端に孤独感が押し寄せてきて、心細くなる。
 彼も──いつもこんな孤独を感じていたのかしら。
 そういえば、彼は空から見た冬宮殿を「一枚の絵画」と評していた。
 本当にそうだと思う。この景色を見ることができただけでも、周囲の反対を押し切ってセスナの免許を取った甲斐があるというものだ。
 時間はかかってしまったけれど、やっとここまでたどり着くことができた。免許を取ったのも、あの日の約束を果たすため。「またいつか一緒に空を飛びたい」と願ったその思いを叶えるためだ。
 セスナはランバルディア上空を過ぎ、湖の上に出た。
 陽光を反射して、水面が眩しく輝く。サングラス越しでも目を細めてしまうほどだ。西に傾き始めた太陽に、その機首を向ける。
 群青の空は本当に美しく、いつまでも飛んでいたい、そんな気分にさせてくれる。この世の果てまで、どこまでもどこまでも飛んでいきたい。
 少しだけ、目を閉じる。
 エンジンの音だけが心地よく響く操縦席。自分以外の誰もいない世界で、孤独を受け入れ、孤独を愛する──
『まったく……貴女という人は』
 無線から聞こえてきた声に、クリスは驚いてパチリと目を開けた。首を捻って周囲を見回すと、右後方、遥か彼方にキラリと光る物体を見つけた。
 見る見るうちに、その飛行機はこちらに近づいてきた。明らかにこちらを認識していて、ニアミス覚悟で接近している。
『私が行くまで待ってとお願いしたのに』
 セスナの横にぴたりと並んだその戦闘機は、レシプロエンジンのプロペラ機。空軍でも主力がジェット機に様変わりしつつあるこのご時勢、もはや時代遅れと言われてもおかしくない戦闘機だ。
 操縦席に座る人物もよく見える。彼はこちらを向き、帽子とゴーグルを外した。セピア色の髪をかき上げる仕草は昔から変わらない。遥か上空の空の色にも似た藍色の双眸に見つめられて、クリスは笑顔を返した。 
「あなたが遅いのよ、ヴィート。女を待たせるなんて色男失格じゃないの?」
『相変わらず手厳しい……でもそこが貴女らしい』
 そう言ってヴィートは笑った。
 クリスの初の単独飛行に合わせて、昔の戦闘機を引っ張り出して飛んできてくれるあたりが心憎い。
 だがそんな彼も、戦闘機パイロット、そして軍人を退いてかなりの月日が経つ。退役の際にはその輝かしい戦績に対して爵位が贈られ、今はローヴェレ公爵──つまりは『王配殿下』と呼ばれる身分だ。
『悪魔』としての彼は、帰ってきたあの日に使命を終えた。
 彼の右足は、あの時すでにその機能を失っていたのだ。動かなくなった足は今は義足にとって代わり、杖を必要とする生活を送っている。義足でも普通の飛行には支障ないが、もはや戦闘には耐えられない足となってしまった。
 だがそれでいいのだ。悪魔が蘇らなければならない空など、もうどこにもないのだから。
 これからはこの平和な空を、ランバルドを見渡せる広い空を、どこまでも一緒に飛んでいこう。
 ヴィートの戦闘機がその翼を揺らした。「ついてこい」という合図だ。そして翼を傾け、上昇する。クリスもまた旋回し、彼に倣った。
 二機の飛行機はその翼を並べて飛んでいく。その姿は二羽の鳥が仲睦まじく羽を交わす姿にも似ている。
 二人は高く高く舞い上がって──やがて群青の空に溶け込んでいった。

                了




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