芝生の魔女〜萌える季節の約束〜


第2章 夏の足音

 茨城県美浦村。
 茨城県の南部、霞ヶ浦の南西に位置する人口二万人弱の小さな村に、オレの住処はある。
 トレセン内にある騎手向けの独身寮の一室が、今現在のオレの城だ。実家はトレセンの目と鼻の先にあるんだけど。
 この村は「トレセンのまち」と言っても過言じゃない。
 トレセン関係者が人口の四分の一を占めるんだ。オレの通っていた小学校、中学校とも同級生はトレセン関係者の子供ばかりで、馬の話が至極当然のように会話に出てくるような環境だった。
 国内に二ヶ所しかない競走馬のトレーニングセンター。もう一つは滋賀県の栗東市というところにある。関東の拠点はここ美浦、関西の拠点は栗東ということになる。
 トレーニングセンターとは競走馬を調教、すなわち馬が競馬場で走れるように教育・育成するところだ。
 約六十六万坪の広さ……って言われてもピンとこないんだけど、東京ドーム四十八個分とも言われるとにかくだだっ広い敷地に、南北に分かれた調教馬場と坂路、馬用プールなどの施設があり、その周りに百以上の厩舎と二千頭以上の競走馬がひしめいている。なんせ競馬場が丸々二個入るような広さだからな、上から見ると圧巻だぜ。
 馬が競馬場で走るまでには実に様々な人間が関わっている。
 まず、牧場で生まれ、育成されたサラブレッドを馬主さんが買う。
 馬主さんはその馬を調教師に預け、調教師は厩舎で厩務員や調教助手とともに競走馬として調教する。
 そしてオレたち騎手が競馬場で走らせる、というわけだ。
 騎手の仕事は競馬場で馬を走らせるだけじゃない。レースのある土日、全休日の月曜以外は、火曜から金曜までトレセンで馬に調教をつけている。調教助手のような調教を専門にやる人もいるんだけど、馬のクセや特徴を掴んでおくには、普段から調教で乗っておいたほうがいい。
 新人騎手はまず、いずれかの厩舎に所属することになっている。厩舎を率いる調教師の下で教えを請いながら所属馬の調教をし、レースに騎乗して、厩舎からお給料をもらう形で生計を立ててるんだ。
 オレは栗原達夫調教師のところで、そして萌黄は西藤勝秀調教師のところで、この春からお世話になっている。

 馬が脚を進めるたびに、坂路に敷き詰められたウッドチップがザクザクと軽快な音を立てる。
 早朝の凛とした空気を肺いっぱいに吸い込むと、身体の中に満ちる冷気が自然と背筋を立たせた。五月に入ったとはいえ、この時間では吐く息もまだ白い。馬の鼻息も、そして乗り運動を終えた馬体から立ち上る湯気も白く、近づく夏がウソのようだ。
 トレセンの朝は早い──ってのは常套句。
 毎日、朝日とともに始まる調教の、そのだいぶ前から馬の世話をし始めてるわけで、オレたちが起きるのは夜も明ける前、深夜といっても過言じゃない。
 栗原厩舎には調教師以下、調教助手や厩務員あわせて総勢十三名が所属している。騎手はオレ一人だ。オレが一番年下なので、馬房の掃除からお茶くみまで、色々な雑務を一手に引き受けている。
 シゲさんに聞いたところ、萌黄も同じように厩舎の一番下っ端で、あれこれ使いっぱしりさせられているという。
 ただオレと違うのは、アイツは非常に愛想が良くて、誰にでもすぐ気に入られてしまうところだ。ただでさえ女が少ないこの世界、若い女の子ってだけでチヤホヤされるんだろうな。
 老いも若きも男なら愛想のいい女に悪い気はしない。オレにはただヘラヘラ笑ってるようにしか見えないけど、それはアイツがこの世界で上手くやっていくための戦略なのかもしれない。
 一通りの調教をこなして一段落ついたところで、オレは遅い朝飯を食べようと調教スタンド内にある食堂に向かった。
 厩舎が集まるこの区域は、同じような建物が延々と続いている。
 オレは小さい頃からここに出入りしていたので何とも思わないが、関係のない人から見れば特異な場所だろうな。
 ここでは何もかもが馬優先、そんな標識がそこかしこに立っている。道路は舗装されてない。もちろん馬のためだ。オレは気にならないけど、特有のニオイもあるし、何より静かだ。大きな音は馬を脅えさせるので厳禁なんだ。
 平屋の馬房の前に山積みにされた枯葉色の寝わら。そこら中から聞こえる馬の鼻息、いななく声。一昔前の田舎を思わせるのどかな風景──それがこのトレセンの日常だ。
 ふと気がつくと、道の途中でスポーツ新聞の記者連中が一団となって誰かを取り囲んでいる。
 その中心には──今日も朝からマヌケな笑顔を振りまいている萌黄がいた。朝から何やってんだよ、まったく……
「あ、カズくんおはよー」
 今朝は西藤厩舎の名前が入ったシルバーのジャンパーに身を包んで、手にはムチ、頭には乗馬用ヘルメットといういでたちだ。馬から下りると小柄な身体がより一層小さく見える。
 大した実績も上げてないペーペーの新人のくせに、コイツのそばには不思議といつも記者さんたちが集まっている。存在自体が話題なヤツだからか、何か面白いコメントが取れるだろうとでも思って群がってるに違いない。
「お前、調教は?」
 できるだけ仏頂面でぶっきらぼうに言ったつもりなんだけど、萌黄はこちらの意図など気にするはずもなく、オレに笑いかけてくる。
「今一頭つけてきたとこ。この後、篠山調教師のところで二頭乗せてもらうんだ」
 調教の手が足りない厩舎を自ら進んで手伝うのも若手の役割。こうした地道な「営業」が実を結んで、レースで騎乗させてもらえることもある。
「こんなとこで油売ってる場合かよ」
「今ね、記者さんたちと各務さんの話してたんだー」
 いつの間にか、記者たちは次の取材対象の元へと散り散りになり、路上にオレと萌黄だけが取り残されていた。
 悲しいことに、今や萌黄の「各務さん好き」はマスコミの間でも有名だ。
 こういうことを平気で言える破天荒ぶりも、萌黄にマスコミが集まる理由の一つなんだろう。いつか舌禍事件でも起こしそうで怖いったらありゃしない。
「今、立川調教師のとこにきてるんだって。来週のNHKマイルで乗るラブインフィニティの話でもしてるのかな?」
 NHKマイルもまたGIレース。帰国早々、翌週のGIの騎乗依頼があるなんてうらやましい限りだ。
 馬主さんもそれまで乗ってた騎手を下ろして各務さんに代えるなんて、そんな義理欠いたことやってていいのかね。初めてのGIを手堅くいきたいのはわかるけど、トップジョッキーだからって絶対に勝てるってわけじゃないのに。
「各務さんなら、絶対勝つよね」
 オレの考えを読んだのか、萌黄はそんなことを言う。
「オレがそんなこと知るかよ」
 不意に萌黄のマヌケ面がオレの視界を遮った。
「カズくん、何怒ってるの?」
 萌黄の人懐っこい目に見つめられると、心の奥まで見透かされるような気分になる。心臓をギュッと掴まれて、この口がいらんことまでしゃべってしまいそうで、本当にタチが悪い。
「……怒ってねーよ」
 横を向いてその瞳から逃れたが、今度はイタズラっぽく笑う表情がオレの視界にムリヤリ潜り込んできた。
「──あ、わかった」
「な、なんだよ……」
「カズくん、ヤキモチ妬いてるんだぁ」
「ヤ、ヤキモチ?」
「そうだよ。私があんまり各務さんにラブラブだから、妬いてるんでしょ? 違う?」
「そんなわけねーだろっ!」
 何だか顔が熱くなってきた……
「なーんだ、つまんないの」
 あっさりと引き下がる萌黄に怒りさえこみ上げてくる。
「さっさと次の調教に行けよ! ウザイんだよ!」
「でもまだ時間があるんだよねー……ってことで、各務さんのとこに行って来る!」
 そう言って萌黄はくるりと向きを変え、足取りも軽やかに駆け出して行った。その背中に羽根でも生えてきたんじゃないかと思うくらいに、ウキウキとした気分が背中に表れてる。
「お、おい……ちょっ……待てよ!」
 そのあまりの浮かれっぷりに心配になったオレは、自分の言ったことも忘れて、萌黄の背中を追いかけていた。
 萌黄が辿ってきた今までの道のりを考えると、やっと同じフィールドに立てるようになってうれしい気持ちは、まあわからんでもない。長いこと待ち焦がれた夢の瞬間がやっと訪れたんだ。浮かれるのも仕方ないか。
 けどな、トップジョッキーの各務さんの周りには常にマスコミがたくさん集まる。そんなとこでバカなことやったら即マスコミの餌食になって、きっとJRAから大目玉を食らうんだぞ。下手すりゃ騎乗停止処分だ。とにかく、コイツが暴走しないように見張ってなきゃ。
 立川厩舎の前に着くと、やはりマスコミの人だかりができていて、各務さんが出てくるのを今か今かと待ち受けていた。約二ヶ月の海外長期遠征の話や、これからまだ続く春のGIレースの動向を直接聞き出したいんだろう。
 今回の遠征は主にアメリカとフランスを転戦し、合わせて十五勝も上げてきたそうだ。ご苦労なこって。
 いっそのこと海外に移住しちゃえばいいのに、と思うんだけどな、未練たらしく日本に帰ってきてはリーディングをかっさらっていくんだよ。なんつーか、そのどっちつかずな姿勢がまたイヤなんだよな。
 長期にわたって日本を空けることで、調教師や馬主さんにも相当迷惑がかかってるはずなのに、それでもなおこの人には騎乗依頼が殺到する。悔しいけど、それだけの期待に応えられる力を持っているのも、この人だけだろう。
 萌黄の小柄な身体は大勢のマスコミの間に埋もれていた。それでも各務さんの姿を一目見ようと、大きな機材を抱えた男たちの隙間で一生懸命に首を伸ばしている。動物園にパンダを見に来た小さな子供じゃあるまいし。
 簡素な厩舎事務所のガラス戸の向こうに人影が映った。待ち構えていた群集がざわめきはじめ、一斉にカメラのレンズが向けられる。
「あの人」は──自らの手で静かに戸を開き、その姿を現した。
 フラッシュの光を一身に浴び、わずかに目を細めて眩しそうに顔をしかめる。マスコミ嫌いのこの人のことだ、ウザったくてかなわないだろう。
 昔はオレの目から見ても爽やかな好青年という感じだった。が、今は違う。
 いつの頃からか──いや、あの事故からか。
 まるで死神が乗り移ったかのような、暗く陰気な細面。それでいて、黒い前髪の隙間から覗く目だけは獰猛な獣のようにギラついて、見るもの全てを威嚇する。こけた頬のわりにガッシリとした体躯は、極限まで身体を絞り上げた証だ。
 身長一七二センチ。騎手の中では長身の部類に入る大柄な身体を黒いジャンパーで包んで、日本騎手界の帝王・各務之哉は彼を待ち望む観衆の前にようやく降り立った。
「各務くん! ラブインフィニティの調子はどう?」
「オークスはスイートサイレンスとホワイトライト、どっちに乗るの?」
「宝塚記念捨ててロイヤルアスコットに乗るって話もあるけど、ホントのところはどうなの?」
「アメリカのサンタアニタダービーは惜しくも二着だったけど……」
 矢継ぎ早に質問を浴びせるマスコミに一瞥をくれながらも一言も発しようとはせず、各務さんは横を向いてマスコミ全てを拒否する姿勢を見せた。
 この人のマスコミ嫌いなんて今に始まったことじゃないんだから、マスコミももうちょっと考えればいいのにな。こんな質問攻めにあったらしゃべるものもしゃべらなくなっちまうに決まってるだろうよ。
 早々に立ち去ろうとする各務さんを追いかけて、マスコミも大移動を始める。
 はぁ、やれやれ……と思ったのも束の間、オレは萌黄のことをすっかり忘れていた。
「もえ……」
 名前を呼ぼうとしたが、時既に遅し。首根っこをとっ捕まえるヒマもなく、アイツは各務さんの前に躍り出ていた。
 満面の笑みを浮かべる萌黄。
 当惑気味に萌黄を見つめる各務さん。
 対照的な表情を浮かべて、二人はついに出会ってしまった。
 出会ったら最後、只事じゃすまないとは思ってたけど……これから一体何が起こるんだろ? って、何でオレがドキドキしてるんだ?
 二人はじっと見つめ合ってる。萌黄はともかく、各務さんまでも。
 まさか……一目ボレ?
 んなわけないよな。目の前でニコニコしながら突っ立ってる萌黄にどう対応したらいいものか困ってるだけだよな。
「……各務之哉さん、ですよね」
 萌黄は何を今更わかりきったこと聞いてるんだ? さっきからみんなそう言ってるだろうが!
「私は早川萌黄です」
 一瞬で空気が変わったような、そんな気がした──気のせいだろうか? 萌黄は相変わらずの笑顔だ。
 でもほんの一瞬だけ、総毛立つ寒気のようなものを萌黄から感じた。アイツ、何かとんでもないことをやらかすんじゃ……
「ファンなんですぅ。サインくださーい」
 ……アタマいた……
 どこから取り出したのか、いつの間にか手にしていた色紙とペンをまっすぐ各務さんに突き出している。それじゃただのミーハーなファンじゃねぇかっ!
 各務さんは萌黄がマスコミではないことはわかるらしい。が、本当にただのファンなら、こんな競馬関係者しか入れないような場所になんでいるんだという話になる。
 どう対応したらいいものか、各務さんは本当に困っているようだ。
「萌黄は今年デビューした騎手ですよ」
 オレは萌黄の後ろに立って、正体を教えてやった。
「……和弥か?」
 オレ自身、この人の前に立つのは五年ぶりだ。当時まだ中学生だったオレがいっぱしの騎手になって現れたもんだから、少なからず驚いてるみたいだ。
 そして各務さんは、手前で脳天気に色紙を突き出している萌黄に視線を移した。
「騎手? 女か?」
 見りゃわかるだろうに。美人とは言わないが、そこそこ可愛い顔してると思うぞ。確かに壊滅的にペッタンコな胸してるけど、コイツを見て男って言うヤツはアタマおかしいって。
「新人の早川萌黄、十八歳です。西藤厩舎所属で、シゲさんの妹弟子でーす!」
 あーあ、言わんこっちゃない……余計なこと言いやがって。
 マスコミが一斉にざわめいた。各務さんの前でシゲさんの名前なんか出すから……
 各務さんの顔色がサッと変わる。いつもの冷酷非情な顔を取り戻し、凍てつく視線で萌黄を一睨みした。そして身を翻し、萌黄を置き去りにして立ち去ろうとした。
 無視を決め込もうってのか。ま、当然の反応だわな。けど、それじゃ萌黄が……
「あのー、私は食べることが趣味なんですけど、各務さんの趣味は何ですか?」
 ……何言ってんだ?
「好きな食べ物は何ですか? 私は白いご飯が大好きです!」
 アホか……
 なおも遠ざかろうとする冷たい背中に向かって、萌黄のふざけた自己紹介は続く。
「B型の牡羊座、一四七センチ、四三キロ。スリーサイズはヒ・ミ・ツでーす」
 誰もそんなこと聞いてねーし。
「目標とする騎手は……各務さんです」
 各務さんが振り返った。険しい表情で、萌黄を威圧的に見下ろす。
「……目障りだ、消えろ」
 獣が低く唸るような声で、各務さんはそう言い放った。
 一触即発の空気に周囲が凍りつく。が、言われた当の本人はキョトンとして、丸っこい目をさらに丸くして各務さんを見上げていた。萌黄の足りない脳みそでは、何を言われたのか理解できなかったんだろうか。
 その隙に、各務さんは足早にその場を立ち去った。その後をマスコミがゾロゾロと性懲りもなくついていく。
 ポカーンとマヌケな顔で、その背中を見送る萌黄。笑いを通り越して哀れにさえ思えてきた。
「萌黄、もうわかっただろ? あれが各務之哉の本当の姿だよ。冷徹で、非道で、思いやりのカケラもない。あの人にとっては全てが敵なんだ。自分の邪魔になるヤツはみんな潰すのさ。サイテーだよ……」
 萌黄を慰めるために言ったんじゃない。これはオレの本心だ。
 底抜けに明るい萌黄が、なんでこんな冷たい人間を好きになってしまうんだろ?
 外見はまあまあイケてるかもしれないさ。競馬以外の雑誌に取り上げられることもあるくらいで、各務さんを見るためだけに競馬場に来る女性ファンだっている。女に言わせりゃ、あの「陰のある」カンジが母性本能をくすぐるんだとよ。
 でもな、あんな性格悪いヤツを好きになる女の気持ちがまったく理解できねぇ。
「悪いこと言わないって。あの人だけはやめとけ」
 今度は慰めるつもりで、そう言った。
 お前には絶対似合わない。あの人は、目標に値する人間じゃないんだ。
 普通、「目標とする騎手」に名前を挙げられたら、お世辞でも喜ぶだろ。
 それを「目障りだ」なんて暴言吐いて、邪険にするなんて。いくらしつこかったからと言って、あれはないだろ。少しは萌黄の気持ちも考えてやれよ。
 気がつけば、萌黄の小さな肩が小刻みに震えていた。まさか……泣いてるのか? 
 萌黄が泣いてるとこなんて一度も見たことない。そんなにショックだったのか……
「……各務さん、カッコイイ……」
 少しでも同情したオレがバカだった。
 涙を流すどころか、目にハートマークを輝かせてるじゃねーか。
「無口なところがまたイイよねー。大人の男ってカンジー?」
 何だよ……オレは口数が多いってのか?
「お前、ホント頭ワリィな。思いっきりバカにされたんだぞ!」
「それは照れかくしってやつだよ。カズくん、わかってないなー。まだまだコドモだねー」
「お前に言われたくねーよっ!」
 ヘコむどころかますます調子に乗ってやがる。
 これ以上コイツに付き合ってたらバカが伝染りそうだ。とっとと逃げよ。

 アイツの頭の中には、ウッドチップがギッシリ詰まってるに違いない。
 でなきゃ、こうも毎日毎日各務さんに付きまとうことできるわけないだろ。
 さすがに自分の仕事を放り出すようなマネはしていないが、空き時間になればいつの間にかチャッカリ張り付いていやがる。各務さんが馬に乗ってりゃそばから黄色い声援上げてるし、トレーニング中もあの人の横でずーっと一人くっちゃべってる始末だ。あの調子じゃ、メシはおろかトイレにまでついていってるんじゃねーか?
 完全に無視されて、見下されてるんだぞ。それをものともせず、各務さんに突進していける神経はやっぱマトモじゃない。いい加減、周りも居たたまれない空気に困ってんだろ。
 こうなったら、トコトン嫌われちまえばいいんだ。アイツのバカ頭でも理解できるくらいに。そうすりゃアイツもあきらめるだろ。
 ……いや、あきらめるかな? アイツのあきらめの悪さは学校時代にイヤってほど思い知らされたからな。
 もっと心配なことがある。
 毎年何人か辞めていく騎手の中でも『各務さんに潰された』と噂される者は少なくない。
 元々ラフプレーの多い人だ。審議対象になることなんて屁とも思ってないだろう。その結果降着になろうが騎乗停止になろうが、平然としてるぐらいだからな。
 そんな人に目をつけられて、レース中に審議覚悟で進路妨害されちゃたまんねーよ。
 相手は天下のリーディングジョッキー。その騎乗技術には定評があり、馬主からも調教師からも絶大な信頼を寄せられている。そんな人に『斜行はわざとじゃない』とシラを切り通されたら、それ以上は何も言えんだろ。下手すりゃ『マズイ騎乗をした自分はどうなんだ?』ということになって、鞍上から下ろされちまう。
 そんなことが続けば次第に相手は萎縮し、思い切った騎乗ができなくなる。成績は低迷し、引退に追い込まれるって寸法だ。
 レース中の駆け引きの一種と言ってしまえばそれまでだけどな。こんなこと各務さんに限った話じゃないし、騎手はこの仕事に命かけてるんだ、少々強引な騎乗をしてでも勝ちたいという気持ちが働くのは当然のことだろう。それで潰されるなら、そこまでの騎手だったってことさ。
 でも、もし萌黄が同じように目の敵にされたとしたら──もう遅いかもしれない。嫌がらせとしか思えないストーカーぶりだもんな。
 けど、萌黄は絶対に辞めさせやしない。
 萌黄に引導を渡すのは、アンタの役目じゃないんだよ。

 恐れていたことは、数日後、現実のものになった。
 日曜日、東京の第五レース。三歳未勝利、芝の一六〇〇メートル。
 スタートゲートの中で、萌黄と各務さんは並んでいた。
『明日の五レース、早く来ないかなー。各務さんと初めて一緒に乗れるメモリアルレースだよ。しかも隣同士。ワンツー決めなくちゃねー』
 オレも同じレースに乗るんだけど……聞いちゃいねーな。
『バーカ、誰がお前に簡単に勝たせるかってーの。一番人気はオレの馬なんだよ』
 ウキウキ気分でムチ磨いてる萌黄は、やっぱり聞いてない。その浮かれっぷりが心配になるんだっつーの!
『……お前、気をつけろよ』
『気をつけるって……何を?』
『各務さん、何か仕掛けてくるかもしれない』
『えー? 私にアタックしてくるってこと?』
『ちがーう! どうしてお前の頭はそんなにオメデタイんだよっ! そうじゃなくて、何か危ないことしてくるんじゃないかってことだ』
『各務さんはそんなことしないよー』
 恋は盲目とはよく言ったものだ。散々各務さんのレースビデオ見てるくせに、際どいプレーの一つも見抜けないのかよ。
『……もーお前には何にも言わねぇ』
 不利でも何でも受けりゃいいんだ。後で泣きごと言っても知らねーぞ。
 そんな昨日のやり取りを思い出しながら、オレは外枠から萌黄と各務さんを見つめていた。
 あのバカ、浮かれて地に足が着いてねーじゃねぇか。ゴーグルで目元が見えなくても、口元がだらしなく緩んでる。ヘラヘラしやがって。
 各務さんは萌黄なんかいないかのようにただまっすぐ前を見つめている。
 オレは昨日も各務さんと同じレースに乗ったけど、同じコースに立ったときのその存在感はやっぱりすごいと思った。
 他を寄せ付けない威圧感。そこにいるだけで、周りに重苦しいプレッシャーを与える。もっとも、萌黄はそんなことまったく感じてないようだけど。
 最外枠の馬が入り、一呼吸の後、ゲートが一斉に開いた。
 オレの馬はもちろん、萌黄も各務さんもつまずくことなくスムーズにスタートできたようだ。オレは集団の後ろにつけて、前の様子を伺いながら走ることにした。
 萌黄と各務さんの馬は両方とも先行馬。前で競馬をするタイプだ。二人を含めた四頭ほどが先頭集団を作り、一丸となって直線を抜け三コーナーに差し掛かる。
 ちょっと流れが速いか……けど、調教師からは『三コーナーまでは動くな』と言われてる。手綱をきつく握り締めて、ここはじっと我慢の時だ。
 三コーナーを過ぎ、四コーナーにかかる。
 各務さんにとって、ここは今でも特別な場所なんだろうか……
 勝利に対する並々ならぬ執念を醸し出すその背中からは、そんなセンチメンタルな感情は微塵も感じられない。
 そうだろうな。感じるわけねーよな。
 事故に対する謝罪を一言も口にすることはなく、由佳ねーちゃんの墓参りすら未だにしていないと聞く。
 自分の恋人を殺しておきながら、そのふてぶてしい態度は何だ? 自分を何様だと思ってんだよ!
 オレは手綱を握る手をわずかに緩めた。馬に対するゴーサインだ。
 四コーナーの入り口。先頭集団はバラつきはじめ、萌黄と各務さんは先頭で並んでコーナーに突っ込んでいった。オレも他馬をかき分け、追いかけた。
 各務さんが内側で、萌黄が外側半馬身ほど遅れてピッタリとついて行く。萌黄の馬もよくやるなぁ。また大穴開けるつもりか?
 けど馬の底力はこっちのほうが上だ。悪いけど、今日は勝たせてもらうぞ!
 前二頭をかわそうと馬を外側に持ち出そうとした、そのときだった。
 各務さんがムチを手にしたのが見えた。一発入れて、ここから逃げ切ろうってのか?
 が、しなるムチは馬の尻ではなく、後ろにいた萌黄の頬を打っていた。
 高速で走る馬の上で、萌黄の身体が大きく仰け反る。
 危ない! 落馬する!
「萌黄!」
 その言葉に呼応するかのように、萌黄は身体を前に振り戻し、体勢を立て直した。
 息つくヒマなんてない。各務さんはその隙にさらに加速して、後続との差を広げている。
「おいっ、萌黄! 大丈夫か!」
 後ろから声をかけるが、萌黄は振り返らない。それどころか自分のムチを取り出して、馬を追い出す。それでオレは気づいた。
 まだレース中なんだ──一瞬の迷いが、レースの勝敗を決するというのに……
 気がつけばコーナーを抜けて直線、残り六〇〇を切った。
 逃げる各務さんを追いかけて、萌黄の馬も加速する。オレも続こうとムチを振るったが、タイミングを逃した馬は伸びを欠き、思うように加速しない。
 ──終わってみれば、各務さんが一着、萌黄が三着、一番人気だったオレは八着に沈んだ。
 電光掲示板を見上げると、審議の青ランプが灯っている。
 当然だろ。あんなヒドイことやっといて、ただで済むわけがない。
 馬を下り、後検量室に戻ると、萌黄と各務さんは既に裁決室に入っていた。レース中に問題が発生したとき、問題の当事者がこの中で裁決委員に事情聴取される。被害者と加害者がそれぞれの言い分を主張するんだ。
 萌黄が何を言うかはともかく、各務さんは「ムチが当たったのは故意ではない」と弁明するだろう。あの人のやりそうなことだ。確かに道中後ろを振り返るようなこともしてないし、後ろに誰がいるかなんてわからないと言ったらそれまでだ。
 だけど、オレの目はごまかせないぞ。
 各務さんは絶対に萌黄を狙っていた。各務さんは萌黄が斜め後ろにいることがわかっていたんだ!
 だからこそ、馬にムチを振るうフリをして萌黄をブン殴ったんだ。そんな器用なことができるのは、トップジョッキーであるアンタだけだよ。
 審議が終わるまで着順は確定しない。裁決の内容によっては、降着ということもありうる。加害馬の着順を被害馬より下に繰り下げるんだ。馬券を買ってる人にとっちゃいい迷惑だけどな。
 今回も各務さんは降着になるだろう。もしかしたら、騎乗停止処分も下されるかもしれない。が──
 裁決室から出てきた二人は、両方とも笑っていた。
 萌黄はいつもの絵に描いたような満面の笑み。
 各務さんは勝ち誇ったような、気味悪い薄ら笑いを浮かべて、そのままどこかへ消えていった。
「萌黄、どうなったんだ?」
 萌黄の左頬は真っ赤に腫れ上がり、あまりに痛々しくて無残だ。
 仮にも嫁入り前の女の子だぞ! ムチで殴るなんて何考えてんだよ!
「着順は変わらないよー。っていうか、なんで私、裁決室に呼ばれたんだろ?」
 ハァ?
「なんでって……お前、各務さんに殴られたじゃねーかよ」
「殴られた? 違うよー。あれはムチがたまたま当たっただけだよー」
 も、もしや……
「お前……裁決委員に何にも言わなかったのか?」
「うん、そうだよ。だって、各務さんが『わざとじゃない。追い出そうとしたらたまたま当たってしまった』って言うから。大体さー、各務さんがわざと私を叩くようなマネするわけないじゃない。それをさ、いちいち取り上げて審議にするなんて、各務さんがかわいそうだよー」
 オレは目が点になった。
「各務さんが身をもって競馬の厳しさを教えてくれたんだよ。これがまさに『愛のムチ』ってやつだねー」
 プチッ!
 オレはとっさに萌黄の襟首を掴んでいた。
「どうしてお前はそんなにバカなんだっ! 頭ン中に詰まってるオガクズ全部出せ!」
 頭を前後左右に激しく揺さぶっても、当然ながらオガクズは出てこない。
「耳ン中で詰まってんのか? だからお前は他人の話が耳に入らねーのかっ!」
 先輩騎手が苦笑い気味にオレを止めに来て、萌黄はようやく解放されたが、オレの怒りは一向に収まらなかった。
「お前が文句言わないんだったら、オレが言ってくるぞ!」
 着順はゴールに到達した順で既に確定してしまった。今更ゴネたって何も変わらないことはわかってる。
 けど、せめて、萌黄を殴ってしまったことをちゃんと謝ってほしい。
 各務さんに突撃しようとしたオレの肩を、萌黄が掴んで引き止めた。
「カズくん、各務さんイジメちゃダメー」
「お前のために言ってやるんだよ! 放せよ!」
 そんなこと言ったくらいで放すようなヤツじゃないんだな、これが……
 女のくせにバカ力しやがって……前に進むことも手を振り解くこともできやしない。
「ダメったらダメー」
「放せったら放せって!」
「なーに二人で漫才やってんだぁ?」
 気がつくと、前にシゲさんが立っていた。
「シゲさんもコイツに何とか言ってやってくださいよ! このまま黙って泣き寝入りしろって言うんですか?」
「オメェなあ、当人同士が納得してること、今更引っかき回してどうしようってんだよ。やーめとけ」
「でもっ!」
 それ以上の反論を封じるように、シゲさんはオレの胸倉を乱暴に掴んだ。
「テメェの下手な騎乗を棚に上げて何言ってやがる。他人のことより自分の心配しろ。さっきみたいなフヌケた乗り方してっと、いくら親の七光りったっていい馬回してもらえんくなるぞ」
 言葉に詰まった。
 そうだ……オレの馬は八着。殴られて不利を受けた萌黄でさえ三着に入る健闘を見せてるのに、オレは掲示板にも載れなかった。
 オレの中で急に悔しさがこみ上げてきたのがわかったのか、シゲさんは胸倉を掴んでいた手をパッと放してくれた。
 シゲさんは後ろにいた萌黄に目をやると、労りの言葉でもねぎらいの言葉でもなく、厳しい叱責の言葉を投げつけた。
「萌黄、オメェもだぞ。アレぐらいのことで怯んでどうする。逆に怒鳴りつけて抜き返すぐらいの根性見せろや」
 いくらなんでも、それは言いすぎじゃ……
「はーい。じゃあ、次からは各務さんに抱きついちゃうくらいのつもりでがんばりマース」
 殴られた勢いで、バカに拍車がかかったようだな。
 同情するだけムダな気がしてきた……毎度のことなんだけどな、オレも学習能力ないのかな?
 と、そこへ各務さんが戻ってくるのが見えた。
 文句言いたい気持ちはまだ残ってたけど、ここはグッとガマンすることにして、ムカつく気持ちを抑えようと顔を背けた。
 が、萌黄のバカはニコニコしやがって、各務さんの顔をうっとり見つめてる。そんなことしてたらまた……
 あーあ……各務さんの怖い顔がこっちに来ちゃったじゃねーか……
 各務さんが口を開くよりも早く、萌黄は笑顔で頭を下げた。
「各務さん、ありがとうございましたぁ」
 これにはさすがに各務さんも面食らったようだ。萌黄をブッ潰すつもりでやったのに、文句を言われるどころか、礼を言われるなんて初めてのことだろう。
 各務さんは不敵に笑うと、萌黄に言い放った。
「……ふざけた気持ちでやってるなら、今すぐ騎手を辞めるんだな。事故起こしてケガする前に実家に帰ったほうが身のためだ」
 ──それは萌黄に対して、絶対に言ってはいけない一言。
「萌黄に向かってなんてこと言うんだよっ!」
 オレはとっさに怒鳴っていた。
 たとえシゲさんに殴られても、萌黄に対してそんなセリフを吐くことは絶対に、絶対に許せない。
「アンタは何も知らないからそんなことが言えるんだ……萌黄は……萌黄はなぁ!」
 今にも食って掛かりそうなオレの気迫に気圧されたのか、各務さんは驚いたように目を見張っている。
 この人は……萌黄のこと、本当に何も知らないんだな。そんなヤツに、萌黄のことどうこう言う資格なんてない!
 が、萌黄はいきり立つオレを片手で制しながら、微笑んで首を横に振った。「何も言うな」ってことか? お前は本当にそれでいいのか?
 萌黄は各務さんを見つめて、静かに言った。
「お気遣いありがとうございます。でも心配しなくても、私は死にませんよ」
 今度は各務さんの顔色が変わる番だった。
 何気ない一言のように聞こえて、心に深く刺さる強烈な一言。萌黄なりの逆襲なんだろうか?
 萌黄は時々、胸をえぐってくるような鮮烈な言葉を発することがある。
 深い意味があるのか、もしかしたら単に思いつきで言ってるのかもしれないけど、相手の心臓をわしづかみにすることだけは確かだ。
 複雑な表情を浮かべて、各務さんは逃げるように背を向けた。去り際、シゲさんの前でわずかに足を止めたが、互いの目を合わせることはなかった。
 うつむいたままだったシゲさんの態度が、オレはすごく気になった。

 この日、オレはまた萌黄と一緒にシゲさんの車で帰ることになった。
 ホントのことを言うと、オレは九レースが終わってすぐに一人で帰ろうと思ってたんだけど、萌黄にムリヤリ力づくで引き止められてしまったんだ。
「一緒にNHKマイル見てから帰ろうよー」
「やだよ。オレは早く帰りたいんだよ!」
 そう言って萌黄に背を向けると、後ろから細く長い腕がオレの身体に巻きついてきた。
「お、おい……何すんだよ……」
 背中があったかい……
 オレは思わずあたりをキョロキョロと見回してしまった。幸い、誰も見てないようだけど……
「な、何だよ、急に……」
 後ろからきつく抱きしめられて、それが萌黄のイタズラだとはわかっていても、この腕を振り解くことができない。
「うんしょ」
 急にオレの両足が浮いた。萌黄がオレの身体を抱え上げたんだ。オレよりも身体小さいくせに……このバカ力め!
 有無を言わさず、オレはレースが見える場所まで強引に連れて行かれた。
 心臓をバクバクさせてあれこれ想像してたオレの繊細な心なんて、お前にはわかんないんだろうな……あーチクショー!
 本当に見たくなかったんだ。
 GIという大舞台で、圧倒的一番人気という重圧を背負いながらこともなげに圧勝する各務さんの姿を。
 同じ騎手という立場に立った今、あの人のスゴさを目の前でまざまざと見せつけられることほど、残酷で苦痛なものはない。
 だからイヤだったんだよ……自信なくすじゃねーか……
 スタンドを埋めつくす大観衆の歓声を受けながら、ウイニングランをするわけでもなく、手を振って歓声に応えるわけでもなく、淡々と勝利ジョッキーインタビューを受け、表彰台に立つ各務さん。
 イヤミなんだよな、その態度が。って新人のオレが言っても、それこそイヤミにしか聞こえないけど。
 萌黄はと言えば、各務さんがGI勝つとこを初めて生で見れたのがよっぽどうれしかったらしく、帰りの車に乗ってもまだ「すごいねー」「カッコイイねー」を連発していた。
「オレにはお前の神経がわからんよ……ムチで殴ってきたヤツをどうしてそこまで褒められるかね」
「だってー、ホントにカッコイイんだもん。早く各務さんみたいな騎手になりたいなー」
「百年早えーよ。つーか、まず重賞乗れるようになってから言えってーの」
「あ、カズくんひどーい。自分が重賞乗ってるからってー」
 今日はシゲさんの口が重い。いつも軽口を叩いて周囲を和ませてるこの人らしくない。
 競馬場にいるときから、何だか様子が変だった。義理人情に厚いシゲさんが、よりによって妹弟子の萌黄をかばわなかったんだぞ。絶対おかしいって。
 そういえば、各務さんとシゲさん、騎手としての二人を同時に見るのも初めてだった。
 やっぱり、二人の間には妙な緊張感が漂っていた気がする。お互い、話をすることもなければ、目をあわそうとすらしなかった。
 でも、正直言って、オレはそれが巷で言われている「確執」や「不仲」と言うのとは、ちょっと違うような気がした。
 何となくだけど……シゲさんのほうが各務さんに遠慮しているような?
 ……んなワケないか。気のせいだよな。
「萌黄」
 シゲさんが口を開いた。妙にかしこまった感じだ。
「ふぁい?」
 スタンドで買ってきたと思しき牛丼をかっこむ手を止めて、萌黄は答えた。
「……各務のこと、恨まないでやってくれな」
 何を言い出すのかと思ったら……驚いた。
「あったりまえですよー。私はいつだって各務さん大スキですよ」
 プ、と吹き出し、シゲさんは笑い声を上げた。
「今じゃオメェ位だな。そんなこと、堂々と言えるヤツはよ」
「……シゲさん、どうしたんですか? 何か変ですよ、そんなこと言うなんて」
 オレが思わず口を挟むと、シゲさんは運転中だというのに後部座席のオレを振り返った。
「おお、カズ、オメェもいたんか。忘れてたよ」
 失礼な、と言うよりも、オレの存在を忘れるほど何か深く考え込んでいたに違いない。
「そうか……カズ、オメェにも話しといたほうがいいかも知れんな」
「……何を、ですか?」
「うん……」
 逡巡するかのように、シゲさんはまた黙り込んだ。
 今更何の話があるって言うんだ?
 沈黙に気まずくなって外に目を向けると、晴れた五月の夕空は透き通った色ガラスのように美しく、生い茂る緑の鮮烈さと対を成すようだった。
 今日は暑かった。五月もまだ上旬だと言うのに、もう夏がやってきたような暑さだ。
 そう言えば、あの日もこんな晴れた暑い日だったよな……
「各務があんなんなっちまったのは、オレのせいなんだよ」
 またもやオレは驚いて、反射的に言い返した。
「何言ってるんですか! あの事故は……」
「事故のことじゃねぇよ。各務があんな風にトゲトゲしくなっちまったのは、オレのつまらん意地のせいなのさ」
 シゲさんは何を言おうとしてるんだ?
 あの事故は、誰がなんと言おうと各務さんの騎乗ミスが招いた事故だ。その結果、シゲさんの一人娘である由佳ねーちゃんが死んだんだ。
 あの人が薄情で陰険な性格になったのは、あの事故を周りから散々叩かれたから、それを根に持って今もふてくされてるだけなんだよ!
「あん時はよ、中坊だったオメェにはわかんねぇいろんなことがあったんだよ。って、コドモ扱いしちゃぁいけねぇな。あん時はオレも大人気なかったしな」
 何だよ……何があったって言うんだよ!




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