冬に咲く花、春を待つ空


    雨 月

 国王パオロ二世崩御を受けて、国王の長女クリスティアーナは王宮においてただちに女王に即位した。国王の突然の崩御のニュースは国中を震撼させたが、美しく聡明な若き女王の即位は国民の動揺を最小限に抑えただけでなく、長く暗いトンネルの中にいまだあるこのランバルドに新たな光を与える存在としてセンセーショナルに捉えられたようだ。
 国王の葬儀を経て、二週間後には大聖堂にて戴冠式が執り行われ、金の王冠を戴いてクリスは公式にランバルドの女王として国内外に認められることとなった。
 戴冠式に諸外国の王族や要人たちが多数列席する中に、ヴォルガ皇帝の代理としてベルンハルト皇子が参列していたことを新聞は大々的に報じている。前々からクリスティアーナの配偶者候補として名前の挙がっていたベルンハルトが、ヴォルガ皇太子を差し置いての代理として来訪したとあって、結婚に向けての準備が着々と進んでいることをうかがわせる、と新聞各紙──政府機関紙は好意的に、対して大衆紙は批判的に、それぞれ対照的な報道を行っていた。
 大衆紙の売り上げが機関紙を大きく上回ったことから見ても、国民がこの政略結婚を快く思っていないことは明らかである。
 そんな国民の声が届いているのかいないのか、王室はいまだクリスの結婚に関しての公式なコメントを出していない。

 初めてベルンハルト本人と対面した時、写真で見るよりも線の細い男性だなとクリスは率直に思った。
 海軍士官として兵役を積んだとは聞いていたが、そのわりに色が白く、少し長めの金髪が中性的な印象だ。燕尾服に身を包んだその姿は軍人というよりも芸術家に近い。
 噂通りの物腰の優雅な見目麗しい青年ではあったが、威厳あふれる皇帝イヴァン三世とは正反対の雰囲気であった。皇帝の妹である母にそっくりなこの甥を、皇帝は大層可愛がっているのだそうだ。
 戴冠式の後、両国の王室、首脳が一堂に会しての祝賀会が催された。表向きはどうあれ、事実上王配として内定していたベルンハルトとクリスを対面させるのが目的だったのは確かだ。とは言うものの、ランバルド王室としては何一つ了承した覚えのないものだったが。
 政治家たちが結婚をさも既成事実のようにして、談笑がてら今後のことを協議しているその横で、クリスはベルンハルトからの挨拶を受けていた。
「お初にお目にかかります。クリスティアーナ女王陛下」
「こちらこそ、お会いできて光栄ですわ」
 お互いに握手を交わす。
 浮かべた笑顔の下でどんな思惑が渦巻いているのか──互いに手を握り締め見つめ合うのは、こまかな表情の動きさえ見逃すまいとするためか。
「お美しい方だとは聞いておりましたが……いやはや、本当にお美しい……」
 通り一遍の社交辞令が済むと、ベルンハルトはそう言って目を細めた。ドレス姿のクリスを頭のてっぺんからつま先まで眺めて、大仰なため息を漏らす。
 初対面とはいえ、双方の事情は大概のことは知っている。最初のうちはかなり身構えていたクリスも、ベルンハルトの紳士的な振る舞いと、さらには彼と同年代と言うこともあり、言葉を交わすうちに緊張も徐々にほぐれていった。
 ぎこちなくも談笑していると、カルダノが近づいてきた。
「陛下とベルンハルト皇子と、若いお二人だけでお話したいこともたくさんあるでしょう。本来なら無粋な我らが退出すべきなのですが、何せ人の数が多いものでしてね。あちらのお部屋で、お二人きりでお話をなさってはいかがでしょうか」
 ベルンハルトとクリス、交互に見せたカルダノの笑顔はどこか下卑て見えた。返事をする前に背中を押して別室へ追いやろうとさえしてくる。何かつまらぬことを企んでいるに違いない。
 客人であるベルンハルトは成り行きに任せようとでも言うのか、微苦笑を見せるばかりだ。カルダノの申し出を突っぱねることは簡単だが、それではベルンハルトに対して失礼に当たる。
 どうしたものかと思っていると、クリスとカルダノの間に割って入る人物がいた。
「陛下に失礼ですぞ、大臣」
 クリスを守るように一歩前に出た男──それは叔父のスフォルツァ公爵だった。
 父亡き後、クリスの次に王位継承権を持つこの叔父は後見人としての役目も持つ。王家の重鎮として、この結婚に強硬に反対しているのもこのスフォルツァだった。
「大体、我々王室はこのような場を設けるとは一言も聞いていないのですがな。それに前国王が崩御なされてまだ一月……王室としてはいまだ喪に服さなければならないというのに、そなたらときたら……せめて縁談の話を先延ばしにするくらいの気遣いがあってもよいと思うのだが」
 スフォルツァは苦々しくまくし立てたが、カルダノはわざとらしく背をそらせて、背の低いスフォルツァを見下ろした。
「公爵こそ失礼ではないのですかな? ベルンハルト皇子は皇帝陛下の名代としてここにいらっしゃってるのですぞ。この祝賀会は遠路はるばるお越しいただいた皇子を歓迎するためのものでもあるのです。それを皇子の前で難癖つけるような真似をなさって……」
 国王が若いクリスに代替わりしたとあってか、カルダノをはじめとする政治家たちはますますもって王室を軽んじている。ヴォルガとランバルド、君主とすべき王室を完全に履き違えているようだ。
 クリスも腹に据えかねるものはあったが、ぐっとこらえて飲み込んだ。この場で大騒ぎするのは得策ではない。
 カルダノに食って掛かりそうな勢いのスフォルツァをなだめ、クリスは笑顔を作った。
「せっかくですから、皇子とお話してきますわ」
「しかし陛下……!」
 スフォルツァは青ざめた。何かあってからでは遅いという後見人としての責任感なのか、クリスを止めようと必死だ。その危惧もわかるが、あくまでベルンハルトは客人。彼の顔をつぶすような真似だけは女王として避けなければならない。
 大丈夫とばかりにクリスはスフォルツァにうなずいて見せた。
「少しだけですから……では皇子、参りましょう」
 クリスの気苦労がわかるからこそ、スフォルツァもそれ以上何も言わなかった。唇を噛み締め、うなだれるばかりだ。
 二人は広間を出て、すぐ近くの小さな応接間に入った。クリスに続いてベルンハルトが入ってきてドアが閉められると、途端に緊張が襲ってきた。
 暖炉に火が入れられた応接間は暖かく、静けさの中で薪がはぜる音だけが響いている。
 二人きりになったからといって、特別話すことがあるわけでもない。ましてや今日初めて顔を合わせた者同士、衆人に聞かれて困るような踏み込んだ会話ができるはずもない。
 クリスは場を取り繕うように、ベルンハルトに話しかけた。
「お見苦しいところをお見せしてしまって……臣下に代わってお詫びいたしますわ」
 彼は首を横に振った。
「いえ……陛下が色々と難しいお立場立たされていることは、十分承知いたしておりますよ」
「お気遣い痛み入ります」
 ベルンハルトもまた自分の立場をよくわかっているのだろう。小さな気遣いが、今はありがたい。
「陛下が結婚のことでお心を痛めていることもわかっています。周囲はこの結婚に対して色々と考えているようですが……それでも私は貴女様のことを、純粋に愛しておりますよ」
 面と向かって「愛している」などと言われると、ベルンハルトに何の情も抱いてなくても、自然と頬が赤らんでしまう。そもそもこんなふうに求愛されるのが初めてのクリスにとって、この言葉を聞くのは顔から火が吹き出るほどに恥ずかしく、うつむいて顔を隠すほかなかった。
 返す言葉に困っていると、ベルンハルトの優しい声が降ってきた。
「私は──国のことなどどうでも良いのです」
 クリスは驚いて、弾かれたように顔を上げた。
 見上げたベルンハルトは屈託なく笑っていた。
「もとより政治を動かせるような能力は持ち合わせていませんからね。難しいことは叔父たちに任せます」
 冗談にしてはきつ過ぎる。道化を演じているにしては純粋すぎる笑み。仮にも王配になろうかという人物がこんなことをあからさまに語ってしまうとは……
「私が望むのはこの国の実権でもなく、富でもなく、ただあなた一人──その黒い髪、白い肌、凛々しい唇、細い指、しなやかな腰、すべらかな足……あなたの全てを私一人の物にしたい、ただそれだけですよ」
 この身体を舐めつくすように、ベルンハルトの視線がゆっくりと上下する。おぞましさに背筋が寒くなり、息を呑んだまま声も出なかった。
 彼はクリスの右手を取った。冷え切ったクリスの手以上に冷たい手。氷にでも触れているかのようだ。
「私が怖いですか?」
 ベルンハルトの瞳に浮かぶ、ほの暗い欲望の光。つかまれた右手から身体が凍りつく。
「ですが、あなたは私を拒めない──心優しい陛下のこと、ランバルドの民が傷つき血を流す姿など見たくはないでしょう? あなたがこの結婚を承諾すれば、この白い大地が血で汚されることもないのです」
 人の弱みに付け込むような真似を──
 この男は、自らの立場を熟知している。その上で立場を利用し、楽しんでいるのだ。
「あなたはこの国を守る美しき女王──決して生贄などではないのですよ」
 ベルンハルトはクリスの右手を甲を上にして持ち上げた。そしてゆっくりと、その甲に唇を寄せる。
 次の瞬間──クリスは思い切り手を引いていた。唇が甲に触れる前に、ベルンハルトの手をもすり抜けて。そして自らの左手で右手をかばった。
 ここだけは、誰にも触れられたくない。たとえこの身を汚されようとも、ここだけは何としてでも守りたかった。
 青白い顔でうつむくクリスを慈しむように、ベルンハルトは微笑んだ。
「これはこれは……どうも御気分を害してしまったようですね。申し訳ありません」
 だがその顔に浮かぶのは嘲笑。慈しむのではなく、蔑んでいるのだ。
「では私は去ることにしましょう。他の者には、陛下はお疲れのご様子なのでお休みいただいたと伝えておきますので、どうぞごゆっくりなさってください」
 ベルンハルトは一礼すると、踵を返して応接間を出て行った。
 遠ざかる靴音が聞こえなくなってもまだ、クリスは動けなかった。右手をかばったまま、ただ身体を震わせることしかできない。
 認めたくなかった現実を目の当たりにして、クリスはこみ上げてくる涙をこらえようと必死だった。

   ◇ ◇ ◇ ◇

 取り巻く世界は一変し、日々流されるままに過ぎていく。
 新米の国家元首として、目が回るような量の公務に押しつぶされそうになりながら、それでもクリスは弱音を吐くことはなく、ただ黙々と自分の責務を果たしていた。
 次々とやってくる国賓との会見。食事を取る間も入れ替わり立ち替わり侍従が仕事の話を持ってくる。毎日手渡される分厚い閣議決定書類へ目を通し署名。夜ともなれば宮中晩餐会や、外国大使や政府関係者との食事会だ。それが終わっても、覚えなければならない国事行為を寝る間も惜しんで勉強する。
 冬宮殿に私物の整理に戻ることすらままならなかった。王宮でも引き続きエレナが身の回りのことをしてくれているが、彼女も生活環境が一変したことに少なからず疲れを感じているようだ。
「私のことよりご自分のことを心配してくださいな。なんだかお顔の色が優れませんよ」
 エレナはそう言ってくれるが、まだ若い自分よりそれなりに年を取ったエレナの方が心配になるのは当然のことだろう。
 書類にサインする手を止めて、クリスはエレナの入れてくれた紅茶に口をつけた。
 即位から一ヶ月。少しずつではあるが女王としての仕事にも慣れてきた。即位してすぐの頃はあまりの忙しさに余計なことを考える暇などなかったが、それが一段落してやっと余裕ができてきたように思う。
 王宮の一角にあるこの執務室は代々の王が使ってきた部屋で、クリスが座る執務机も重厚な造りの王専用机だ。王宮の中庭をのぞむ大きな窓からは暖かな日差しが差し込み、敷き詰められた赤い絨毯に陽を落としている。
 冬も寒さの厳しい時期は終わり、日一日と春に近づいているのがよくわかる。中庭はいまだ雪に覆われているが、軒下からしたたる雪解け水が陽光に煌いて、近づく春を予感させる。
 紅茶を飲み終わって、大きく背伸びをして席を立った。長い黒髪と萌黄色のワンピースの裾を翻して、窓辺に向かう。
 冬晴れの今日は空も青く、ツグミがどこかで朗々とさえずる声が聞こえてくる。
 ふと、青空を横切る飛行機の姿が目に入った。一瞬ドキリとした胸に、思わず自嘲を浮かべてしまう。
 彼は今、遠く離れたスティーアの空を飛んでいるはずだ。あれは違う。
 ことあるごとにヴィートのことを思い出してしまう自分が少し情けない。未練がましくいつまでも彼のことを想っている自分に嫌気さえ感じてしまう。
 彼は空を取り戻したのだ。
 きっと今頃、水を得た魚のように大空を自由に飛びまわり、その喜びを噛み締めていることだろう。向こうの基地でも、あの華やかな笑顔で女性たちを魅了しているに違いない。
 ヴィートは前に進んでいる。冬戦争をようやく過去のものにして、未来へ向けて彼は歩みだしているのだ。
 それなのに──自分は。
 踏み止まったまま動けない。忙しさの間にやってくる心の隙間を埋めるように、彼のことを思い出している。このままじゃいけないとわかっているのに、忘れたくても忘れられない。
 右手の甲が熱く疼く。
 気づけば、唇を寄せていた。冷たい手に、触れる自分の唇の温かさ。
 恋を教えてくれたヴィートが、今は恋しくてたまらない。
 だが彼とは決別したのだ。あの忠誠の誓いのキスで、お互いにそれぞれの人生を歩むことを決めたのだ。
「クリス様」
 呼ばれて振り返ると、エレナが心配そうな顔でこちらを見つめていた。
「……本当に少しお休みになられたらいかがですか? お身体も心配ですけど、それ以上にご心労がおたまりでしょう」
 窓の外を物憂げに眺める自分の姿に、気がかりなものを感じたようだ。
 クリスは笑顔を作って答えた。
「ありがとう……でももう少ししたら首相との会談があるし、その後はおじ様……スフォルツァ公もいらっしゃるでしょ。どちらも大事なお話があってのことだし、すっぽかすわけにはいかないわ」
「どちらもご結婚についてのお話じゃありませんか。首相は断固推進、スフォルツァ公は断固反対……両極端なお話を立て続けにされてはそれこそ参ってしまいますよ」
 政治家たちは段取りを全て整えた状態で、あとは胸一つというクリスに決断を迫る。それに対し王室の重鎮たちは結婚を阻止しようと、毎日のようにクリスを説得しにやってくる。身を二つに引き裂かれるような思いで彼らの話を聞くのは相当に耐え難い苦痛であった。
 しかもクリスが女王に即位したことで、これらのスケジュールが前倒しになってきている。若き女王を支える王配を早くに迎えるべきだと、政治家たち──要はヴォルガ側がゴリ押ししているのだ。その考えは確かに間違っていないとも思う。小娘のような自分だけでこの国を支えられるのかと不安に思う国民もいるだろう。
 何より、一番迷っているのはクリス自身なのだ。
 もう少し時間と余裕があれば、皆が納得のいく答えが出せたかもしれない。
 しかし、現状では結論を引き伸ばすのもそろそろ限界である。これ以上曖昧な態度を取り続けることは、議会と王室の間の溝をただ広げるだけだ。
 愛のない結婚に覚悟は決めていたはずだった。国を守ろうと決意したその覚悟を揺るがし、迷わせているのはヴィートという大きな存在。
 何が一番大事なのか。
 何を一番守りたいのか。
 見極め、決断しなければならない。
 最後に見た、ヴィートの顔を思い出す──厳しくも端麗な、微笑めば眩しく、時に鋭い眼光で相手を射抜く、彼の顔。
『強く正しく、心の赴くままに生きよ』
 父の最期の言葉を思い出す。
 今こそ──わが心の赴くままに、決断をするべき時ではないだろうか。
「……大丈夫よ、エレナ」
 その胸にゆるぎない決意を秘めて、クリスは微笑んだ。

   ◇ ◇ ◇ ◇

 どこかで鳥が鳴いたように聴こえた。
 あれはヒバリだろうか。春を告げる鳥だというが、鉛色の空から落ちてくる淡雪が滑走路を濡らす様を見つめていると、いまだ春は遠いように思える。
 滑走路の向こう側に広がる海も空と同じ鉛色をして、荒波が岸壁に叩きつけられて激しい水しぶきを上げる。
 ここは海沿いだからか、内陸のランバルディアほど雪深くはない。
 彼の地はいまだ雪に覆われて、美しい冬の姿を留めているのだろうか。日一日と近づく春の足音に、あの庭園を愛した彼女はどんな想いを抱いているのだろう──
 ヴィートは滑走路の中央に立って、南の空を見上げていた。
 中隊長として新設された隊を率いるようになって一ヶ月。ようやく隊もまとまるようになり、戦闘機部隊として最低限の仕事はこなせるところまでこれたと思う。まだまだ課題は多いが、訓練でできることは全てやった。後のことは実戦で身につけるしかない。
「おい、ヴィート! ここにいたのか」
 呼ばれて振り返ると、それは大隊長のデムーロ大佐だった。かつての上司フェラーリン准将の兵学校時代の後輩だそうで、准将に言いつけられてかヴィートのお目付け役をやっているフシがある。
「なんですか」
「准将から電話があってな……」
「あの件のことなら、お断りしたはずですよ」
 デムーロの言葉を遮るようにヴィートは答えた。
「ってお前なぁ……いい話じゃないか」
 どうやら図星だったらしい。
「准将が懇意にしている侯爵家のご令嬢だぞ。向こうもお前を気に入ってるらしいし、悪い話じゃないと思うけどな」
 転属する前に一度ハッキリと断ったはずなのだが、准将はまだ諦めてなかったらしい。
「お前みたいなヤツは結婚でもしないと落ち着かないだろう? ここいらが人生の墓場ってやつじゃないか?」
 墓場とは身も蓋もない言い方だが、恐妻に尻にしかれていると評判のデムーロが言うと妙に説得力がある。ヴィートは苦笑を浮かべたが、静かに首を横に振った。
「……今はそんな気分になれないんですよ」
 結婚したいとかしたくないとかではなく、それが率直な気持ちだった。
 そう言ってうつむいたヴィートに、デムーロは何か別の理由を考えたようだ。 
「なんだ、新しい女でもできたのか?」
 デムーロは呆れ顔をしたが、ヴィートは悪びれもせずに笑った。
「女性のことを考えない日はないですけどね」
「特定の恋人はいないんだろ? それともまだ遊び足りないって言うのか? まさかお前が女に片思いしてるわけないだろうし……」
 だがヴィートは答えなかった。厚い雲が覆う空を見上げて、意味深に口元を歪めるのみだ。
 デムーロは驚いたように顔を引きつらせた。
「え……本当に? お前が? 口説いてないのか? どんな女だ?」
 デムーロが浴びせかける矢継ぎ早の質問に、思い出さざるを得なくなる。
 目を閉じれば、彼女の凛とした立ち姿がはっきりと浮かんでくるようだ。すぐそこに、手を伸ばせば届きそうな──
「……見つめるには眩しすぎて、抱きしめるには遠すぎて、想いを伝えるには美しすぎる人ですよ」
 届きそうで届かない。
 彼女はこの空よりも高い、遥かなる高みへ上ってしまったのだ。
 デムーロはポカンとして、ヴィートの顔を食い入るように見つめていた。
「……お前ほどの色男をそこまで詩人にするとは……よっぽどいい女なんだな。で、どこの誰なんだ?」
 まったく、詮索好きな上司だ。しつこく喰らいつくデムーロを何とかあしらって、ヴィートは格納庫の中に逃げ込んだ。
 誰もいない格納庫は静まり返って、波の音が遠くに聞こえるのみだ。
 鈍い軍靴の音を響かせて、鎮座する愛機に近づく。その機首にはかつて『白い悪魔』と異名を取ったユニコーンの絵が再び描かれていた。
 労わるように、機体を撫でる。
 彼女に嘘をついてしまった。
 本当は断っていた縁談を、口実のように持ち出してしまった──自分と彼女の間に生まれつつあった何かを断ち切るために。
 彼女に結婚するなと言っておきながら、自分の力では彼女を幸せにはできない。その資格はないのだ。
 あれでよかったのだと思いたい。心を残せば後が辛くなる。彼女を想えば想うほど、自分も、そして彼女をも苦しめてしまうだろう。
 今の自分にできることは、彼女のために戦うこと、ただそれだけだ。
 彼女は決断してくれるだろうか……
 何が一番大事なのか、何がこの国の一番の幸せなのか。
 今は彼女を信じて、待つしかない。覚悟はとうにできている。
 自分は戦う理由を見つけたのだ。もう何も恐れない。この手が再び血で汚れようとも、この大地を守り通してみせる。
 ランバルドを守るためなら、今再び「悪魔」として目覚めよう。

   ◇ ◇ ◇ ◇

 その日、ランバルディアには寒雨が降り注いだ。
 いつ雪に変わるとも知れない冷たい雨だが、それでも積もる雪を溶かして、季節をまた一歩進める。長い冬の終わりが確実に近づいている──
 だが、ランバルドの人々の心は晴れなかった。灰色一色の空は、人々の心に立ち込めた暗雲を表すかのようだ。
 その日の新聞各紙の一面に大きく取りざたされた記事が、国全体に暗い影を落としている。

【クリスティアーナ女王、ヴォルガのベルンハルト皇子との婚約を発表】

   ◇ ◇ ◇ ◇

 昨日から降り続いた雨はひとまず止んだようだ。
 雨露に濡れた闇夜を窓越しに見上げて、クリスは嘆息した。中庭の雪はかなり融けて、今日一日でかさが大分減ったように見える。これからは一雨降るごとに徐々に暖かくなっていくのだろう。
 窓辺に置かれた鉢植えのプリムローズが、黄色い花をいくつも咲かせていた。執務机を照らすライトだけが灯るこの部屋で、黄色の花は淡く光るようでもある。
 婚約発表から二日経ち、周囲は落ち着きを取り戻しつつある。それでも、様々な対応に追われたおかげでデスクワークがこの二日滞ってしまった。不可抗力とはいえ、自分の仕事が遅れてしまうことで、大勢の人々が迷惑を被ってしまうのは忍びない。そう思って、こんな深夜までこの執務室にこもっていたのだ。
 もう一頑張りして、残っている仕事を片付けてしまおう。
 クリスはもう一度夜空を見上げたが、厚い雲に覆われた夜空は星一つ見えなかった。
 椅子に腰掛け、机に向かい紙にペンを走らせる。
 昼間の喧騒が嘘のような、深夜の静けさ。この時間が一番仕事がはかどるので、どうしても睡眠時間を削ってしまう。特に昨日一昨日のような慌しさがあると、静寂に包まれるこの時間帯に安らぎを求めがちだ。
 夜も更け、もうすぐ日が変わろうとしている。懐中時計を見て、ため息を一つ。
 気を取り直そうとしたその時──ドアのノック音で静寂が破られた。返事をすると、曇り顔の侍女が入ってきた。
「どうかした?」
「あの……実は至急陛下に謁見したいという方が……」
「えっ、こんな時間に?」
 侍女はうなずいた。
「夜遅くですし、お引取りをと願ったのですが……」
「帰らないの?」
「ええ。陛下にお会いできるまでここでずっと待ち続けると言って聞かないんですよ」
 結婚に反対する市民団体の人間だろうか。そういう人物なら昼間も大挙してやってきたし、外でもデモ行進していたようだ。
 苦笑いを浮かべると、侍女もつられて口元を歪めた。
「……やはりお帰りになってもらいますね。時間が時間ですから」
「悪いけど、そうしていただいて」
 昼間ならまだしも、人の少ない深夜では警備上の問題も色々と出てくるだろう。自分が直接出て行くよりは衛兵に任せた方がよい。
 侍女は意味ありげにクスリと笑った。
「そんな頑固そうな人には見えないんですけどね……若いし、言うこと以外は礼儀正しいし……あまり軍人さんらしくない感じで」
 突然──椅子を倒しそうな勢いでクリスが立ち上がった。
 驚いて目を見張る侍女を鋭く射る視線。
「……その方の名前、聞いた?」
 何か無礼を働いたかと思って恐れおののいた侍女は、震える声で答えた。
「えっ、あ、はい……空軍のエヴァンジェリスティ大尉とおっしゃってました」
 次の瞬間、クリスはペンを投げ出し、部屋を飛び出していた。静まり返る王宮の薄暗い廊下を、黒髪とスカートの裾を翻して風のように駆け抜けた。
 今はただ、彼の顔が見たかった。
 わだかまりも後ろめたさも恐れも、全部置き去りにして走る──何がしたいのが、何を言いたいのかもわからないのに、会いたい気持ちばかりが急いて足を運ばせる。
 長い廊下を突き抜け、角を曲がって王宮のエントランスが見えてきた。
 かの人物は、立ち塞がる屈強な衛兵たちを前にして一歩も怯むことなく、いつものように飄々として微笑んでさえいる。駆け寄ってくるクリスに気づいたのか、常装姿の彼はまっすぐこちらを向くと、柔らかな笑顔を見せてくれた。
「へ、陛下!」
 衛兵たちが慌ててクリスを止めようとしたが、自ら足を止めたクリスは息を切らしながら彼らに下がるよう伝えた。
「この方は……私の大事な友人よ」
 衛兵たちは互いに顔を見合わせながら、怪訝な表情で下がっていった。
 天井の高いエントランスホールに一歩一歩靴音を響かせて、確かめるように彼に近づく。そして目の前に立つと、ヴィートはゆっくりと敬礼を捧げた。
 あれほど恋焦がれた彼が、目の前にいる──
「夜分遅くに申し訳ありません、陛下」
 最後に別れてから一月半しか経っていないのに、なぜこんなにも懐かしい気分になるの 
だろう。
 彼は藍色の瞳を瞬かせた。
「やはりこちらは寒いですね。スティーアはこのところの雨ですっかり雪が融けてしまいましたよ」
 触れたい──その大きな胸に飛び込みたい。
 だがクリスはその衝動を隠すようにヴィートから目をそらした。
「……遠路はるばるご苦労様。ここは内陸だから寒さがきついのよ」
 笑顔で誤魔化し、平静を装う。
 こんな深夜に自分を訪ねてきたその理由を、今ここで訊くのは愚問であろうか。
 あなたはなぜここに──口に出して聞かずとも、その答えはわかっている。
 王宮からの退出を頑強に拒んだというわりに、クリスが現れてもすぐには本題に入らず、何事もなかったかのような笑顔を振りまいているあたりが彼の気遣いなのだろう。
「こんなところでは何ですから、お庭へ行きましょう」
 部屋ではなく、あえて外を選んだ。彼にとってもその方が好都合だと思ったからだ。
 ヴィートも意を得たりとうなずいていた。

 ヴィートを案内した場所、それはかつて舞踏会を抜け出して二人で逃げ込んだあの裏庭だった。
 コスモスが咲いていた花壇も足音を消してくれた芝生も、いまだ薄く雪に覆われて白一色だ。ひっそりとして寂寥感さえ漂う中、地面を踏みしめると晩冬特有の氷のような荒い雪がザクザクと音を立てた。
「ここね、私のプライベートガーデンにしてもらったの」
 あまり立ち入る者のいないこの裏庭だが、クリスにとっては幼い頃からの思い出深い場所だ。自由にできる庭が欲しかったクリスにはこれ以上の場所はないだろう。
「前ほどはいじれないと思うけど、春になったら少しずつ手を加えていくつもり。ガーデニングは私の唯一の趣味らしい趣味ですもの。このくらいのわがままはいいわよね」
「そういうのはわがままではなく、『ささやかな願い』と言うんですよ、陛下」
 ヴィートはそう言って笑った。
 夜空を覆っていた雲の隙間から、月がわずかに顔をのぞかせている。深夜にかけて気温がどんどん下がって、冷え込みがきつくなっているのが肌で感じ取れた。コートを着こんではいるが、足元から寒さが忍び寄ってくる。
「少し痩せましたか」
「あなたは顔の色艶が良くなったようね。向こうでも相変わらず女性を口説いているのかしら?」
「新米中隊長として上司と部下の両ばさみの毎日でしてね。残念ながらそんなヒマもありませんよ」
「あら、現場に戻さない方が良かった?」
「いえいえ。美しい女性を口説くのと同じくらい、空はエキサイティングで楽しいですよ」
「……でしょうね。今のあなたはとても生き生きして見えるわ」
 ほのかな月明かりに浮かぶヴィートの端正な顔。
 流れる雲が月を隠した。薄暗くなりその表情が見えなくなった間隙を突いて、彼は口を開いた。
「……婚約なさったのですね」
 穏やかな中に、微かな非難が滲む口調。
 婚約を発表したあの時から、いつかこの瞬間が来ると覚悟はしていた。もしかしたら彼が飛んでくるかもと、期待すらしていたかもしれない。
「そうよ。これが私の出した結論、一番大事なものを守るためにはこれが最善だと思ったの」
 クリスは微笑さえ浮かべてきっぱりと言った。
 たとえヴィートとの約束を破ることになっても、これだけは譲れなかった。
「今日は私に思い直すよう忠告しに来たんでしょ? でも……悪いけど、もう決めたの」
「陛下は本当にそれでよろしいのですか?」
 覚悟していたはずなのに──彼のまっすぐな視線を受けると、気持ちが揺らいでしまう。
 目をそらして、吐き捨てるように言った。
「いいに決まってるでしょ。私が決めたんだから……私が……我慢すれば……」
 思わず本音が口から零れる。胸の奥に硬く押し込めたはずの本音が、彼を前にするといとも簡単に漏れ出てしまったことに、クリスは焦りながらも重苦しかった胸の内が少し軽くなった気がしていた。
「──自惚れめさるな」
 突然響いた低く唸るような声。聞いたことのないヴィートの厳しい声に、身体が反射的に震える。
 恐る恐る顔を上げると、薄闇の中で彼の藍色の瞳が鋭い光を放っていた。
「もはや陛下お一人の我慢だけですむような事態ではないのですよ」
 眼光に射すくめられて、身動きが取れない。
 ヴィートの顔は、軍人のそれに完全に戻っていた。
「陛下もご存知の通り、ヴォルガはカレリア、トゥーロフの両国と目下戦争中にあります。いかに強大なヴォルガとはいえ、二ヵ国と同時に戦争などという事態になれば必要なエネルギー資源は常に不足している状態です。ヴォルガがこの結婚を強引に推し進めてくる真の目的は、ランバルドの資源にあるのですよ」
 肥沃な大地に石油や石炭などのエネルギー資源を豊富に有するランバルド。
 ヴォルガはその資源を常に狙っていた。だからこそこの土地を手に入れようと侵略を行い、冬戦争が起こったのだ。
 確かに即位してからのこの一ヶ月、ヴォルガの動きには焦りみたいなものが感じられた。婚約の準備を口実に本国から派遣されてきたヴォルガの高官たちは、王宮内を我が物顔で闊歩し役人たちを捕まえては何やら難しい話をふっかけていた。
「ベルンハルト皇子が王配となるのを機に、王宮や議会にヴォルガの人間を多数送り込むつもりなのでしょう。そしてまだお若い陛下を傀儡として、彼らがランバルドの実権を握ろうとしているのは明白です」
 武力で無理矢理資源を奪い取るより、懐にもぐりこんで国ごと意のままに操った方が遥かに手間も金もかからない。
 もちろん、クリス自身も自分が傀儡──文字通りの「人形」にされてしまう危険性は感じている。だが自分さえしっかりしていれば、そんなことにはならないだろうとも思っていた。全ては自分の双肩にかかっているのだと。
 戦争のリスクと傀儡にされてしまうリスク。あえて後者を取ったのに……
「でも……でも、もしまた戦争になったら……冬戦争みたいな泥沼の状態になって国民に大きな犠牲が」
「五年前とは状況が違うのです」
 クリスの言葉を遮って、ヴィートは言った。
「冬戦争ではランバルドの周辺国は巻き込まれるのを恐れて手を出さなかった。けれど今は違います。この国同様にヴォルガの圧力を受け続けている周辺国は今ではランバルドに同情的です。ランバルドが蜂起すれば、周りもそれに同調する公算の方が大きいでしょう。それに──これは軍の内部情報ですがね」
 ヴィートは少しだけ声を潜めた。
「ヴォルガ内部でクーデターの動きがあるそうですよ。そもそも、戦争中の両国だって元々はヴォルガ帝国を形成する一地方、それがヴォルガからの分離独立を謳って武装蜂起したんです。外交で強気に出ているのは、中の屋台骨がぐらついていることの裏返し。今がチャンスなんです」
 爪が食い込むほどに強く握り締めた拳。うつむいたクリスは細かく震える拳をただじっと見つめていた。
 ずっと彼に会いたかったはずなのに、今はその顔を見るのが辛い。彼の唱える正論が耳に痛いが、塞ぐこともできなかった。
「いくら王室が政治介入をしない主義だからと言って、ヴォルガに与する政府が国民をないがしろにしている現状を放置しておいて良いのですか? 自らの保身しか考えてない政治家たちに、国民はとっくに愛想を尽かしていますよ。陛下の婚約のニュースに、あちこちで反対のデモ行動が起きていることはご存知でしょう? 国民だって反対しているのです。今の状態が続けば、遅からずランバルドでも武装蜂起が起きますよ。そうなれば軍の中からも同調する者が出てくるでしょう。そんな混乱状態に陥ることが、陛下の望んだランバルドの未来なのですか?」
 二人の間を、緩やかな風が通り抜けた。
 しばしの沈黙──冷気を白く染める吐息の音、踏みしめる雪の音だけがこの暗い裏庭に漂う。目を伏せるクリスは薔薇色に染めた唇を微かにわななかせていた。
 冷え切ったその手に、ふと冷たいものを感じた。
 手の甲に光る水滴。気づけば空中に白いものが舞っている。
 雪だった。こまかに降る細雪──まるで天から降り注ぐ涙だ。
「……わかってるわよ、そんなこと」
 ひどく子どもっぽい言い方だと自分でも思った。
 ヴィートの言い分には何一つ反論できる隙はない。
 彼の言っていることは何もかも正しいのだ。婚約を思いとどまらせようとやってきた人々と全く同じ主張だ。だから知っていた。
「ヴォルガの狙いも、周辺国が密かに臨戦態勢に入ってることも。クーデターの話だって知ってた……」
 ヴィートは驚いたように目を見開いた。
「そこまで……ならばなぜ……!」
「私はわがままな女なのよ。一番大事なものを守りたいがために、わがままを通そうとしたの」
 そう言ってヴィートに見せた顔は、泣き笑いに近かった。
「あなたを……戦地に送り込みたくなかったの。あなたを苦しめるような真似はしたくなかった……私が国よりも国民よりも大事にしたかったもの、それはあなたなのよ」
 彼が息を呑むのがわかった。
「哀れで愚かな女だと哂ってくれていいわ。あなたの迷惑になることもわかってる……それでも私はこのわがままを通したかったの。あなたをこれ以上『人殺し』にしたくないから。絶対に……あなたを死なせたくないから!」
 何を犠牲にしようとも、ヴィートだけは守りたかった。
 女の愚かさを丸出しにしてまで、この想いを貫きたかった。
 一度堰を切った想いは止まることを知らず、胸を、喉を突き上げてあふれ出す。今は恐れも恥ずかしさもなく、素直な想いだけが言葉となって出た。
「私……私、あなたのことが」
「──陛下」
 穏やかな、それでいて強い拒否を含む声。クリスは言いかけた言葉を飲み込んだ。
「その先を口に出してはいけませんよ。自分のお立場をよくお考え下さい」
 微笑みながら、首を横に振るヴィート。その無情な答えに、こみ上げる悲しさでクリスの瞳から涙がとめどなくあふれた。
 何を期待してたんだろう──受け止めてもらえないことくらい、わかっていたはずなのに。
 顔を背け、涙を隠す。自らの浅はかさを噛み締めて歯を食いしばった。
「陛下、顔をお上げください」
 ヴィートの優しい声が降ってきても、クリスは顔を上げられなかった。こんなみっともない顔は見られたくない。
 涙に濡れる頬は冷気に晒されて冷たく、惨めさで熱くなった頬を冷やしてくれるかのようだ。それなのに、ヴィートへの想いで満たされる胸の内はいまだ熱を帯びて、苦しさに喘いで白い息となって漏れ出る。
 不意に──頬に温かいものが触れた。
 それが彼の手のひらだと気づいて、クリスは驚いて顔を上げてしまった。
 自分を見つめるヴィートの瞳は、凪いだ海のような色をして、波に煌く光を放っていた。
「私は死にませんよ。私を誰だとお思いです? 『不死身の悪魔』ですよ。何度撃墜されようが帰ってきた男です。そう簡単に死ねるわけがないのです」
 彼の笑顔が、これ以上ないほどに力強く感じる。
「それにね、今は戦うことが怖くないのです。私は戦う理由を手に入れた。陛下が美しいと仰ったこの国を守るために──私は今再び『悪魔』となる覚悟を決めたのですよ」
 かつて彼は、「悪魔」として重ねた罪を一生背負って生きていくと語った。
 その罪を、重荷を増やすような真似は絶対にしたくなかった。これ以上、彼を苦しめたくはなかったのに──
 なぜ、この人はそこまでして自分を苦しめようとするのだろう。 
「陛下。この機を逃せば、ランバルドが真の自由を勝ち取る日は永遠に来ないかもしれない。ヴォルガが自滅するのをただ待つのではなく、ランバルドがランバルドであるために、我々自身が自らの足で立ち上がり、真の独立を掲げるべき時なのです」
 そんな正論は聞き飽きた。
 わかっている──そうしなければ、いずれランバルドという国が滅びてしまうであろうことも。
 わかっている──自分に残された選択肢は一つしかない。ヴィートがここに来た時点で、それは決まっていたのかもしれない。
「陛下──どうかご決断を」
 誰よりも優しく、誰よりも厳しく。
 ヴィートはこちらをまっすぐに見つめて、最後の決断を迫った。
 もう抗えない。抗う術を知らない。けれど……ただ一つだけ確かめたい。
 クリスは彼の視線に真っ向から立ち向かい、そして訊いた。
「絶対に……生きて帰ってきてくれると、約束してくれますか?」
 ヴィートは一旦目を伏せ──それからその顔を微笑みで満たして、力強くうなずいた。
「ええ……もちろん」
 覚悟せよ──これからこの国を襲うであろう激動の波を。様々なものを失い、傷つくその痛みを。
 その先にあるのはきっと、輝かしいランバルドの未来。
 何も恐れず、何にも屈しない。
 自分たちだけのランバルドを勝ち取るのだ。
「──わかりました」
 ヴィートだけを映すその瞳に、曇りはなかった。
「婚約は破棄します。ヴォルガとの間に結ばれた不平等な協定・条約も破棄することにします。ランバルドがランバルドであるために……戦争も辞さない覚悟をヴォルガに見せてやりましょう」
 そう言い放った声は冷静ながらも勇猛さにあふれ、まるで何万人もの聴衆へ向けて宣言するかのような迫力を持っていた。
「陛下……ありがとうございます」
 感極まったのか、ヴィートは打ち震える声で言い、深々と頭を下げた。
 もう後戻りはできない。
 これからたくさんの血が流れるだろう。もしかしたら後世、自分は「悪女」として名を残してしまうかもしれない。それでも、今のこの決断が間違っていたとは絶対に言いたくなかった。
 強く信じられる何かが欲しい……
 頭を上げたヴィートを、クリスは笑みもせず、真正面からきつく睨みつけていた。
「誓いを……立ててください」
「誓い、ですか」 
「ここへ……口付けを。絶対に生きて帰ってくるという、誓いのキスを」
 クリスは右手の甲を差し出した。
 それは最後の、本当に最後のわがままのつもりだった。
 想いが叶わぬのなら、せめて最後に思い出を──思い出さえあれば、きっと生きていける。思い出はどんな痛みにも、どんな辛苦にも耐えることのできる強さに変えられると、そう考えていた。
 ヴィートは立ったまま、その手を取った。彼の大きな手はとても暖かく、自分の手が冷え切っているせいかひどく熱く感じる。
 だが彼はひざまずこうともせず、握ったクリスの手をただじっと見つめていた。迷っているのか、困ったように苦笑いを浮かべている。
 誓えないとでも言うの? それとも……?
 随分と長い時間、手を取り合っていたように思う。無理強いしているみたいで段々と惨めになってきた。情けなくなって、手を引っ込めようとしたその時──
 手を強く握られ、逆にぐいと引っ張られた。
 思いがけない強さで、身体ごと持っていかれる。
「きゃ」
 目の前に迫る彼の胸板。勢いよくぶつかるのと同時に背中に腕が回され──
 気がつけば、クリスはきつく抱きしめられていた。
 息が止まりそうなほどの驚き。早鐘を打つような心臓の音が聞かれてしまいそうだ。もがこうとするが、逆に抱きしめる腕に力が込められ背骨が軋んだ。
 こんなにも荒々しいヴィートは見たことがない。いつも温厚で飄々として、紳士的な人間だと思っていた彼が、今は内に秘めた野性をむき出しにして身体全体で荒い息をついている。
 恐る恐る顔を上げると、彼は眉根を寄せ、今にも泣き出しそうな表情をしていた。こちらを見下ろす瞳の光が微かに揺れる様は、言葉に出せない彼の苦しい心情を映し出すかのようだ。
 だからクリスは──目を閉じた。
 一筋の光さえない世界で、全身でヴィートの存在を感じる。
 しがみつくように掴んだウールのコート。広い胸板に身を預け、胸いっぱいに吸い込んだ彼の匂い。
 そして重ねた唇──胸の奥から突き上げ出る想いを、ヴィートの熱情に震える唇が受け止めてくれる。
 ずっとこうしたかった。ずっとこうしていたかった。
 何もかも忘れて、このまま時が止まればいいのに……
 名残を惜しむかのようにゆっくりと唇が離れると、白く熱いため息が漏れ出た。互いの吐息が混じりあって、降りしきる細雪を溶かす。
 ヴィートは少し寂しげに笑っていた。
「あなたが悪いんですよ……そんな瞳で見つめるから」
 かすれた声が耳朶を打つ。
 それが彼一流の照れ隠しであることに、クリスは気づいていた。
「冬戦争で傷ついた私を、あなたは命を懸けて守ると言ってくれた。そんなことを言ってくれた女性はあなたが初めてでした。だから私はあなたを守りたい」
 ヴィートは肩をすくめて、自嘲気味に笑った。
「国を守るという大義名分よりも、ただ一人の愛する女性のために命を懸けて戦う方が、ずっと私らしいと思うのですよ。これもわがままですかね」
 身体が熱く火照り、雪の冷たささえ感じない。熱に浮かされ、めまいを起こして倒れそうになる身体を、彼の背に回した腕でしっかりと支える。
「生きているうちにそういう女性に出会えたことを、神に感謝しますよ」
 その台詞で、クリスは気づいてしまった。
「あなた……まさか……」
 約束とは裏腹に、玉砕するつもりでは──
 だがヴィートは微笑むだけで、何も答えなかった。
 彼は腕を解き、クリスの身体を軽く押しやるようにして離す。どうしようもない不安に駆られて、クリスは彼にすがった。
「だめ……だめよ……待って……行かないで」
 怖い──彼を失うのが、こんなにも恐ろしいなんて。
 ヴィートはクリスの右手を取り、素早く甲にキスした。だがその誓いですら今は気休めに思えてしまう。
「陛下──私は何があっても、どんな姿になっても、必ずあなたのもとへ戻ってきますよ。だから信じて待っていてください。必ずやあなたにランバルドの輝かしい未来を届けますから。その時は……その時こそはあなたの……」
 つないだ手。手のひらを合わせ、冷たい指先を絡ませて、互いの体温を分け合うように強く固く握り締める。
 見つめあう瞳、交わす吐息。
 心が、想いが、つながる。
 あなたが戦う理由を見つけたように──私も強く信じられるものを見つけられたから。
 クリスは穏やかに微笑んだ。揺るぎない信念をその目に宿して。
「……待ってるから。ずっと、待ってるから」
 ヴィートは満足そうにうなずいていた。
 手を離すと、彼は敬礼を捧げた。
「では、これにて失礼いたします……陛下もどうかお元気で」
「ご武運をお祈りしています」
 ヴィートは最後にもう一度礼をして、背を向けた。地面の雪を踏み鳴らして、彼は出口へと向かっていく。追ってはいけない──なぜかそんな気がして、この足が動かない。
 いつの間にか、細雪は大粒の綿雪にその姿を変えていた。ふわりふわりと音もなく降り注ぐ雪は、遠ざかる彼の背中をも包んで霞ませる。
 突き上げる想いに任せて、クリスは叫んでいた。
「いつか! 私もあの空を飛ぶから……またあなたと一緒に、ランバルドの青い空を飛びたいから……必ず、必ず帰ってきて!」
 ヴィートは足を止め、こちらを振り返った。いつかとは逆の立場。だが彼がこちらに歩み寄ることはなかった。
 笑顔で一礼し、また背を向けて歩き出す。その背中が闇夜に溶け、雪の向こうに消えてなくなった。
 立ち尽くし、見送っていたクリス──その身体が突如崩れ落ちた。
 深閑とした裏庭に、くぐもった嗚咽が響く。雪の上に座り込み、身体全体を震わせてクリスは泣いていた。ずっとこらえていた涙があとからあとから溢れ出て、零れ落ちては綿雪を溶かす。
 姿が見えなくなった途端に襲い来る孤独、絶望。辛くて悲しくて、固めたはずの決意が揺れに揺れて、この綿雪のように溶けてしまいそうになる。
 やっぱりだめ。あなたがいなかったら、私は……
 ふと、視線を上げたその先に、雪とは違う何かを見つけた。
 雪が割れ、その下の茶色い地面がわずかに見えている。そこから突き出る緑色の茎、葉。そして滴り落ちる雫のような白い花びら。
 それはあのスノードロップの花だった。
『かつてアダムとイヴがエデンの園を追われた際、雪が降りしきっていたそうです。永遠に続くような冬に、イヴは絶望し涙をこぼした……そんな彼女を慰めるために、天使が一片の雪に息を吹きかけ、この花を作り出したのだと言われています』
 ヴィートの言葉が蘇る。
 降りしきる雪の中、絶望し泣き崩れるイヴ──まるで今の自分そっくりではないか。ならば、目の前で咲くこの花は……
 それはきっと天使ではなく、紳士的で魅惑的な「悪魔」の贈り物。彼が残していってくれたスノードロップは、今まさに希望の花を咲かせていた。
 もう泣かない。泣いてなどいられない。彼はいつだって、この胸の中にいる。
 この希望を信じて、私は強く生きていく──
 クリスは立ち上がった。コートの袖で涙の跡を消し、裾についた雪を払う。
 漆黒の瞳が、見上げた夜空の月を映し出す。
 鋭く、鮮烈に──光を放つ瞳に、もう涙はなかった。

   ◇ ◇ ◇ ◇

 一週間後、ランバルド王室は女王クリスティアーナとベルンハルト皇子の婚約解消をヴォルガ側に通告した。それはほぼ一方的で、ヴォルガにとっては寝耳に水の話だった。
 一度は結んだ婚約を、女王はなぜ一月も経たないうちに解消してしまったのか。
 資源の豊富なランバルドをどうしても手中に収めたかったヴォルガの裏事情に気づいたからとか、婚約が報道されたことでヴォルガの重苦しい干渉に鬱屈した国民感情が噴出し、あちこちでデモ行動が沸き起こったからとも言われるが、そのどれもが以前から言われていたことであり、女王の突然の心変わりの真意としては決め手に欠けるものである。
 そんな中で一つ、まことしやかにささやかれた噂があった。
 冬戦争の勇者として名高い空軍のエース、ヴィート・エヴァンジェリスティ大尉が、女王に婚約を解消するよう直接進言したのではないかという説である。しかもこの二人が恋愛関係にあったのではないかと新聞記事は伝えている。
 だが女王も王室も、多くを語ろうとはしなかった。大尉も空軍も固く口を閉ざし、結局事の真相が世に明らかにされることはなかった。
 面目を丸つぶれにされた形のヴォルガは怒りに狂った。
 政略結婚とはいえ、美しいクリスティアーナに御執心だったベルンハルトは婚約破棄を大層嘆き悲しみ、皇帝イヴァンに泣きついたのだという。元々政略結婚には消極的で、武力でランバルドをねじ伏せたかった好戦的な皇帝は、好機とばかりに軍を動かした。
 もちろん、五年前と同じ轍を踏むランバルドではない。ランバルド軍はその動きをいち早く察知していた。
 冬戦争ではヴォルガの電撃的な侵攻に出端をくじかれたランバルドであったが、今回は十分に準備できる余裕があった。クリスティアーナが婚約破棄を発表したその瞬間から、国全体に戦争への心構えができていたと言っても過言ではない。それを証明するかのように、ヴォルガ軍が動き出す前にランバルド軍は国境付近の軍備を増強していたフシがある。
 とはいえ、ランバルドは決して戦争を望んでいたわけではない。ギリギリまで戦争を回避しようとヴォルガの高官と折衝を続けた。話し合いで平和的に解決できるものならそのほうがいいに決まっている。
 独立紛争を二つも抱え、大半の国力を軍備に割いてしまい国内の財政やエネルギー事情が逼迫する中でランバルドと衝突すれば、たとえヴォルガとはいえ無傷ではすまない。ここで戦争を起こすことがどれだけ無謀なことか、わずかながら残る冷静な政治家はよくわかっていた。だがその意見は、皇帝をはじめとする強硬派に握りつぶされてしまった。
 双方にむなしい雰囲気が漂う中、交渉は決裂。事態は全面戦争へと動き出した。次第に緊張が高まり、両国軍は国境を挟んで部隊を展開。そしてヴォルガは進軍を開始するのと同時にランバルドに対し宣戦布告した。
 こうして第二次ランバルド侵攻──のちに『春戦争』と呼ばれる戦いが始まった。

「報告いたします。本日朝八時、ヴォルガ空軍によるソンドリオ市街地空爆と同時にダオスタ川にて陸軍が砲撃を開始。わがランバルド軍と交戦状態に入りました」
 執務室にて侍従長からの報告を受けたクリスは、重々しくうなずいた。
「それでソンドリオの被害状況は?」
「建物の被害は市街地の十パーセントほどですが、今のところ死者は報告されておりません。スティーアの空軍戦闘機部隊が出撃しただちにこれを撃破、制空権を確保したとのことです」
 彼だ。『悪魔』が戦場に帰ってきたのだ。
 クリスの胸がズキリと痛んだ。ついに彼を戦場に送り出してしまった──もう戻れない。行くところまで行くしかないのだ。
 だが今はそれだけに胸を痛めている場合ではない。すでに市街地に被害が出てしまっている。
 様々な理由があったにせよ、戦争のきっかけを作ったのは自分だ。ずっと張り詰めていた緊張の糸を、この手で切ってしまったのだ。
 彼だけを戦わせるわけにはいかない。国民と痛みを分かち合うためにも、自分も戦わなければ。
「……被災地への慰問の準備を。王室としてできる限りのことをして差し上げましょう」
「御意にございます」
「それと……陸軍情報部にいるラヴェンナ公爵を呼んでください」
「公爵……と言いますと、ゴドフレード王子をですか?」
 ゴドフレード王子は王室の中でも軍歴の長い人間だ。さすがに前線には出ていないが、今も情報部の将校として後方支援に当たっている。
「王室の一員としての彼に、頼みたいことがあるのです」
「わかりました」
 侍従長は恭しく頭を下げた。

 当初は攻勢をかけていたヴォルガ軍だったが、予想通り次第に疲弊した内情が露呈し、守勢に転じていった。何よりも前線で戦う兵の士気がなかなか上がらなかったことが、皇帝たち強硬派の強気な予想を覆していた。
 ランバルドが攻勢を強めることができた理由としては、五年前は口も手も出さなかった周辺国が今回はランバルドに同調し、多大な援助を送ってきたことが大きかっただろう。女王の密使として派遣されたラヴェンナ公爵が各国を回り、援助の確約を取り付けたのだ。
だがもちろんそれだけではない。真の独立を勝ち取ろうと、軍をはじめとして国全体が一致団結し、大国ヴォルガを相手に一歩も引かない姿勢を見せたことが、その後の戦況をも決定づけたのではないだろうか。
 ランバルドはこれを機に、かつて奪われたヴァレーゼ地方の奪還に乗り出した。
 三軍の中でも、冬戦争において多大な戦果を挙げた空軍は、春戦争でもその持てる力を存分に発揮してきた。特に、女王の恋人と噂されたエヴァンジェリスティ大尉──かつて『不死身の悪魔』と呼ばれたその人の活躍には目覚ましいものがあった。
 戦闘機、戦車、装甲車、火砲、舟艇、果てには駆逐艦まで、ありとあらゆるものを撃破していった『悪魔』の恐るべき戦果は冬戦争以上だった。
 まさに鬼気迫る戦闘。『悪魔』が蘇った──ヴォルガ軍パイロットたちの間では恐怖を伴ってそうささやかれたという。
 エヴァンジェリスティ大尉をはじめとするランバルド軍の快進撃に、国民は心躍らせた。
 女王クリスティアーナはというと、自らが戦争の引き金を引いてしまったことへのけじめなのか、進んで戦場に赴き兵士たちを激励した。痛みを分かち合い、苦しみを共に背負い、国のために戦う彼らに感謝の意すら表したその姿に、兵士たちは感動し士気を上げたという。被災した国民に対しては一軒一軒家を訪問し、自らの手を差し伸べて慰めた。
 疎開を勧める周囲の声があった中でそれを頑なに拒み、精力的に慰問を続けるその姿に国民は勇気付けられ、王室に対する信頼を増大させた。
 女王と大尉──図らずも話題となったこの二人が、ともすれば傷ついてバラバラになりそうな国民感情を一つにまとめあげる柱となったことは間違いない。
 ランバルドがヴァレーゼを取り返し春戦争に勝利する瞬間を、誰もが今か今かと待ち望んでいた。

 それは、突然やってきた。
 ランバルディア中に鳴り響くサイレン。本能的に震えが走る。これは──空襲警報だ。まさか……前線から遠く離れたこの首都に爆撃機が?
 クリスは発作的に執務室を飛び出した。侍従が慌てて止めに入ったが、追いすがる手を振り切り、空がのぞめるバルコニーに向う。不測の事態に王宮中が騒然とし、廊下は逃げようとする侍従や女官たちであふれ返っていた。
 バルコニーの手すりにつかまって空を見上げると、雲の隙間に青空がのぞいていた。穏やかな風に乗って、早咲きのスミレの香りが漂ってくるようだ。
 そんな平穏な空の彼方に──小さく見えるいくつかの機影。不穏な気配をまき散らしながら、徐々にこちらに近づいてくる。防空網をかいくぐって来たのだろうか。ヴォルガは首都空爆で戦局の巻き返しを狙っているのかもしれない。
「陛下! 早く防空壕に!」
 すでに逃げ腰の侍従が泣きそうな声でクリスに呼びかけた。いざという時のために防空壕を備えてはあったが、まさか本当に必要になる日が来るとは夢にも思っていなかっただろう。
 だがクリスは侍従を振り返り、凛然と言い放った。
「この国を守るべき私が逃げ出してどうするというのですか。軍も国民も、傷つきながらも必死で戦っているのです。私は逃げません……私もここで戦います」
 次の瞬間──轟音が響き渡った。身体全体が震えるような重苦しい音。
 見れば、遠くで灰色の煙が立ち上っていた。あの方向は大聖堂かもしれない。ついに爆弾が落とされたのだ。
「ああっ……」
 空にはヴォルガ軍爆撃機の大きな機影。戦闘機とはまた違う、胴体の太い機体だ。その腹の部分が開き、黒い小さな物体がパラパラとばらまかれた。
 何発もの轟音が大気を震わせる。市街のあちこちから煙が上がり、道路は逃げ惑う人々で大混乱していた。
 目の前で繰り広げられる惨劇。ランバルディアの人々が傷つき、悲しむ姿を目の当たりにしてクリスは立ちすくんでいた。
 首都空爆の最たる狙いは女王であるこの自分であろう。勢いづくランバルド軍の士気を下げるには、もってこいの標的だ。自分だけを狙えばいいものを──なぜ罪もない市井の人々を巻き込むのか。
 バルコニーの手すりを掴むクリスの手が震えていた。
 爆撃機の音がこちらに近づいてくる。次の狙いは確実にここだ。空から降る悪意をひしひしと感じる。
 クリスはその目に光る涙も拭わず、厳しい目つきで爆撃機を睨み上げた。
 私はここにいる──逃げも隠れもしない。
 大きな影が一瞬のうちに空を覆った。身震いするクリスをあざ笑うかのように、爆弾庫の扉が開く。そして細長い物体が落ちてくるのが見えた。
 クリスは──死を覚悟した。
「きゃああああっ」
 しゃがみこんだ背後から、爆音と爆風が同時に襲ってきた。次いで粉塵と石つぶてが降ってくる。頭を抱えてそれをやり過ごした。
 痛みがあるということは、生きている。それを実感しながら立ち上がり振り返ると、立ち込める煙の中、王宮の一角が見るも無残な姿になっていた。庭の青々とした芝生は深く抉られて大きな穴が開き、堅牢な石の外壁は脆くも崩れ瓦礫と化している。
 あそこに倒れているのは……人影だろうか。クリスの顔から血の気が失せる。
 耳鳴りが収まらない。強がっては見たものの、本当は怖くて怖くて仕方がなかった。
「陛下! 急ぎ退避を!」
 衛兵が決死の覚悟で駆け寄ってきた。クリスを引きずってでも連れて行こうかという勢いだ。だがクリスはそれ以上の威勢で怒鳴り返した。
「それよりも市民の避難を最優先にして! 迎撃部隊は何をやっているのです!」
「ヴェネトの空軍基地も空襲を受けて、迎撃機が出撃できないそうです! 今、他の基地に応援を要請しているそうですが……」
「そんな……」
 応援部隊が到着するまで、ランバルディアはただ爆撃機に蹂躙されるしかないのか。
 一体どれだけの被害が出るのだろう。鳴り止むことのない爆音に耳を塞ぎたくなる。
 誰か……助けて……
 絶望に押しつぶされた胸から、声にならない言葉が湧き上がる。そして閉じたまぶたの裏に浮かび上がる、あの男の顔。
 彼が……いてくれたら……
「陛下! あれを!」
 急に衛兵が叫んだ。見れば南の空を眺め指差している。クリスもその方向を見やると……
 雲の彼方に見える機影。十数機が編隊を組んで、猛スピードでこちらに近づいてくる。あれは多分、戦闘機。ヴォルガのものだろうか。
 いや、違う。
 編隊は散開したかと思うと、速やかに爆撃機を攻撃し始めた。豆粒のような機関銃を大きな爆撃機に向かって連射している。爆撃機は爆弾の投下をやめ、ゆったりと旋回し逃げる態勢に入った。それでも戦闘機は執拗に追い回し、ランバルディアの上空から爆撃機を追いやろうとする。
 どこの部隊かはわからないが、ランバルド軍の応援部隊のようだ。その働きにクリスは安堵し、ホッと息をついた。空襲に恐れおののいていた民衆も、空の援軍に気づいたようで、皆空に向かって歓声を上げている。
 戦闘機のうちの一機が、高度を落とし、まっすぐこちらに向かってきた。そして王宮の上空で大きく旋回する。その動きは、王宮の様子を確かめているようでもあった。
 空を横切る機体を見て、クリスは息を呑んだ。
 ここからでもはっきりとわかるランバルド軍の国籍マーク。そして機体の鼻先に描かれたノーズアート。
 ユニコーンだ。
 美しい一角獣が、真っ赤なバラと、そして真っ白な花を咲かせたスノードロップの花を抱いている。見上げるクリスの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
 彼だ──『悪魔』が、来てくれたのだ。
 クリスは大きく手を振って見せた。自分はここにいて、無事であると知らせるために。
 戦闘機は最後に一度旋回すると、また空高く上昇して編隊に戻っていった。ようやく他の応援部隊も追いついたようで、追い回された爆撃機は煙を吹きながら郊外へ不時着を余儀なくされている。
 彼は今再び、このランバルディアを救ってくれた。彼らの活躍が、一度は折れかけた皆の心を再び蘇らせてくれたのだ。
 彼がいればきっと大丈夫──私たちの願いはきっと叶う。
 私も戦っているから、あなたも必ず──帰ってきて。

   ◇ ◇ ◇ ◇

 大地を覆っていた雪も山の頂にわずかに残るばかりで、眼下に広がる大地は土の茶色と芽吹いたばかりの萌黄、そして絢爛に咲いた早春の花に彩られて、まるでパッチワークで作られた絵画のようだ。そこに茜色の絵の具を流し込んだように、世界は夕陽に染められて美しい情景を魅せつけている。
 ヴァレーゼの空を飛ぶのはまさに五年ぶりだ。
 駐留していたヴォルガ軍もかなりの数が撤退し、代わりにランバルドの地上軍が進軍して、前線は徐々に本来の国境に近づいてきている。
 空でも比較的大規模な空戦が行われることは少なくなった。哨戒任務とはいえ、穏やかな空を飛んでいると、いまだ戦争が終わっていないことを忘れてしまいそうだ。
 もう少しだ──もう少しで終わる。
「夏が来るまでには……この戦争も終わるかな」
 一人ごちたヴィートの呟きに、編隊を組んで飛ぶ部下たちの力強い声が答えてくれた。
『何言ってるんですか隊長。オレたちの手で終わらせるんでしょう?』
『こっちにはなんてったって「悪魔」がいるんだから』
『えらく女にモテる悪魔だけどな』
 無線機越しに笑い声が上がる。
「勲章の一つでももらえば、お前らだって引く手数多だろうよ。女がベッドから離してくれないぜきっと」
『くあーっ、早くランバルディアに帰りてぇ』
『オレも勲章もらえるかな』
「陛下直々に賜れるかもな」
 ヴィートの何気ない言葉に、隊の中に沈黙が降りる。
 誰もが意図的に避けていた、それでもずっと気になっていたこと。それをあえて口にしたのはヴィートの機に並ぶ副官だった。
『そんなこと言って……陛下に一番お会いになりたいのは、隊長なんじゃないですか』
 皆知っている。
 決して口にしないけれど、隊長が女王陛下のことをどれだけ大切に想っているかを。
 軍人としての忠誠心だけではない。それは多分一人の男としての想い。
 陛下と隊長の間に何があったのかはわからないけれど、あの二人の心は遠く離れていても固い絆でつながっている──先日のランバルディア空襲阻止の際に、隊はそれを確信した。
 あまりにも健気で、いじらしくさえある想い。
「……そうかもな」
 ヴィートの呟きは、隊に不思議な安堵と結束をもたらした。
 いつも飄々としながらも部下に細心の注意を払い、自分たちを教え導いてくれる隊長──いや、隊のためだけではない。国のために命を賭して戦うこの人を是が非でも幸せにしてあげたい。今一度、晴れがましく陛下の御前に立たせてあげたい。
 そんな想いが伝わってきて、ヴィートは少し気恥ずかしくなった。
『隊長! 二時方向、敵の編隊です!』
 索敵していた隊員が叫んだ。
 首を向け目を凝らすと、確かに茜色に染まる空の向こうに無数の機影が確認できた。だが、何かおかしい。肌が粟立つのがわかる。
「なんだ、あの大編隊は……」
 その数はざっと見積もっても二百は下らない。これまでに見たこともないような戦闘機の数だ。しかも、あの大きな機体は……
『重爆撃機です! 奴ら、ヴァレーゼを焼け野原にするつもりですよ!』
 よく見れば大編隊のほとんどが爆撃機だ。血の気が引く思いがした。
 追い詰められて、ヴォルガは愚行に走ろうとしている。
 ヴァレーゼをみすみす取り返されるくらいなら、全てを無に返してしまえ──ヴォルガ軍が敗走を始めた頃から、焦土作戦の噂は出ていた。だが、まさかそれを本当に実行に移してしまうとは……そこまでヴォルガは切羽詰っていたのだ。
「……ふざけるな」
 ぎり、と歯軋りをして、ヴィートは操縦桿を強く握り締めた。
「全機! 迎撃に向かうぞ!」
 ヴィートは叫んで、機首を二時方向に向けた。
「応援など待ってられるか。奴らが市街地に入る前に、この山岳地帯でなんとしてでも食い止めるぞ!」
 こちらは高々一個中隊、十六機だ。だが、ここで引き下がって奴らがヴァレーゼに爆弾を落とすのを見逃すような真似は絶対にできない。
 部下たちも覚悟を決めてくれたようだ。全機が隊形を崩さず、ついてきてくれる。
「護衛機はオレがやる。お前たちは爆撃機を!」
『了解!』
 ヴィートは一機飛び出し、全速力で大編隊に近づいた。向こうの護衛機が気づいてこちらに機首を向けてきたが、危険を顧みず大編隊の中に突っ込み、機銃をばらまいてかき回した。隊形が崩れ飛行機が散り散りになり、大編隊はその歩みを止める。
「怯むな! 数は多いが、一機ずつ確実に仕留めていくんだ!」
 そう言っている間にヴィートはすでに二機墜としている。
 混乱し、右往左往する飛行機の間を縫うようにして飛び、乱射される機銃をかいくぐって、一機、また一機と撃墜する。空のいたるところで黒煙が上がり、爆撃機が爆弾を抱えたまま山肌に落ちていって大きな火柱を上げていた。
 だが多勢に無勢。あまりにも数が多すぎる。
 雨のように浴びせられる敵の七.七ミリ弾は容赦なく機体を撃ち抜き、翼を切り裂いていく。計器パネルのあちこちで異常を知らせる赤ランプが灯り、機体は確実に限界に近づいていた。
 部下の機も敵の猛反撃に耐えられず、次々と堕ちていく。これが戦争なんだと思いながらも、手塩にかけた部下が死んでいく様を見るのはやはり辛い。
 せめて、自軍の掩護が来るまで敵の足を止めたい……
「もう少し……もう少しなんだ……」
 必ず戻ると、そう約束した。
 この戦いに勝って、彼女に幸せな未来を届けると、そう誓ったのだ。
 スロットルと操縦桿を握る手に、より一層の力を込める。急旋回に身体と機体が悲鳴を上げようとも、ヴィートは一心不乱に機銃を撃ち続けた。
 大編隊の進路の前に躍り出て、立ち塞がるように突進する。
「ここから先へは行かせない」
 真正面から機銃掃射を浴び、コクピットのフロントガラスが粉々になって頬を切り裂いた。それでもヴィートは決して進路を変えず、根負けした爆撃機が旋回するまで粘る。
 機体は満身創痍、飛んでいるのが不思議なくらいだ。
 気がつけば、右太ももに痛みが走っていた。コクピットに飛び込んできた銃弾が跳ねて当たったのだろう。傷口から流れ出る血が飛行服を赤く染め上げている。
 それでもヴィートはまだ引けなかった。再度旋回し、爆撃機の前に出る。たとえ弾が尽きようとも、身体を張ってでも止めて見せる。
 目の前に迫る爆撃機。動きが鈍くなった愛機。覚悟を決める時がきたのかもしれない。
『隊長! 掩護が来ました!』
 無線機が甲高い声を上げた。
 その言葉に遠方を眺めると、今にも沈みそうな夕陽の光をキラリと反射して、ランバルド空軍の大掩護団がこちらに向かっているのが見えた。
 間に合った……息をついた、その瞬間。
 背筋に寒気が走った。振り返る間もなく操縦桿を倒す。
 直後、数発の鈍い音と機体に走る衝撃。
 後ろから翼を撃たれたのだ。当たり所が悪かったのだろう、プロペラがその動きを止め、機体がつんのめったように急降下を始める。
 もはやここまでか。いや、よくここまで持ったというべきか。即爆発炎上しなかっただけでも幸運なのだろう。
『隊長!』
 部下の悲痛な声が無線機から響いたが、無用な心配をさせないように、ヴィートは努めて明るい声を出した。
「いつものことだろ……春とはいえ山は寒いからな、早めに迎えに来てくれよ」
 ベルトを外し、キャノピーを開ける。
 流れるような動作で空中に身を投げ出すと、パラシュートがすぐさま開いて、大きな白い傘と共にヴィートの身体は雪の残る山へと落下していった。
 薄闇の中、遥か彼方にヴァレーゼ市街地の灯りが見える。平穏無事なその煌きに安堵し、ヴィートは眠るように目を閉じた。

 暗闇に浮かぶ彼女の顔。しとやかで朗らかな微笑を浮かべる彼女がその腕を伸ばして、自分を優しく抱きしめてくれる。
 必ず──必ず、帰るから。

 物音がして、ヴィートは重いまぶたを開いた。
 うっそうと茂る森の中、月の光も届かない地面はいまだ雪に覆われて、ほのかに夜の森を照らしている。物音は鹿か狐の足音だったのだろうか。
 ここからでは空の様子もうかがえない。針葉樹の森は静まり返っていて、戦闘機の音さえ聞こえなかった。
 背を大樹の幹に預けたまま、しばし気を失っていたようだ。
 冷たい地面に投げ出された自らの足。その太ももからは今も血が流れ出している。自力で山を降りようと頑張ってはみたが、この足では土台無理な話だった。陽が落ちてからの冷え込みは思っていた以上にきつく、動けなくなった身体から体温をどんどん奪っていく。
 救助が来るのが先か、死ぬのが先か。這いつくばってでも降りたかったが、すでに身体は言うことを聞かなくなっていた。
 ヴィートはぼんやりとした目で辺りを見回した。
 血まみれの雪。四肢を力なく投げ出し、ただ白く荒い息をつくだけの身体。どこかで見たことがあるような光景だ──
 ああ、そうか。天使だ。
 血の気の引いたヴィートの顔に、笑みが浮かぶ。
 天使をこの手で殺した報いを、いや、数多の人間を撃ち落してきたその報いを受けるその時がやってきたのだ。
 死ぬことは怖くない。怖くなかったはずなのに──どうしてこんなにも心が残るのだろう。
 きっと彼女に出会ってしまったから。彼女を愛してしまったから。
 だが後悔はしない。彼女のために、この国のために戦う。その想いが自分を蘇らせてくれたのだ。
 ひどく眠い。このまま目を閉じれば、彼女の腕に抱かれて逝けるのだろうか……
 また、物音が聞こえた。雪を踏みしめる足音。ゆっくりとこちらに近づいてくるようだ。血の匂いに誘われた狼だろうか。それにしては重量感のあるゆったりとした足音だ。
 もう、首を動かす力も、まぶたを持ち上げる力すらない。近づいてくるものが何者なのかも確かめられなかった。
 足音は確実にこちらに向かってきている。そう──この足音は人間だ。その音は徐々に大きくなって、そしてぴたりと止まった。
 半開きのぼやける視界の中で、軍靴を履いた足が雪の上に立っていた。
 誰だ……救助に来てくれた味方か? いや、敵か……かつて自分がそうしたように、死にぞこないの身体にとどめを刺してくれるのかもしれない。
『不死身の悪魔も形無しだな。そんな顔じゃ女も逃げてくぜ』
 聞き慣れたダミ声が降ってくる。うれしくなって、残された力を振り絞って顔を上げた。
「お前に言われたくないな、ニーノ」
 親友が、昔の姿そのままで立っていた。傷だらけの厳つい顔をほころばせて、こちらを見下ろしている。
「ご丁寧に迎えに来てくれたのか」
 死んだはずの人間が目の前に現れたことの意味くらいわかっている。だがニーノは何も言わず、全てを見通したような目でこちらを見下ろすばかりだった。
 また足音がした。森の暗闇に浮かぶ人影、ヴォルガの飛行服に身を包んだ男だ。
「天使……」
 この手で殺したはずの、あの男。
 ただ一度、顔を合わせたあの時のまま。無精ひげを生やした精悍な顔つきの天使は、ニーノと並んで自分を見下ろしていた。
「二人もお出迎えとは……オレも偉くなったもんだ」
 かつての親友と、かつてのライバルと。あの世への道案内に最適の二人だ。
 声を出して笑ったつもりだったが、もはや切れ切れの白い息が吐き出されるだけだった。
『お前は……戦う理由を見つけたんだろう?』
 おもむろに天使が言った。
 あの日、お互いに見失っていたもの。ニーノにたずねられ、答えられなかったもの。
 そう──五年かかって、やっと見つけたんだ。
 天使はうなずいた。 
『お前には、帰るべき場所がある』
 帰りたい──彼女と約束したんだ。必ず帰ると。
『さあ、行こう』
 ニーノと天使、二人がそれぞれに手を差し出した。
 指一本動かす力すらなかったはずなのに、不思議と腕が上がる。二人の手をしっかりと握ると、何とも言えない心地よさが身体を包んだ。
 これで──ようやく彼女のもとに帰れる。
 この身をランバルドに降る雪に、雨に変えて、いつまでも貴女の上に降り注ぐから。

   ◇ ◇ ◇ ◇

「陛下!」 
 息を切らして執務室に飛び込んできた若い武官を、クリスは静かに振り返った。窓際に立つその頬は落日に染められて、美しい顔に物憂げな影を作り出している。
 武官は直立不動の体勢を取ると、手にしていた書類を読み上げた。
「陸軍からの報告です! 戦線は旧国境線に到達。ヴォルガ軍はそのまま領内に退却した模様! ヴァレーゼを完全に掌握したとのことです! また、ヴォルガの首都で一部兵士によるクーデターが発生したそうです。同調した市民を巻き込んでのデモ隊が皇宮に押し掛け、首都は大混乱に陥っていると……」
「そう……」
 クリスは穏やかに微笑んだ。
 事態を収拾するため、ヴォルガ政府は皇帝イヴァンを退位させるであろう。すでにこちらから打診している講和条約も飲まざるをえまい。
 もはや皇帝の求心力は無きに等しい。帝国は遠からず崩壊し、共和制へ移行する道程を辿ることになるだろう。
 戦争は確実に終結に向かっている。だが、手放しで喜べる状況ではなかった。こちらとて無傷というわけにはいかず、ヴォルガほどではなくとも、その半分ほどの戦死者は確かに出ているのだ。それを思うとうれしい反面、胸も痛む。晴れやかな空を覆う暗雲のように、クリスの心にも暗い影を落としていた。
 武官は深々と一礼すると、またバタバタと部屋を出て行った。入れ替わりにエレナが入ってくる。
 気を取り直して、クリスは笑顔を向けた。
「あら、もうお茶の時間?」
 浮かない顔のエレナはクリスに近づくと、顔を近付けて、ささやくように言った。
「今、連絡が入りまして……エヴァンジェリスティ大尉が行方不明になったそうです」
 クリスの顔が一瞬こわばる。だがすぐに一笑に付した。
「……いつものことじゃない。今までにも何度かあったでしょ?」
「いえ、それが……行方不明になってもう一週間も経つと……」
 身体が震えた。
 それでもクリスは表情を変えず、窓の向こう、鮮やかなグラデーションを描く春の夕空をじっと見上げていた。
 エレナはなおも続ける。
「ヴォルガの空襲部隊との戦闘中に撃墜されたそうですよ。大尉は脱出したらしいですが、付近の山林で血のついたパラシュートは発見できたものの、大尉の姿はなかったと……現在も捜索を続けてるとのことですが……」
「彼は必ず帰ってくるわ」
 クリスはきっぱりと言った。
 その瞳は夕陽に煌いて、強い光を放っている。
「だって、約束したんだもの……」
 窓の外はもうすっかり春の様相だ。寒々しかった木々の枝では、辛い冬を耐えたつぼみが春を謳歌するように美しい花を開かせている。冬の眠りから目覚めた大地にも命の誕生を思わせる春の花々がいっせいに咲き誇り、白一色だったランバルドは一気に鮮やかな色彩に包まれるだろう。
 だが、今この胸に咲くのは、あのスノードロップの可憐な花だ。
 いつもここに、希望はある。愛の証はここにあるのだ。

『……この戦争で、ランバルドは深く傷つきました。たとえ真の自由を勝ち取るための戦いだったとはいえ、皆さんに苦しみを背負わせてしまったことを、女王として大変心苦しく思っています。
 ですが戦争は終わりました。これからランバルドは生まれ変わるのです。私たち王室と、新政府と、そして国民の皆さんが一つとなり、それぞれの手で新しいランバルドを作っていきましょう』 
 王宮前広場に集まった大観衆から歓声と拍手が巻き起こった。段上で演説を終えたクリスは、観衆を見渡し、鳴り止まぬ拍手に笑顔で答えた。
 花曇りの午後。雲に覆われた太陽は、人々の上に柔らかな光を落としている。だが春のうららかな陽気とは裏腹に、民衆は熱気に包まれていた。長きに渡るヴォルガの支配から逃れ、ようやく手にした真の独立に皆沸き立っているのだ。
 戦争は終わった。
 だが──彼は、いない。
 彼がここにいてくれたら──どんなにうれしかったことだろう。
 行方不明になって一ヶ月。四方手を尽くして探したが、その消息はようとして掴めなかった。軍も新聞各紙も、もはや彼の生存を絶望視している。
 それでもクリスはまだ、ヴィートの帰還を信じていた。
 周囲はそんな自分を憐れもうとする。彼の死を信じたくないだけだと。
 だが約束したのだ。
 必ず、帰ると。「またいつか一緒に空を飛びたい」と願ったのだから。
 側近がクリスに退出を促した。この後には新首相のスピーチがあり、軍の戦勝パレードもある。
 クリスは観衆に手を振りながら背を向けた。勝利の余韻にひたってばかりもいられない。これからまた、戦争の後処理という重要な課題が待っているのだ。
 ふと──微かにプロペラの音が聞こえたような気がした。空を見上げたが、飛行機の影は見えない。上空警戒任務の機だろうか。
 後ろを振り返って、クリスは目を見張った。雲の切れ間からまっすぐに降る一筋の光。大地を暖かく照らす光は……天使の階段だ。眩しさに目を細めながら、太陽を見上げる。
 ふと、止まっていたクリスの足が、一歩動き出した。二歩、三歩と足が前に進む。側近が異変に気がついた時にはすでに、クリスは階段を駆け下りていた。
 広場の民衆に向かって走り出す。だがその視線は空を見上げたまま、周囲を気にしようともしない。むしろ民衆の方が急に駆け寄ってきた女王の姿に驚き、人垣が二つに割れ、クリスの前に道を作った。
 何事が起こったのかわからなかった側近や民衆も、ようやく空の異変に気がついたようだ。
 天使の階段から降り注ぐ陽光の中に、何かが見えた。初めは黒い物体としかわからなかった点が、徐々に大きくなってくるに連れ、それがパラシュートを背負った人影だと認識できた。パラシュートに描かれた白と濃緑と藍色の同心円はランバルド空軍の証。その下にぶら下がる人間も、飛行服を着た空軍の兵士だ。
 彼──飛行帽にゴーグルをした姿では男か女かわからないが、女王のただならぬ様子に誰もが『彼』と確信しただろう。
 クリスは広場の中央で足を止めた。遠巻きに見つめる民衆の視線を一身に浴びながら、天使の階段を駆け降りてくる彼だけをじっと見上げている。彼の右太ももに巻かれた白い包帯が痛々しかった。
 陽光を背にした人影は加速度的に大きくなる。姿かたちが、口元の表情さえハッキリとわかるほどに。
 クリスは空に向かって両手を広げた。涙をこぼしながら、それでも笑みを浮かべて。そして──クリスは叫んだ。
「──ヴィート!」
 まっすぐに堕ちてくる彼の身体を、全身で受け止めた。
 勢いあまってしりもちをついてしまったが、それでも彼を抱きしめた腕だけは絶対に離さなかった。
 彼は──帰ってきたのだ。
 地べたに座り込んだまま、無我夢中で彼にしがみつく。恥も外聞もなかった。彼もまたクリスの身体を強く抱きしめ、そして耳元でささやいた。
「ただいま……戻りました、陛下」
 優しいテノールの声。久方ぶりに聞く彼の声は、心も身体をも震わせる。
 この腕の中の大きな身体は、夢でも幻でもない。彼は生きて、帰ってきたのだ。
「……おかえりなさい、ヴィート」
 涙声でクリスは答えた。それ以上は、言葉になりそうになかった。
 周囲からポツポツと拍手が贈られる。それは次第に波のように広がり、やがて歓声を伴って祝福の大きなうねりへと変わった。英雄の帰還は、それ以上の喜びを民衆に与えたようだ。
 二人の上に、柔らかな春の日差しが降り注ぐ。
 天使の階段を駆け下りてきた『悪魔』は、女王の胸に抱かれて──今ようやく戻るべき場所にたどり着いたのだった。




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