芝生の魔女〜萌える季節の約束〜


第1章 季節が終わる前に

『各馬八〇〇の標識を通過、先頭はわずかにユウキレンジャーでしょうか。五、六頭が一丸となって四コーナーに差し掛かります』

「カズ! どけ!」
 後ろから聞こえる先輩の怒鳴り声。
 やだね。誰が譲るもんか。譲ったら「オレ」が負けちまうじゃねーか!
 わずかに後ろを振り返ってわざとらしく舌打ちしても、疾風の唸り声と大地を揺らす馬蹄の轟音にかき消されて先輩には聞こえやしない。意識を前に戻すと……
 そこにあるのは、白いジョッキーパンツに包まれた、アイツの尻。時速七十キロで走る牝馬の上で悠々と揺れている。
 オレの目の前をチラチラと……ジャマなんだよ! まったく、オレの気も知らずに気分よさそうに走りやがって。
 いや──案外、小ぶりでいいケツしてんじゃないか。改めて見ると、なかなかいい眺めだな。もうちょっとこのままで……
 ──なんてこと思ってる場合じゃねーよっ!
 アイツのケツがどんどん遠ざかっていく。早く追わなきゃ!
『直線に入って、フジノフォクシーが一頭抜け出した! バイオウェザーがこれに続きます』
「クソッ……おい、待てよっ!」
 なんて言われて、待つヤツなんかいないよな。
 オレは跨る馬に必死にムチを入れたが、もう遅かった。先を行くアイツはさらにスピードを上げて、後続を突き放していく。
 オレも馬の首をグイグイ押して追ったが、この馬ももう一杯一杯の様子。逃げる女を追いかけるのは趣味じゃねーんだけどな。
『フジノフォクシーが今、一着でゴールイン! 二着にはバイオウェザーとハッピージョイナスが並びましたが、わずかに内のバイオウェザーが有利か……』
 何とか二着に入れただろうか。
 連に絡めたのはいいけど、アイツに負けたことには変わりない。クソッ……不甲斐ない負け方だぜ。
「えっへっへ。二勝目ゲーット!」
 ゴールの向こうで、アイツは馬を止めてオレを待ち構えていた。
「なんだよ……自慢するために待ってたのか?」
 ゴーグルの下の口元が、ニヤリと笑う。
 紫とピンクの鋸歯型に白袖の勝負服。パステルカラーの色合いにマッチした柔らかそうな唇が、コイツが女だってことを思い出させてくれる。
「カズくんには及ばないけどねー」
「審議スレスレの斜行しといて、よく言うよ」
「えー斜行じゃないよー。斜め前が開いたから、そこに思いっきり突っ込んでいっただけだよー」
「それを斜行って言うんだ!」
 とはいえ、審議にはなっていない。東京競馬場、最終十二レースはこのままコイツの一着で確定しそうだ。
 アイツはゴーグルを外し、首にぶら下げた。その下にある丸い目が、人懐っこくオレを見つめている。
 早川萌黄。
 この春デビューしたばかりの、オレの同期騎手。そしてJRAに二人しかいない、女性騎手のうちの一人だ。
 オレは萌黄の真横に馬をつけた。
「また大穴あけやがって……お前、確か最低人気だったよな?」
「うん!」
 って、うれしそうに言うことじゃないぞ?
「でもねー、『週刊先馬』のタチバナさんが私の馬がオススメって、書いてくれてたんだよー」
 その記者、思いっきり「穴党」じゃねぇか。
「早川っ! よくやったっ!」
 大穴馬券を当てて気を良くした酔っ払いオヤジが、スタンド越しに声をかけてきた。
「オジさん、また私の馬券買ってねー」
 にこやかに手を振ってそれに応える萌黄。んなもの、ほっときゃいいのに……
 空は雲一つない青空。傾き始めた陽と長くなった馬の影が夕暮れを予告する。
 最終レースが終わり、ハズレ馬券を握り締めた観客たちが三々五々帰路に着く。残ってるのは、馬券を払い戻すために着順が確定するのを待っている人間だけだ。
 オレも早く帰りたいよ……
「……なあ、萌黄」
「…………」
 ──返事がない。
 馬の背を眺めていた視線を横に向けると、隣には馬しかいなかった。上に乗っかってるはずのモノがない。
「……萌黄?」
 うそっ……萌黄が消えた?
 フジノフォクシーは何事もなかったかのように、馬場を悠々と闊歩している。
 自馬を止め、キョロキョロして萌黄の姿を捜してると、後ろから先輩騎手の声がした。
「カズ、下!」
 下? 下ってただの芝生じゃ……
 いや、萌黄がいた。芝生の上で、大の字になって伸びている。
 なんでこんなところで落馬するんだ? レース中ならともかく、ゴールした後のゆったりとした速歩で落馬するなんて……お前本当に騎手か? 
 いっぺん馬に蹴られて死んでこい!

「……このバカタレが!」
 後検量室にシゲさんの怒鳴り声が響いた。怒られてるのは、もちろん萌黄だ。
 このバカをここまで連れてきて、乗ってた馬を無事に回収するまでみんなずっと待ってたんだぞ。七着までの騎手はレース前に測った負担重量と変わりないか確認する「後検量」があって、それが終わるまで着順は確定しないんだ。ホントいい迷惑だよ。
 怒られてる当人は下を向いて、一応は申し訳なさそうにしてるけど、顔はちっとも申し訳なくない。
「馬に何かあったらどうするんだ! 騎手のせいでケガさせたら一大事だぞ! 今回は何もなかったからいいが、レースの最後まで気ィ引き締めろ!」
 ゲンコツ一発。それも目から火花が飛び出るんじゃないかと思うくらいに痛そうだ。
「すいませーん。終わったら何食べようか考えててー……今度から気をつけますぅ」
 萌黄は頭をさすりながら詫びの言葉を口にするが、上目がちにシゲさんを見るその表情はいたずらを咎められたやんちゃな子供のようで、やっぱり懲りてない。
「まったくよぉ……」
 シゲさんも呆れ顔だ。
 もう一度、今度は軽く小突くように小さなゲンコツを萌黄に食らわせると、厳しかった顔をほんの少しだけほころばせた。
「ま、オメェもお馬さんもケガなかったことだし、二勝目に免じて今日はこのくらいにしといてやる」
「ありがとうございまーす!」
 ゲンキンなヤツだ。許してもらった途端、満面の笑みを浮かべてやがる。
 でも、この笑顔に騙されるんだよな。二人の様子を見守ってた他の騎手も、ちゃっかりしてる萌黄には笑うしかないらしく、文句の一つも言わずに散り散りになった。
「着替えてきますねー」
 萌黄はそそくさと検量室を出て行った。また誰かに捕まって、小言を言われちゃ敵わないといった背中だ。
「いいんすか? ああいうバカはもっとキッチリ叱っとかないと、また同じこと繰り返しますよ」
「なんだ、カズ。オレの教育方針にケチつけるんか?」
「いや、そうじゃないですけど……」
「オメェも他人のこと言えた義理じゃねえだろ、え? なんだ、あのトボけた騎乗は?」
 うっ……ヤブヘビ……
 シゲさんはニヤニヤしながら、さらに畳み掛けてきた。
「一番人気に乗せてもらって、あのザマじゃなぁ……まさか萌黄のケツに見とれてて、追い出すのが遅れたなんて言うんじゃねえだろうな?」
 何も言い返せません……
 これが年の功ってやつなのかな。
 シゲさんこと、青木重雄さんはJRA騎手最年長の五十五歳。引退間近と言われてから既に十五年は経つ。
 決して派手ではないけど、そこそこの成績を保って今日に至ってる。そうやってこの年まで騎手をやれてるんだから、それはそれですごいことなのかもしれない。
 飄々とした風貌。日焼けした真っ黒な顔に無精ひげを生やして、五十五才という年齢よりも随分若く見える。
 シゲさんは萌黄と同じ西藤厩舎の先輩騎手だ。先輩後輩と言うよりは、父と娘と言ったほうがしっくりくる年齢差だけど。
 だからかどうかはわからないが、シゲさんは萌黄を可愛がっている。
 怒鳴ったりビシビシしごいたり、オレにはイジメてるようにしか見えないんだけど、それはシゲさんの愛情表現の一つで、シゲさんがこんなに後輩の面倒を見るのは「あの人」以来だと、もっぱらのウワサだ。
 萌黄に「あの人」のような才能があるとは到底思えないんだけど、シゲさんが萌黄を可愛がるのにはまた別の意味があるんだろう、とオレは思う。
「ねーカズくん。シゲさんの車で一緒に帰ろうよー」
 萌黄が出て行ったドアの外に、屈託のない笑顔だけが戻ってきた。
 ゆるいくせっ毛の髪は、ヘルメットの中で暴れまわってぐしゃぐしゃになっている。それがまたコイツらしい。ほんの少し藍色がかった瞳には、不思議と相手に有無を言わせない力がある。
 もう、逆らう気にもなれないし、逆らう理由もない。
「お願いします」
 頭を下げると、帰り支度を始めていたシゲさんは軽く「おぅよ」と返事してくれた。

 柘植和弥(つげ かずや)。
 それがオレの名前。
 でも、オレはこの苗字が嫌いだ。
 柘植──この業界でこの名を知らない者はいない。
 柘植浩二。「名人」と謳われた往年の名騎手。今は名調教師として名を馳せる。
 柘植竜一郎。二十三歳で史上最年少ダービージョッキーとなった、今や競馬界を代表するトップジョッキーの一人。
 この偉大で有名な二人を父と兄に持ってしまったオレは、小さい頃から否応無しに注目を浴びてきた。
 正直言って、騎手になりたいと強く思っていたわけじゃない。強制されたわけでもないけど、かといって、騎手以外の道に進むことは不思議と考えもしなかった。
 この世界じゃ、オレみたいな二世騎手は珍しくはない。
 だけど、「柘植」という名に周囲は特別な目を向けるようで、競馬学校の入学式でも他にも二世騎手候補がいる中で、オレ一人だけスゴイ数のマスコミに取り囲まれた。
 授業が始まっても、教官からは「柘植は当然できるよな」みたいな目で見られるし、同期からは「やっぱり柘植は違うよな」と半ば陰口のように囁きあっているのがよく聞こえた。
 周囲の期待や嫉妬なんかオレには関係ない。ましてやプレッシャーなんか微塵も感じてなかった──つもりだけど、今思えば、やっぱりそのプレッシャーに負けないように、必死になってたんだと思う。
 知識も騎乗技術も、同期の中では頭一つ抜け出ていたのは確かだ。けど、オレは段々と競馬が面白くなくなった。
 強い意志を持って競馬学校に入ったわけじゃない。ただ、それ以外の道を知らなかっただけなんだ。一旦モチベーションが下がり始めると、それは坂道を転げ落ちる車輪のように止まらなくなった。
 全てがうまく回っていたはずの歯車は次第に狂いはじめ、ストレスから騎手として重要な体重管理も上手くいかなくなってきた。周囲に辛く当たるようになってきて、そして誰もオレに近寄らなくなった。
 オレは本気で学校を辞めたいと思うようになっていたんだ。
 そんな頃、アイツはいつものように、のん気に話しかけてきた。
 萌黄だ。
 五年ぶりに競馬学校に入ってきた、同期たった一人の女子──ってことぐらいしか知らないほど、オレは萌黄に興味がなかった。
 女だから厳しい訓練についていけなくて、すぐに辞めるだろうと思ってたんだ。
 減量するために食事制限をしているさなか、腹が減っていつにも増して気が立っていたオレの隣に、大盛りのご飯を乗せたトレイを持った萌黄がドカッと座ってきた。
「食べないのー?」
 最初から、ホントむかつくヤツだった。
 ただでさえイライラしてるとこに来て、オレが食事制限中だってことをまったくわかってない無神経。騎手候補だっていうのに、山盛りのご飯を迷うことなく口にポンポン運ぶ無謀さ。
 誰もが腫れ物に触るようにオレを避けていたというのに、アイツはそんなこと知ったこっちゃないといったカンジで、ニコニコしながらオレの顔を覗き込んできやがる。
 相手にするのも面倒だったので無視して席を立つと、萌黄は残ってたみそ汁を一気に流し込んで、追いすがるようについてきた。
「ねえ、お話しようよ、カズくん」
 なれなれしく名前を呼んでくる萌黄に、オレのイライラは頂点に達した。
「うるせぇんだよ! 何の用だよ!」
 萌黄が見せたのは、気が抜けるような底抜けに明るい笑顔。
「お話しよ?」
 オレは反射的に萌黄の胸倉を掴んでいた。
 相手が女だとか、ケンカは御法度だとか、そんなことはどうでもよかった。
 ムカムカする気分を、目の前の相手にただぶつけたかったんだ。今思うと、ヒドいことをしようとしたもんだ。
 オレは握り締めた拳に体重を乗せて、萌黄の顔めがけて腕を突き出した。
 ──と、次の瞬間。
 オレは萌黄を見上げていた。
 背中が床の冷たさを感じている。萌黄は寝転んだオレの腕を掴んでいて、オレを優しく起こしてくれるかのようだ。
 何だ? 何が起きたんだ?
 萌黄がニッコリ笑って、オレの顔を覗き込んでいる。
 ああ……そうか。オレは、萌黄に投げられたんだ。
 何がどうなったのかよくわからないが、萌黄を殴ろうとしたオレは見事返り討ちにあったようだ。
「お話しよ?」
 萌黄に投げられたことも、あまりのしつこさにも、もはや怒る気にはなれなかった。
 この時からかもしれない──萌黄に「勝てない」と思うようになったのは。
 気がつけば流されるがままに、オレは自分の胸の内を萌黄にブチまけていた。
 アイツはニコニコしながらただ黙って聞いてただけで、何の解決策も与えてはくれなかったけど、ただそれだけでオレは肩の荷を下ろせたような気分になったんだ。
 それ以来、オレと萌黄は仲が良くなった。
 というか、萌黄のことを黙って見ていられなくなった、というのが正しい。
 コイツときたらホントにバカで、座学はてんでダメで寝てばっかりいるし、騎乗の実技ときたら、よくもまああんなに落馬できるもんだと見とれてしまうくらいに落ちやがる。
 それでいて身体だけは頑丈にできてるようでケガ一つしないし、さらに騎手志望のくせにアホみたいに大食漢で、見てるだけでこっちが胸焼けしそうなくらいムチャクチャ食うのに、体重は一グラムも変わらない恐ろしい身体なのだ。
 やることなすこと全てが危なっかしくて、見ているこっちがハラハラして心臓に悪い。ついつい口を出し、手を出したくなり、いつしかオレは萌黄にあれこれ教えるようになってしまった。
 そうやってるうちに、オレのイライラした気分もどこかに行ってしまった。萌黄の面倒を見るのが精一杯で、それどころじゃなかったというのが実情だけど。
 でも、それがよかったんだろうな。
 萌黄はオレとは違う意味で注目を浴びてた。「女」だからだ。
 元々、男性上位社会である競馬の世界では、どうしても女は弱いという評価を受けてしまう。それに打ち勝つには、男以上の努力を求められる。身体的、精神的に、男以上に強くならなきゃダメなんだ。
 今まで、何人かの女性騎手が誕生したが、そのほとんどが壁にぶつかって乗り越えることができずに、早々と引退してしまった。
 そういった前例が続いた中で、久々に競馬学校に入ってきた女性である萌黄は、周囲から当然のように色眼鏡で見られた。
 重圧に負けそうになったオレとは違って、萌黄はその偏見をものともしなかった。
 いや、萌黄がそんな繊細な神経を持ちあわせてるはずが無いんだ。何を言っても右の耳から左の耳に抜けてしまうようなヤツだ。偏見を偏見だと思ってないし、バカにされてもそれすらわかってない。
 図太いというか、鈍感というか……
 でもそんな萌黄を見ていたら、プレッシャーを感じてウジウジ悩んでいたオレが、何だかバカらしく思えてきたんだ。
 いつもどんなときも、何があってもただただ笑顔を振りまいていた萌黄。
 辛いことがあっても、萌黄の楽天的な笑顔を見ると不思議と身体が軽くなるような気がした。
「食堂での最多ご飯おかわり記録」や「最多補習時間記録」「四次元胃袋」「鋼鉄の女」などなど、競馬学校で輝かしくない伝説をいくつも作り上げた萌黄は、オレの厳しい指導と根負けした教官のわずかばかりのお情けのおかげで、留年することもなく卒業し、何とか騎手免許も取れた。
 ホントに奇跡だよ。絶対に一浪くらいはすると思ったんだけど、アイツの度胸と本番強さは一級品だった。
 しかも、三月第一週のデビュー週にご祝儀代わりに乗せてもらった中山の第二レースで、萌黄はあろうことか勝っちまった。
 初騎乗初勝利ってだけでも充分な大ニュースなのに、女性騎手で、さらに馬連の史上最高額を塗り替えるというオマケまでつけてくれたおかげで、翌日のスポーツ紙を萌黄のバカ面でド派手に飾ることになった。
 本人は調子に乗って「これでグラビアの仕事がくるかもー」なんてトチ狂ってたけどな。オレですら初勝利まで一週間はかかったのに、ツイてるヤツだよ。
 今のところ、一着の回数はオレが五回、萌黄が二回。連対率でもオレのほうが勝ってるし、今年の新人賞レースの予想ではオレがダントツの本命だ。
 注目度だって萌黄よりオレのほうが上のはず。実力派二世騎手というだけでなく「ジャニーズ系のイケメン二世騎手」と女性競馬ファンの間では評判なんだぜ。自分で言うのもなんだけどさ。
 萌黄には絶対負けたくない。
 騎手として、男として。

 シゲさんのセダンの後部座席に乗り込むと、萌黄は当たり前のように助手席に座った。どこで仕入れてきたのか、両手にたくさんの食べ物を抱えている。
「まだ食うのかよ。さっきもそば食ってたろ」
「だってー、お腹空いたんだもーん」
 そう言って早速肉まんを口に放り込む。食っても太らない身体というのは騎手としてはうらやましい限りだが、コイツの場合は普通の人間以上に食ってるだけに、本当に胃の中にブラックホールがあるんじゃないかとさえ思う。
「お前、今日何鞍乗った?」
「うーんと……三鞍かな? 十着、十二着、そんで一着!」
「なんだ、賞金取れたの最後だけかよ」
 赤信号で車が止まった隙に、シゲさんが話に割り込んできた。
「カズ、オメェはどうだったんだよ」
「オレは……八鞍乗って一着一回、二着一回、その他六回です」
「へーっ、八鞍も乗せてもらえるなんて、未来ある若人はいいねえ。オレなんて四鞍だぞ、四鞍。いい馬あったらオレにも回してくれよな」
 なんて言いますがね、それで年間三十勝をコンスタントに上げられてるんだからもう十分じゃないですか。
 デビューした頃は乗鞍も勝利数も華々しかったものの、年を追う毎にその数も先細り、次々と追い上げてくる新人に先を越され、果てには淘汰されていく若手や中堅騎手だってたくさんいる。華はなくても、三十年もしぶとく騎手をやってるんだからすごいですよ。
「カズくんスゴイねー。今日の連対率は……うーんと……〇.二?」
「〇. 二五だよっ! 八分の二だろ! その位の計算できるようになれよ!」
「あははは、やっぱりカズくんはスゴイねー。カズくんの馬券買おうかなー」
「買えるか、アホッ! 競馬関係者は馬券買ったらダメだって何べん言ったらわかるんだ!」
「あははは、そうだったねー」
 万事がこの調子だ。もっとも、コイツは馬券の種類さえまともに覚えてないから、買うこともできないだろうけど。大体、連対率だけ見ればお前のほうが上なんだよ。
 オレたちを乗せた車は高速に乗り、府中から茨城県村へと帰路に着いた。
 美浦にはJRAのトレーニングセンター、通称トレセンがある。そこがオレたちの本拠地だ。
 トレセンには競走馬を預かる厩舎があり、そこには騎手、調教師、厩務員などの関係者が数多くいて、その家族がトレセンの近くで生活している。
 父親が騎手だったオレも、美浦で生まれ育った。
 オレの実家とシゲさんの家は隣同士で、昔から付き合いがあるせいか、シゲさんは未だにオレのことを子供扱いする。イヤじゃないけどね。
 いつも忙しくて、どこか偉そうで、子供心に近寄りがたかったオレのオヤジよりは、成績は劣っていてもシゲさんのほうがとっつきやすくて、シゲさんもオレとよく遊んでくれた。
 シゲさんはみんなに慕われてる。口うるさい近所のカミナリオヤジみたいなとこもあるけど、調教師とは違う、先輩騎手として後輩を厳しく指導してくれるシゲさんみたいな人は、オレたちにとってきっと必要な存在なんだと思う。
 そんなシゲさんに可愛がられてる萌黄は、ある意味ちょっとうらやましい。
 萌黄が実習で初めてシゲさんに出会ったとき、競馬を知る者なら誰でも知ってるシゲさんに向かって「オジさん誰?」とのたまったらしいが、シゲさんは怒りもせず、萌黄の大胆不敵さに大笑いしたそうだ。
 思えば、あの頃のシゲさんは「あの事故」からようやく立ち直ろうかとしていたところだった。
 それまではムリに笑顔を作って、周囲の同情の視線を振り切ろうとしていた感じがあったが、萌黄に出会ってからのシゲさんは、萌黄をビシバシ鍛えるのが楽しくて、それを生き甲斐にしているようにオレの目には見えた。
 もしかしたら、シゲさんもオレと同じく、萌黄に救われた人間だったのかもしれない──なーんて、んな訳ないよな。きっとシゲさんも萌黄のバカっぷりに呆れてただけだよ。
 後部座席で一人黙って、流れる景色を見ているオレの存在など忘れたかのように、前の二人のおしゃべりは一向に止まらない。萌黄はともかく、シゲさんもよく付き合ってしゃべるもんだ。
 首都高を抜け、常磐道に入るころには、初夏の遅い日暮れが訪れていた。
 今日は日曜日。競馬関係はレース明けの月曜が全休日と決まっている。明日は馬も人もお休みだ。世間は大型連休で旅行だレジャーだって騒いでるけど、オレたちにはそんなものは関係ない。
 競馬の世界じゃ、今は春のGTレース真っ只中。今日だって京都では春の天皇賞が行われて、兄貴が天皇賞初勝利を収めて、初めての盾を獲得したんだ。
 来週はNHKマイルCがあり、その後にはクラシックレースのオークス(優駿牝馬)とダービー(東京優駿)が控えている。
 ああ、そうか──
 今年も、この季節がやってくるんだな。
 ダービー。
 競馬界にとっては節目の大レース。古い人間に言わせれば、正月よりもダービーが一年の節目になるらしい。
 クラシックレースの最高峰と言われるのはわかるが、じゃ、皐月賞や菊花賞の立場はどうなるんだよ、とオレは言いたい。あれだって立派なクラシックだぜ?
 けど……やっぱり特別なものだよな。ダービーって。
 競走馬が生涯に一度、三歳の時にしか出走できないクラシックレース。
 その中でも、ダービーはやはり格が違う。
 なんでそうなのか──とオレに聞かれても困るんだけど、競馬をやってる国なら必ずと言っていいほど「ダービー」の名がつくレースがあるほどだし、それだけに歴史は相当古いんだろう。何とかと言うイギリスの伯爵が大昔に始めたらしいが、そんな細かいことまで覚えちゃいられない。
 一年間に一万頭とも言われるサラブレットが誕生するが、その中でダービーに出走できるのはたった十八頭。
 どっかの国のお偉いさんは「ダービー馬の馬主になるのは、一国の宰相になることより難しい」って言ったらしいが、まあそのくらい大変で、かつ名誉あるレースってことだ。
 騎手としても栄誉あるタイトルであることは間違いない。
 騎手になった以上、誰もが「ダービージョッキー」の栄冠を目指す。いや、ダービーに乗れるというだけでも、充分光栄なことなんだけど。
 兄貴やオヤジがその栄誉に輝いている以上、当然オレにも、という期待がかかっているのは感じている。オレもそのつもりだ。
 オヤジがダービーを勝ったのは約三十年前、オレがまだ生まれてない頃だ。
 皐月賞を完勝したロイヤルダンスと再びコンビを組み、ダントツの一番人気で挑んだダービー。オヤジはその重圧に打ち勝ち、見事優勝した。あまりの強さに三冠馬の呼び声も高かったロイヤルダンスだったが、ダービー直後に屈腱炎を発症していることが判り、そのまま引退。「幻の三冠馬」と呼ばれた。
 兄貴はデビュー五年目。若手のホープと言われながらも偉大なる大先輩たちに囲まれて、十番人気のスノーエスケープに乗って二度目のダービーに挑戦した。その名の通り大逃げを打って一時は十馬身差も開き、誰もが最後まで持たずに潰れると思ったが、追いすがる他馬を振り切り、まるで計算したかのようなクビ差での勝利。この時から、兄貴も名騎手の仲間入りをしたんだ。
 日本でダービーが開催されるようになって七十年余り。
 大レースの名に恥じない様々なドラマが、いつもそこにある。
 今から四年前のダービー──
 主役は間違いなく「あの人」、騎手・各務之哉だった。

「……やっと、各務さんに会える」
 その声は明らかに上ずっていて、萌黄らしからぬ艶のある声にオレの胸がドキンと高鳴った。
 ずっと待ちわびていて、ようやく会うことができる喜びが、表情を見ずとも声によく表れている。
「明日、ヨーロッパから帰ってくるんですよね?」
 シゲさんは何も答えない。独り言のように萌黄はつぶやいて、外のサイドミラー越しに見えたその顔には満面の笑みが浮かんでいた。
「ずーっと各務さんと一緒に走れる機会を待ってたんですよー。桜花賞と皐月賞の時は、私は中京で乗ってたから会えなかったし、各務さん、それが終わってすぐヨーロッパに行っちゃうんだもん。やっと美浦に帰ってきてくれる……」
 萌黄が各務之哉の大ファンだということは、萌黄を知る者なら誰でも知ってる。
 そもそも、萌黄が騎手を目指したのは各務さんに憧れたからで、それを公言してはばからないのはいいが、「各務さん大好き」と事あるごとに言い回るのはウザったいったらありゃしない。まったく……後ろから首シメたろか。
 各務之哉。
 誰もが認める、日本の競馬界最高峰のジョッキー。
 この人のどこがすごいかって、一年の三分の一は海外遠征に出かけてるのに、それでもリーディングジョッキーになれてしまうところだ。
 最多勝利数、最多勝率、最多獲得賞金の「騎手三冠」はもちろん、GTタイトルは全て保有、おととしにはエリプスで牡馬クラシック三冠を十年ぶりに達成した。
 日本を飛び出して海外にも活躍の場を広げてからは、アメリカ、イギリス、フランス、オーストラリア、香港などの調教師からもお呼びがかかるようになり、今では世界の主要なGTレースの常連だ。三年前にフランスのジャック・ル・マロワ賞で初の海外GT制覇を果たしたのを皮切りに、香港、イギリスでもGI制覇の偉業を成し遂げている。
 オレは「あの人」の能力は認めている。認めざるを得ない。
 競馬は「馬七、騎手三」と言われるだけあって、馬の力で勝敗を左右されることが多い。勝ち星が多いのはそれだけ強い馬に乗っているからであって、騎手自体の力はそんなに働いてないんだけど、逆に言えば、騎手が下手を打てばどんなに強い馬でも勝つことはできない。
 その馬が持つ能力を最大限に引き出すことができる騎手。それが超一流の騎手の条件だ。
 各務之哉には、それがある。
 だけど、オレは「あの人」が嫌いだ。
 他人はその嫌悪感を「嫉妬」と呼ぶかもしれない。確かにそれもある。
 オレや兄貴は「名手・柘植浩二の息子」というだけで騎乗依頼が来るし、強い馬にも乗せてもらえる。オレたち兄弟はそんな恵まれた環境にありながら、何のバックボーンもなく、身体一つでのし上がってきた各務さんには勝てない。
 それだけ、「あの人」との力の差が歴然としているということだ。
 兄貴が天皇賞を勝ったビースタイルだって、元々は各務さんのお手馬だったんだ。海外遠征に出かける各務さんの代わりにと、たまたま兄貴にお鉢が回ってきただけの話で、調教をつけ、ビースタイルをGT常連馬にしたのもひとえに各務さんの力なんだ。
 それだけに、各務さんが周囲に与える影響は大きい。
 馬にそれほどの実力がなくても、各務さんが乗るというだけでお客はその馬券を買い、たちまち一番人気になる。各務さんの複勝率は五割、すなわち二レースに一度は複勝馬券が当たるということ。人気が集まるのは当然だ。
 そして、競馬のケの字も知らなかった萌黄をこの世界に引き込んだのも、各務さんが初めて勝った四年前のダービーだった。
「たまたまつけたテレビでダービーをやってたのを見たんですけど……あれはスゴかったですよねー。私、鳥肌が立っちゃいましたよー。覚えてます?」
 お前に言われないでも、オレもシゲさんもあのときのダービーはよーく覚えてるよ。
 各務さんが乗ったスーパーオリーブは五番人気。皐月賞では二番人気に推されながら、スタートに失敗して七着に沈んだ馬だった。怒った馬主さんがそのときの騎手を下ろして、長期の海外遠征から帰ったばかりの各務さんに替えたんだって聞いてる。
 血統からして二四〇〇は勝てないだろうと言われていたこの馬を、ゲートが嫌いでしょっ中出負けしていたこの馬を、きっちりとスタートさせて脚を余すことなく二着に一馬身差をつけて完勝させたのは各務之哉、その人の力だった。
 オレもテレビで見ていたけど、あの騎乗には確かに鳥肌が立ったな。
 喜びも、怒りも、悲しみも、何も見えない凍てついた表情──それなのに気迫だけはビリビリと伝わってくる騎乗には、見る者全てを魅了するほどの熱い闘志を感じさせた。
「勝利ジョッキーインタビューで各務さんの顔を初めて見て、一目ボレしちゃったんですよー。そんで騎手になろうと思ったんです」
 一目ボレして騎手になろうなんて思ってしまうところがこのバカらしいところだけど、競馬がどういうものかも知らず、騎手になるための厳しい条件も知らずに、競馬学校をポンと受験して約四十倍の難関をいとも簡単に突破してしまうあたりが、やっぱり萌黄らしいところだ。
「やっと同じコースに立てる。一緒に走れるんだ……」
 うれしそうにつぶやく萌黄の横で、すっかり黙ってしまったシゲさん。けど、バックミラー越しに見えたその顔は、穏やかに微笑んでいた。
 意外だった。もっと、苦々しい表情を浮かべてると思ったのに。
 萌黄はちゃんとわかっているんだろうか?
 シゲさんと各務さんの間に横たわる、深い深い溝のことを。
 競馬関係者なら誰でも知ってる。いつも言いにくいことをズバズバ聞いてくるマスコミだって、シゲさんの前では各務さんの話はしない。逆もまた然り。
 二人が取っ組み合いのケンカをしたとか、そういうことじゃない。
 もっと複雑で、やりきれない問題。
 もっとも、萌黄のバカ頭じゃ理解できないかもしれないけどな。
「来週、一緒のレースで走れるといいなー」
「そうだな」
 シゲさんがそんな風に優しく答えるなんて、オレには信じられなかった。
 歳をとって人間が丸くなってきたんだろうか? そんなこと口に出したらブン殴られそうだけど。
 それとも──シゲさんは各務さんを赦したんだろうか?
 たとえそうだとしても、オレは「あの人」を赦さない。萌黄には悪いけど、各務さんを赦すなんて真似はオレにはできない。
 だって、あの人は……
 各務さんはオレの「由佳ねーちゃん」を殺したヤツだから。



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