芝生の魔女〜萌える季節の約束〜


第3章  天国へ続く芝生の道

『空が澄んで星がハッキリ見える。明日のダービーも晴れていいお天気になりそう』
『ああ、そうだな……』
『……で、各務さん、話って?』
『由佳里……あのさ……』

 あの日も、こんな晴れた暑い日だった。
 近づく梅雨の季節を予感させるような湿度の高い空気が肌に貼りつき、雲一つない空だというのに雨の匂いがそこら中に漂っていた──
 誰もいなくなった競馬場のスタンドに一人立ち、あの日に想いを馳せる。
 小高いこの場所からは競馬場全体が一望できた。空は茜色から濃紺へと変わるグラデーションを描き、地上に視線を下ろせば芝生の、木々の緑が忌々しいほど眩しい。
 あの日のことで一番覚えているのは天気のことだなんて、知れたらまた「オレ」は薄情者と非難を浴びるだろう。まあ、そんなことはもう慣れているが。
 人間、五年前の記憶なんてそう明確に残るものじゃない。人生を変えるような大きな事件があったとしても、次から次へとやってくる変化と刺激の波に飲まれ、記憶は薄れて、やがては彼女の最期の顔すら思い出せなくなるだろう。
 だからあの日──五年前のダービー当日、何が起こったかを正確に語れるのは、事故の一部始終を克明に記録したパトロールフィルムだけだ。
 
 GIタイトルを一つ二つ取り、リーディングの上位に名を連ねることができるようになって、ようやく騎手としての基盤を確立できたという自負がオレの中で生まれつつあった。
 前の年には関東リーディングも取り、コンスタントに騎乗依頼が来るようにもなった。そろそろ厩舎から独立してフリーになったら──なんて話もちらほら聞こえてきたし、自分の中でも意識し始めるようになっていたのは確かだ。
 全てが順調に進み、オレは騎手という職業を天職と感じ始めていた。
 ただ一つ、気がかりなことがあるとすれば、由佳里と結婚を前提とした付き合いをしていながら、それを父親であるシゲさんに何も報告していなかったことだった。
 別に隠していたわけじゃない。
 人目を忍ぶ理由なんてどこにもなかったし、そういうのは二人とも嫌だった。ただ何となく付き合うようになっていたから、毎日のように顔を合わせているシゲさんに改めて挨拶するのが気恥ずかしいというか、照れくさかったんだ。
 由佳里と初めて会ったのは、彼女がまだ中学生だった頃だ。オレはまだ駆け出しで、兄弟子であるシゲさんの家に招待されて、そこで彼女に出会った。
 はにかむように微笑むクセは、その頃から変わらない。幼さと活発さと艶やかさを同居させて可憐に微笑む彼女に、先輩の娘であるということも忘れて恋心を抱いてしまった。
 一人娘しかいないシゲさんは、晩酌の相手にとよくオレを誘ってくれた。特に他意はなかったんだろうが、オレとしては由佳里に会う口実ができて好都合だったことは間違いない。彼女もオレのつまらない話に笑顔で付き合ってくれて、オレたちは自然と親しくなっていった。
 しばらくして、彼女から進路の相談を受けた。
 騎手になりたい──と。
 オレは正直驚いた。確かに騎手である父親の背中を見て育ったのなら、女性でも競馬に関する仕事をしたいと思うようになるのも無理はない。
 けど、騎手を目指すとなると話は違う。
 猛スピードで疾走する馬に身体一つで乗り、レースをして賞金を稼ぐ仕事だ。バイクに似てはいるが、生き物である馬にはブレーキもアクセルもついていなく、簡単に思うままにもならない。ケガは絶えないし、下手をすれば命も落とす。
 それだけじゃない。
 その年、JRAで初めての女性騎手が誕生したが、華々しくデビューした彼女たちが旧態依然とした競馬界の高く冷たい壁にぶつかって、四苦八苦しているのは一目瞭然だった。
 由佳里もそれはわかっていた。それでも彼女は騎手を目指したいと言ったのだ。
 キレイ事だけでは決して済まされない騎手という仕事。できれば彼女には味わってほしくない。
 しかし──強い意志を瞳の中に秘めて、オレをまっすぐに見つめてくる由佳里を、それ以上強く説得することはオレにはできなかった。
 シゲさんはというと、最初は渋い顔をしていたが、彼女が競馬学校の願書を取り寄せたことを知ると諦めたように承諾していた。大事な一人娘が自分と同じ職業を目指すことにうれしさを感じつつも、女性として普通の幸せな道を進んでほしいとも思う複雑な気持ちで一杯だったのだろう。
 競馬学校での辛く苦しい三年間を経て、由佳里は晴れて騎手となった。
 彼女がデビュー戦を迎えたときのシゲさんといったら、同じ騎手であるという立場も忘れて、娘を心配するただの父親と化していた。自分の騎乗はそっちのけで娘を応援しているその姿は、微笑ましくもあり、少し迷惑でもあったが。
 騎手となって晴れ晴れとした笑顔でオレの前に立った由佳里には、オレも少なからず感慨深いものを感じた。陰日向で応援してきた甲斐があったというものだ。
 それからも先輩騎手として彼女の相談に乗ったり、いろいろとアドバイスをした。
 そうしているうちに自然と恋人のような関係になったとしても、それは無理なことではないだろう? オレはずっと彼女のことを想い、彼女もオレを慕ってくれた。もう子供じゃないんだ。
 オレたちは恋人同士でありながら同時にライバルであり、時に対立し、時に励ましあった。たくさんの言葉と愛を交わし、永遠とも思える時間を共に過ごした。
 お互いがかけがえのない存在となり、二人でならずっといつまでも同じ芝生の上を走っていられると、本当に思っていたんだ。
 狭い社会の中でオレたちの仲が知れ渡るようになっても、シゲさんは何にも言わなかった。その不気味さに、逆にこちらから言いそびれてしまった感もある。
 認めてくれているのか、機嫌を悪くしているのか、それとも本当に知らないのか、見極めがつかないままいたずらに月日は流れてしまった。
 いずれはきちんと挨拶を──と思いながらなかなか言い出せなかったことを、オレは今でも強く後悔している。
 いや──後悔するべきことなどたくさんありすぎて、本当に悔やんでいるのかさえわからなくなってしまった。
 記憶が薄れるように、様々な感情も薄れていく。何を思い、何を考え、何を感じていたかなど、昔のことどころか昨日のことさえまともに思い出せない。
 彼女と一緒に見た果てしない青空も、燃えながら海に落ちる夕陽も、ダートを覆いつくす白い淡雪も、競馬場に舞い落ちる桜の花びらも──思い出の色は褪せ、色彩を失ってしまった。
 それなのに、あの日に見た目を突き刺す芝生の緑と、彼女の白い頬を流れる鮮血の赤だけは、今もオレの目に焼き付いて離れない。

 その日は、朝から少し緊張していた。
 もちろんダービーは初めてじゃないが、「競馬の祭典」と言われる大レースを前に、その独特の雰囲気に多少飲まれていたのは確かだ。
「出られただけでラッキー」という去年までのダービーとは違う。
 トライアルの青葉賞をブッチギリで完勝した。
 有力馬と言われた皐月賞馬はケガで出走を回避した。
 自馬の状態は完璧、馬場も悪くない。
 そう──ダービージョッキーとなれる最大のチャンスが、ついにやってきたのだ。
 前日までのオッズでは一番人気の二・九倍。観客が、調教師が、馬主が、様々な人間がオレとオレの馬に期待をかけている。
 これほどの大きなレースで一番人気を背負って走ることの意味を、オレは重圧という形で痛いほどに感じていたが、それ以上に大舞台に立てる喜びと、主役になれるかもしれない期待で胸が一杯になった。
 そんな一大事を控えた前日に、由佳里と些細なことでケンカしてしまったのは少し残念だった。
 同じ東京開催で走るというのに、よほど腹に据えかねているのか、顔を合わせても不機嫌そうに目を背けている。
 原因はオレにあることは間違いなかったんだが、オレも簡単には折れる気にならなかった。
 こういうときはさすがに、同じ仕事をしていることを少し恨めしく思う。二人とも意地っ張りで負けん気が強いから、意見が真っ向からぶつかるとしばらくの間口をきかないこともしばしばだ。
 二、三日もすれば、大抵どちらかが折れて元のサヤに戻るのだが、このときはそんな時間的余裕もなく、着地点が見つかる気配すらなかった。
 高揚する気持ちの中にわずかにモヤモヤするものを残しながら、オレは近づく大舞台に神経を集中させていた。
 通常一日十二レースあるところが、ダービーのある日は十一レースになる。メインレースは最後から二番目が定位置、ダービーは第十レースだ。
 八レースが終わった時点で一着一回、二着一回、三着二回。まずまずの出来だ。開催そのものも至極平穏で、八レースでちょっとした斜行があって審議となったものの、着順が変わることもなく終わったのが唯一の事件らしい事件だった。
 その斜行のとばっちりを食って負けてしまった由佳里の悔しそうな顔が、いつもにこやかに微笑んで「アイドル騎手」と揶揄されることの多い彼女の勝負師としての一面を如実に表していた。
 ダービーの前、九レースの「むらさき賞」には本当は乗る予定ではなかった。ダービーを前にケガでもしたらイヤだな──という気持ちも働いてか、積極的に馬を探そうという気にもならなかったのだが、金曜日の調教中にその馬・フライハイの主戦騎手が落馬して、代わりの騎手を探していたところでオレに白羽の矢が立ってしまった。調教師からのたっての頼みとあっては無下に断るわけにも行かず、乗るハメになってしまったというわけだ。
 まあ、馬も悪くないし、十分上位を狙える力はある。ダービー前の景気づけにもう一勝上げようか──むらさき賞の前にはそんなことを考える余裕があった。
 ゲートに入る前、鞍上でうつむき、思いつめたような顔をしている由佳里を見た。
 彼女は今日まだ一勝も上げられてない。それどころか掲示板にも乗っていない。乗鞍を確保するだけで精一杯の彼女が勝利をもぎ取ろうと必死になっている姿は、立派というよりは痛々しく、哀れにさえ思える。
 ダービーに勝ったら──彼女にどんな言葉をかけよう? 言いたい事はたくさんあるけど、まずは仲直りしてからだ。
 遠く離れたゲートでスタートを待つ由佳里の横顔を一目見て、それから前を見据えた。次の瞬間にはゲートが開いていた。
 最内枠の由佳里の馬・アスピルクエッタが集団の前に飛び出していったのが見えた。
 あの馬は逃げるレースでここまで勝ち上がってきた馬だ。たとえ力不足と言われても、逃げなければ本領を発揮したとは言えない。逃げるしか道はないんだ。
 一八〇〇メートル、わずか一分五十秒足らず。うまくハマれば逃げ切ることだって考えられる。それを黙って見逃すほど甘い顔はできない。これが今日最後の騎乗である彼女には酷かもしれないが、そう簡単に物事をうまく運ばせるわけには行かない。
 オレはアスピルクエッタのすぐ後ろにつけた。こっちのペースに引っ張られて時計が狂えば、オレの勝ちだ。
 鞍上の由佳里がこちらを振り返った。
 オレがすぐ後ろにいることに驚いているようだった。慌てて前を向いたが、焦りの色は隠せない。
 向こう正面の長い直線に入る。
 聞こえるのは耳をかすめる疾風の轟音と、大地を叩きつける蹄の鳴動。
 手綱から伝わる馬の手ごたえが、勝利の予感をより確実なものにしてくれる。
 青々と茂ったけやき並木が風にざわめいているのが見えた。東京名物の大けやきに差し掛かる頃には三コーナーも終わりだ。
 後続がジワリジワリと差を詰めてきている。
 由佳里もそろそろ動き出す頃か。
 とはいっても、この馬ももう一杯一杯だろう。最後の直線を追えるだけの力は残っていまい。後ろが詰まって八方ふさがりになる前に、アスピルクエッタをかわしておくか……
 ムチを一発入れるだけで、フライハイは反応良く加速するはずだ。実戦で乗るのは初めてだったが、調教では何度か乗っているのでクセは覚えている。
 ムチを入れるため、両手で持っていた手綱を左手にまとめようとした、その時だった。
 ん? アスピルクエッタが……なんか変だ……
 そう思った次の瞬間には、アスピルクエッタの馬体が沈んでいた。
 故障だ──
 全身の皮膚が粟立つ。これから起こる、惨劇を予感させるように。
 声を出す間もなく、由佳里の身体はふわりと宙に浮き、芝生の上に無造作に投げ出されていた。
 神に問えるものなら、オレは今でも問うてみたい。
 とっさに手綱を思い切り引っ張らなかったとして、避けようと馬を左側に寄せなかったとして──
 果たして彼女は助かったのだろうか?
 蹄を通して伝わる、グニュッとした嫌な感触。
 世界が回って歪み、オレもまた芝生に叩きつけられる。
 頬に触れる芝の冷たさと、むせ返るほどに吸い込んだ草と土の匂い。
 遠くに横たわる由佳里を見つめる眼前を、蹄鉄をつけた無数の蹄が芝を舞い上げながら轟音とともに通り過ぎていく。
 早く由佳里を助けなければ……
 芝を噛み締め、何とか動き出そうともがくが、全身が鉛になったかのように重く、鈍い。
 言うことを聞かない身体を叱り付け、無理矢理立ち上がった右足に激痛が走った。が、オレの意識は右足よりも、フライハイが、アスピルクエッタがどうなったかよりも、芝の上で横たわったまま、ピクリとも動かない由佳里に釘付けだった。
 観衆のざわめく声も、遠のく馬蹄の音も、何も聞こえない。
 気持ちばかりが急いて、足がうまく動かない。それでも一歩、また一歩と、着実に由佳里のもとへ近づく。
 眩しい日差しに照らされた彼女の白い頬に、赤いものが一筋、流れているのが見えた。あまりの衝撃にヘルメットも外れ、艶やかな黒髪が輝く緑の絨毯の上に広がっている。
 その場に倒れこむようにして、オレは由佳里のそばに膝をついた。
 長いまつげを伏せたその顔は、キスをねだる表情と同じだ。
 形の良い耳には、誕生日にプレゼントしたダイヤのピアスが、陽を受けて眩しい光を放っている。
 騎手という勝負の世界にあっても、彼女はいつも薄化粧をして、女としての自分を見失わなかった。由佳里は騎手であることに、そして女であることに誇りを持っていたのだ。
『お父さんは「男に生まれりゃちょうどよかったのに」なんて言うけどね。男に生まれてたら、きっと騎手なんて目指さなかったと思うわ。私は女に生まれてよかったって心底思ってる。女だからこそ、騎手としてできることもあると思うの』
 薄いピンクに染められた唇が今にも動き出して、そんな強がりとも思える言葉を発しそうだ。だが、唇の端からこぼれる血は頬を流れ、その下の芝に大きな血だまりを作っていた。
 オレは由佳里の上半身を持ち上げ、腕に抱きかかえた。力ないその身体が重く感じる。由佳里の腕がだらりと落ちた。
 頬についた草を、震える手でそっと拭う。
「由佳里……」
 応えは永遠に帰ってこないだろう。血の気を失った青白い頬と、腕に触れる体温が徐々に下がっていく感覚が、その事実をオレに突きつけている。
 目が、鼻が、喉が、胸が、燃えるように熱い。
 灼熱の業火が、オレの身体の中で燃え上がる。犯した罪ごと、オレを焼き尽くすかのように。
 全てを吐き出すがごとく、オレは天に向かって叫んでいた。
 
   □□□

 こんなカタチで娘との別れが来るなんて、誰も、もちろん「オレ」自身考えもしてなかった。
 まさか娘の、由佳里の死を、遠く離れた中京競馬場のモニターで見ることになるなんて──
 事故のその瞬間を見てしまったのは、父親として果たして良かったのか悪かったのか。
 目に映る映像が現実であることを頭では理解しつつも、ドラマのワンシーンを見るような気分でオレはその事実を把握しようとしていた。
 四コーナー出口で前肢を故障し、つまずいたアスピルクエッタ。投げ出された由佳里の上を、すぐ後ろを走っていた各務の馬が通り過ぎ、そして各務もまた巻き込まれるように落馬する。
 体重四百キロを超える馬に腹を蹴られて、無事である人間などいない。
 多分、内臓破裂……
 全く、因果な職業だ。
 娘が命を落としたかもしれないというのに、その一方で騎手として馬の心配をしている。アスピルクエッタはおそらく骨折、予後不良(安楽死)になるだろう。かわいそうに……
 東京競馬場を映すモニターの中では、各務が由佳里を抱き起こす姿がクローズアップされていた。
 周りに職員が集まってきた。それでも各務は由佳里を離さない。
 現場の音は何一つ聞こえないが、人目もはばからず各務が泣き叫んでいるのだけは、しっかりと見て取れた。
「……さん……シゲさん! しっかりしてください!」
 まるで他人事のようにモニターを見つめていたオレは、後輩騎手に肩をゆすられて、やっと我を取り戻した。
 気がつくと、その場にいた全員が、マスコミやJRAの職員に至るまで全員が、驚きと同情が入り混じった複雑な表情でオレを見つめている。
 そこで改めて、由佳里の身に起きたことを理解し、オレは愕然となった──
 その日の騎乗はまだ残っていたが、それどころじゃない。ショックで足取りのおぼつかないオレを、同じ美浦の若いヤツが引っ張るように新幹線に乗せ、東京へ連れ帰ってくれた。
 府中の病院で──顔に白布をかけられた由佳里と対面してもまだ、オレは娘が死んだことが受け入れられなかった。
 青白い色をしているが、傷一つないきれいな顔だ。今すぐにでも起きて、父親をバカにしたようなことを言い出しそうだ。
『何言ってんのよ。三十年でGI一つしか勝ってないくせに。各務さんを見習いなさいよ』
 自分はGIどころか重賞にも乗ったことがないくせに、よく言うよ。最近じゃあからさまに各務と比較しやがって、父親としてのプライドもへったくれもありゃしねぇ。
 大体な、お前がそうやって、ことあるごとに各務を持ち上げる話をするから、ますますオレはお前らのことを素直に認められなくなってくるんだよ。オレが気づいてないとでも思ったのか?
 ちゃんと「付き合ってます」って一言挨拶に来りゃあ、こっちとしても対応のしようがあるってものを、後ろ暗いことでもあるのか、二人ともオレには何にも言わねぇでよぉ……
 オレは、各務ならいいと、本気で思ってたんだ。
 騎手としても、男としても……由佳里みたいな親の言うこと一つも聞かねぇジャジャ馬を乗りこなせるのは、各務しかいないと思ってたんだ。
 お前らが何にも言ってこないから、オレはシビレ切らしちまった。お前らには内緒で、母さんと一緒に結婚式場のパンフレット集めてたりしてたんだぞ。
 各務なら……何があっても、絶対にお前を幸せにしてくれると……
 一人娘の幸せを切に願っていた、哀れで愚かな父親と嘲笑ってもいい。悲しみに打ちひしがれ、流す涙の意味さえわからなくなるほどに麻痺してしまった心が、オレを愚行へと走らせた。
 葬儀の日。
 しとしとと降る纏わりつくような雨の中、松葉杖をつきながら、右足を引きずるようにして現れた各務を、オレは無下に追い返した。
 わかっている──あれは単なる「事故」だ。
 馬の故障で落馬した由佳里を、すぐ後ろを走っていた各務が避けきれなかった。誰が見ても、オレが見たって、あれは競馬ではよくある事故の一つだ。
 ただ単に、由佳里に運がなかっただけの話なんだ。
 そう思えば思うほど、病院を無理に抜け出してまで葬儀会場にやってきて、目の前で悲痛な表情を浮かべてうなだれている各務を、オレは赦せなくなっていた。
 誰が悪いわけでもない。背負うべき罪など、最初からないのだ。
 それなのに──
 各務の顔を見たとたん、得体の知れない熱いものが腹の底から湧き上がってきて、オレの喉を突き上げようとした。
 それを何とか飲み込み、一言「帰ってくれ」と言うのが精一杯だった……

 各務が律儀な男だってことは、あいつが厩舎に入ってきた頃からよくわかっていた。
 ヘンに堅っ苦しい、石頭みたいなヤツだなと笑ったこともあったが、それはあいつのいいところでもあった。
 全く、バカなヤツだよ……
 オレの言ったことを真に受けてノコノコ引き下がった上に、会わせる顔がないとでも言うのか、五年たった今でも墓参りに来ていない。老いぼれジジイの戯言なんて、いい加減無視すりゃいいのによ……
 フン……バカはオレのほうだよな。
 各務は落馬で右足を複雑骨折する大ケガを負い、全治三ヶ月。ダービー初勝利のチャンスをフイにしてしまった。
 その上、各務がダービーで乗るはずだった馬は急遽乗り代わりとなって惨敗。
 これにはダービー初勝利を期待していた馬主さんも腹を立ててしまい──しかも相手が悪かった。競馬サークル内に多大な影響を及ぼす大物だったから──各務は一気に信用を失墜させてしまったと、後々になって聞いた。
 そんなどん底に突き落とされてしまった各務に、心ならずも、自分の乗る馬で恋人にとどめを刺してしまった各務に、オレはなんて酷い仕打ちをしてしまったのだろう。
 辛いのはあいつも同じだったんだ。
 いや、オレ以上に辛かったのかもしれない。
 何もかも全て、あの一瞬で失ってしまった。
 機会も、名声も、信頼も、そして大事な人も……
 あの日──涙のような五月雨に打たれ、ずぶ濡れになりながら静かに背を向けて去っていく各務の、魂の抜けた深く暗い瞳をオレは忘れない。

 その日以来、各務の消息はプツリと途絶えた。
 三ヶ月が経ち、ケガが癒える頃になっても、あいつは美浦に戻ってこなかった。それどころかいつの間にか厩舎を辞め、フリーの身になっていた。オレと同じ厩舎でやっていくことは、もう無理と考えてのことだろう。それも当然か。
 心のどこかで各務のことを気にしながらも、それを口にすることは男としてのプライドが許さなかった。男ってのはホント面倒なもんだな。
 半年も経った頃か……各務がアメリカにいると、風の便りに聞いた。日本の競馬界には、居場所がなくなったに等しいからな。
 向こうでも大レースに乗ることはなく、あいつの名前は忘れ去られてしまったかのように、誰も口にする者はいなくなった。
 このまま、あいつは一生日本に帰ってこないんじゃないか──
 そんなふうにさえ思い始めた、次の年の五月。忌まわしい事故から、もうすぐ一年が経とうとしていたときだった。
 各務が──美浦に帰ってくると聞いたのは。
 しかも帰国早々、ダービーに騎乗するという。ダービーのために帰国したというのが正しい表現だろう。
 一年も日本を離れていた人間を、いきなりダービーに使うなんて……しかもわずか一年前の、あの事故を知らないわけじゃないだろ? 確か資格を取って一年足らずのIT関連の社長だとは聞いたが、怖いもの知らずの馬主さんだなと思ったもんだ。
 一年ぶりに会った各務は──それは各務の顔をした死神だと、別人なんだとオレは信じたかった。
 顔ばかりがいい気弱な優男のようでありながら、その瞳の奥に騎手としての野心と男としての確固たる意志を潜ませて、いつも遠く未来を見つめていた各務。そんな爽やかな青年だった頃の片鱗も感じられない、禍々しいオーラを放つ各務がそこにいた。
 目が合って、オレは死神に魅入られたように身動きが取れなかった。何も言えなかった。
 各務をこんなふうにしてしまったのは、オレだ。オレのせいだ。
 もはやオレなど眼中にないといった感じで、各務は踵を返して去っていく。
 この一年の間、各務が何をしていたか、言わずとも聞かずともダービーの騎乗がそれを教えてくれた。
 圧倒的なパワー。巧みなテクニック。完璧なまでに計算しつくされたレース運び。他馬をも威嚇する気迫……
 そしてダービーの勝利ジョッキーインタビューで、あいつは笑みさえ浮かべて、こう言ったんだ──
『アメリカは、弱い自分を一から叩きなおすのにはこれ以上にない良い場所でした。一年前のあの事故は、自分を変えるいい機会になりましたよ』
 アメリカから帰ってきた各務は、血も涙もない非情な人間に生まれ変わっていた。手に入れた強さと引き換えに、あいつは温かい人の心を失ってしまった。「馴れ合いは不要」と一切の親交を断ち、あまりにシビアな騎乗で周囲と揉め事を起こしてまでも、なりふり構わず勝利を掴み取ろうとするその態度が全てを物語っている。
 元々、各務には十分な実力があったんだ。
 ただ、超一流として才能を開花させるには、性格が優しすぎた。
 馬に対しても人に対しても非情になりきれないその優しさは、騎手として致命的なものだとよくあいつを怒鳴りつけたっけ……
 オレは各務が哀れに思えた。
 何故そこまでして、自分をおとしめようとするのか。わざわざ非難を浴びるようなことまで言って……
 事故という重い十字架を背負い、アメリカで手足を釘で打たれるような苦しい思いをしても、それでもなお自ら進んで棘の道を歩むつもりなのか? 
 そこに何の意味があるって言うんだ?
 お前がどれだけ苦しみを味わったって、もう由佳里は戻ってこねぇんだ……

 それから何年か経ったある日。
『変わったヤツがいる』と聞いてダートコースに行くと、ソイツは落馬した直後で、潰れたカエルのように雨に濡れた砂の上で突っ伏していた。
 ようやく持ち上げた泥だらけの顔からは「かわいい」と聞いていた元の顔がどんなのかさえよくわからない。小学生かと思うくらいに小さな身体は凹凸に乏しく、とても女とは思えなかった。
 一応、競馬界の中では有名人を自負していたオレに向かって「オジサン、誰?」って言うのには参ったが、一つも悪びれてないソイツの豪快さがオレは気に入った。
 ソイツ──早川萌黄に出会ったのは、きっと運命だったんだと思う。
「各務さんが大好きです!」
 臆面もなく、満面の笑みを浮かべてそう言った萌黄に、驚きを通り越して嬉しささえこみ上げてきた。
 各務に対して恐れを抱いていても、好感情を持ってるヤツなんかいない。ハッキリこんなことを言えるのは萌黄ぐらいなもんだ。
 正直言って騎手としての才能はカケラも感じなかったが、オレは西藤先生を説得して、萌黄を西藤厩舎に入れた。
 前評判どおりのバカとあって、相当に鍛え甲斐があったな。
 みんなはっきりと口に出しては言わなかったが「死んだ娘と重ね合わせてるんじゃないか?」と言いたそうな顔してた。
 バカ言っちゃいけねぇ。
 由佳里は萌黄よりもずっと器量良しだったし、もっと賢かったぞ。騎乗技術だって由佳里のほうがうまかった。親バカって言われるかも知れねぇけどな、そこは譲れねぇ。
 萌黄が由佳里よりも優れているところがあるとすれば、それは「呆れるほどの明るさ」と「バケモノじみた身体の頑丈さ」そして「底なしの食欲」だけだ。
 とはいえ、娘ほどにも年の離れた萌黄に、何か特別な想いがあるんじゃないかと言われても仕方ねぇな。
 確かに──オレは萌黄に期待しているのかもしれない。
 意地を張って後戻りできなくなってしまった、バカなオヤジの目を覚まさせてくれることを。
 幸せだった頃の記憶を捨てて死神となった男を、元の心優しい青年に戻してくれることを。
 ……やっぱりオレはバカだな。他人のことは言えない。
 こんなことを他人に期待してどうする? オレ自身がどうにかしなければならない問題なのに。
 でも、この恐ろしくバカで脳天気な萌黄の笑顔を見ていると、何か大きなことをしでかしてくれるような気がしてならなかった。
 何の実績もないのに、周りの者をついつい期待させてしまう何かを、萌黄は持っている。

 事故から五年が経った。
 もう五年、まだ五年……長いような短いような、そんな月日だったように思う。
 事故の記憶も徐々に風化しつつある。ここ美浦でも、身内以外は由佳里が乗っていた馬の名前も出てこないくらいになった。
 由佳里の死を現実のものとして受け入れるのには随分な時間がかかった。いや、未だに……オレの中で、あの事故はまだ終わってないのかも知れんな。
 終わりにするには胸に抱えたわだかまりが大きすぎる。終止符はまだ打てないだろう。
 今の各務は、由佳里の愛した各務之哉じゃない。
 あいつを変えてしまったのは、オレだ。オレには各務を救ってやる義務がある。
 あいつを救うまで、オレは引退できない──

「雨のニオイがする……」
 五月も下旬。近づく梅雨が嘘のように、雲一つない快晴だ。
 が、萌黄の天気予報はよく当たる。理由を聞いても何の根拠もない答えが返ってくるんだが、何でかわからんけど当たるんだな、これが……
 犬のように鼻をヒクつかせている萌黄の頬には、大きなバンソウコウが貼られている。
 昨日の落馬の痕だ。
 コイツの落馬なんて珍しいことじゃないが、昨日のはいただけなかったな。
 オレは控え室のモニターで見ていただけだから、詳しいことはよくわからんが、三コーナーの手前、各務の斜め後ろを走っていた萌黄が突然落ちたんだ。
 当然審議になったが、萌黄が他馬に関係なく単独で落ちたということで、誰もお咎めなしとなった。
 カズは「各務さんの陰謀だ!」とまた騒いでたけどな。パトロールフィルムを見ても、各務は直接手を出したようには見えなかった。
 が、裏を返せば、間接的に手を出したとも言える。
 これは推測だが──この間、各務が萌黄をムチで殴った事件。萌黄は平気な顔をしているが、身体は意思とは反して、あの恐怖を覚えていたんだ。
 女性は男性よりも、自分の身体を守ろうという意識が強く働くらしい。顔となればなおさらだろう。だから同じような状況になって、各務がムチを取り出す素振りを見せたとき、身体は正直に反応した。
 後続馬がいる中での落馬だったから、オレも肝を冷やした。幸い、ほっぺたに大きなかすり傷一つ作っただけで大きなケガはなく、空になった馬もそのままゴールした。
 これも推測だが、各務はそうなることをわかってやったんだろう。あいつぐらいの凄腕になれば、そのくらいのことを狙ってやるのは可能なはずだ。
 誰もが闘争心をむき出しにして、しのぎを削りあう厳しいこの世界。
 たとえ故意だったとしても、裁決委員が「シロ」と言えば、それでレースが決まる。今回のことは、各務のほうが一枚も二枚も上手だったと言うことさ。
 それにしても──このところの萌黄に対する各務の当たりの強さと言ったら、ちょっとばかし目に余るものがあるな。
 レースじゃ審議にならないギリギリのところで巧妙な罠を仕掛けて、萌黄を陥れる。
 萌黄をぴったりとマークして、思い通りに身動きを取れなくさせたり、併せ馬のように萌黄の馬をけしかけてペースを狂わせたり。強引にインに割り込んで、萌黄を外に吹っ飛ばしたこともあった。
 各務ほど貪欲に勝ちに行く騎手は、他にいない。
 勝つための戦略、と言ってしまえばそれまでかもしれないが、格下の新人騎手に対して、何もそこまでキツク当たることはないだろ。
 おかげで萌黄は勝利から遠ざかり、掲示板に乗るのでさえままならなくなっている。ただでさえ乗り鞍が少ないのに、ますます減ってしまうじゃねえか。
 さっきも二番人気に押されながら、十二着と不甲斐ない負け方をしてしまった。逃げ馬なのにスタートに失敗し、逃げ切れなかったんだ。
「スタートすらマトモに切れないのか! 全く……やっぱりオンナは使えねぇな」
 レースの後、調教師に叱られている萌黄を見た。他厩舎の馬に乗せてもらえたいい機会だったんだけどな……あの調教師は気が短けぇから、もう乗せてもらえないかもしれない。
 馬を下りりゃ相変わらず萌黄は各務に張り付き、各務はそれを全く無視して口もきこうとしない。萌黄がいくらしつこいとはいえ、もうちょっと上手いあしらい方があるだろうに。
 そこまで虐げられ、敬遠されても、萌黄はそれでも各務についていこうとする。
 ただ「好き」という感情だけで、あそこまで崇拝できるものなんだろうか? 
「だって、各務さんを見てるだけで、幸せな気分になれるんですよー」
 理由になってねぇよ……やっぱりバカの考えることはわからねぇな。
「今日のオークスもスゴかったですねー。あそこでササッと出て、スーッと回って、ガッと抜け出してズバババーンと……やっぱりうまいなあ」
 何言ってんだか全然わかんねぇけどな。お前がものすごく感動してることだけはわかるぞ。
 NHKマイルに続き、三歳牝馬クラシックのオークスも制覇か……日本が世界に誇る超一流ジョッキーだけあって、さすがとしか言い様がねえよ。
 どうせ来週のダービーも、一番人気に推されるんだろうよ。全く、どれだけ勝ちゃ気が済むんだか……
 そうか、来週はダービー──もうそんな時期か。年取ると、ホント時間の流れが速くなっちまっていけねぇな。
「カズはどうした?」
「飲み物買ってくるって言ってましたよー」
 そう言う萌黄はハンバーガーを口にくわえている。レースが終わったとたんにこれだ。コイツの食欲と全く変動しない体重は、もはや競馬界の七不思議のひとつだな。
 駐車場に止めた車の前でカズが来るのを待ちながら、オレはもう一度、萌黄の頬に目をやった。
 各務は一体何を考えてるんだろうか……
 いくら萌黄が嫌いだからって、目の色変えて潰しにかかるほどのもんじゃねえだろ。あいつにとっちゃ、半人前の萌黄なんて取るに足らない存在のはずだ。
 じゃあ、なんで……
「あっ!」
 カズがやっと来たのかと思って伏せていた顔を上げると、そこには仏頂面の各務が立っていた。
 たった今、考えてたヤツが突然目の前に現れたんで、飛び跳ねんばかりに驚いてしまったが、目が合う前に各務は顔を背けた。
「お疲れ様でーす。各務さんもこれから帰るんですか?」
 各務は当然答えない。萌黄など最初からそこにいなかったかのように前を通り過ぎて、隣に止まっていた車に向かう。
「カッコイイ車ですねー。今度乗せてくださいよー」
 後ろから猫なで声で話しかける萌黄を振り返りもせず、高級外車のトランクを開けて荷物を押し込んでいる。
「オークス二連覇なんてスゴイですねー。来週のダービーもガンバって下さい!」
 バンッ!
 萌黄の口を封じるかのように、車のトランクが荒々しく閉められた。
「……失せろ」
 萌黄を睨みつけ、各務は低く唸った。
「何も考えてないような、その脳天気な顔を見てるとイライラするんだ!」
 各務がこれほどまでに敵意をむき出しにした姿を、見たことがあっただろうか?
 レースで闘志を燃やすことはあっても、普段は誰にも興味を示さないようなヤツだ。何があっても感情を露にすることなんてなかった。
 萌黄の肩を乱暴に突き飛ばし、道を開けさせる各務を見て、オレはどうしても疑問を投げつけられずにはいられなかった。
「……オメェ、何でそんなに萌黄をイジメるんだ? 可愛い後輩じゃねぇか、もうちょっと可愛がってやってもいいんじゃねぇか?」
 萌黄をにらんでいた視線が、こちらを向いた。心外だと言わんばかりの顔だ。
 オレの問いかけには答えないつもりらしい。無言のまま運転席のドアに手をかけて開けようとしたので、言いたくなかった言葉をつい口にしてしまった。
「まさか……由佳里を思い出してるんじゃないだろうな」
 ──冷たい風が、オレたちの隙間を通り抜けた。
 いつの間にか青い空は鉛色に変わり、重苦しい雲が空を埋めつくしている。
 各務は──ドアを開けかけた手を止め、もう一度オレを鋭く睨んだ。今度は薄ら笑いさえ浮かべて。
「……だったらどうだって言うんです? 今度は殺さないように、離れたところを走れとでも?」
 殺さないように……穏やかじゃねぇな。
「誰もそんなことは言ってねぇよ。もしかしたら萌黄の存在が、お前に由佳里のことを思い出させるからじゃないかと思っただけさ」
 各務は静かにドアを閉め、オレをさげすむような瞳で見つめてきた。
「アンタも年老いたもんだ……そんな感傷に浸ってる暇があったら、自分の将来のことをもっと真剣に考えたらどうです? 落馬して娘のところに逝く前に、とっとと引退したほうがいいですよ」
 悪辣な微笑。
 それが各務特有の挑発だとはわかっていても、オレは頭に血が昇るのを押さえられなかった。
「テメェッ!」
 掴みかかられてもなお、各務はオレをあざ笑った。
「いつまでも死んだ娘に囚われて……可哀想な人だ」
「ふざけんなっ!」
 悔しくて、悲しくて、やりきれなくて……
 殴ってくれと言わんばかりに無防備な各務の頬めがけて、固く握った拳を突き出した。
 が──
 その拳は頬にブチ当たる前に、温かな手のひらに包まれて勢いをなくしていた。
「はーい、そこまでー」
 萌黄の気の抜ける声が、オレと各務のあいだに割って入ってきた。
「萌黄! 止めるな! オレはコイツの性根を叩き直さんことには……」
 受け止めた拳をいとも簡単に払いのけ、萌黄はニッコリと笑った。
「そのケンカ、私に売らせてください」
 ヒートアップした頭ではとっさに理解できず、思わず聞き返してしまった。
「あん? どういうことだ?」
「私が各務さんと勝負します」
「お前が? 各務とケンカするってぇのか?」
「各務さんを殴るなんて、そんな乱暴なことできませんよー。騎手なら騎手らしく、レースで決着つけましょうって言ってるんです」
 そう言って萌黄はオレに背を向け、今度は各務をじっと見据えた。
「各務さん、私と勝負しましょう」
「……お前の戯言など聞いてる暇はない」
 無表情を取り戻して、各務は言った。
 そして身を翻した──その背中に、萌黄の鋭い言葉が突き刺さった。
「女に負けるのが怖いんですか?」
 そんなはずは……と思ったオレの考えは裏切られた。
 振り返った各務は一応の無表情を保ってはいたものの、真一文字に結んだ唇が微かに震えていた。怒っているようにも見えるし、はたまた萌黄の言葉を肯定するかのような脅えた顔にも見える。
「誰が……怖いって?」
「じゃ、受けてくれますよねー?」
 爽やかに言う萌黄に押し切られたカタチだ。ここまで言われては各務ももう引き下がれないだろう。
「勝負というからには、それなりの覚悟はしてるんだろうな?」
「カクゴ?」
「オレが勝ったら、お前には騎手を辞めてもらう。それが勝負を受ける条件だ」
 なんてことを……
 大体、萌黄は各務より先着したことがないのに、そんな分の悪い勝負を受けるわけが……
「いいですよー」
 のん気な声で簡単に受けやがって……萌黄がバカだってこと、すっかり忘れてたよ。
「萌黄! そんなこと聞かされて、オレが許すとでも……」
「じゃあ、私が勝ったら──各務さん、私とデートしてくれますぅ?」
 聞いちゃいねぇし。それに、相手は騎手辞めろって言ってんのに、お前のそのフザけた条件はなんだ!
「ふん、いいだろう」
 各務のヤツ、萌黄が勝つなんて絶対にないと思ってやがるな……
 それにしても、萌黄のこの自信は何だ?
 負ければ後がないというのに……まっすぐ各務を見つめる瞳は、勝つことを微塵も疑ってない目だ。何か秘策でもあるんだろうか?
「じゃあ、来週日曜の東京九レース、むらさき賞で勝負です」
 各務の顔色が変わった。
「むらさき賞だと?」
 驚くのも無理はない。萌黄は最初からこれを狙ってたのか?
「はい、むらさき賞です。何か問題でも?」
 キョトンとして目を丸くする表情からは、コイツに深い考えがあるようにはとても見えない。いや、多分何も考えてないな。
 各務は冷笑を浮かべて、平静を取り戻していた。
「……お前にどんな考えがあるのか知らんが、むらさき賞だからってオレが弱くなると思ったら大間違いだぞ」
 そうだろうな。そうでなかったら、各務は今ここに立っていないはずだ。
「シゲさん、いいですよねー?」
 って、勝手に話進めといて、今更オレに聞かれてもなぁ。
 勢いそがれて、殴る気も失せちまったし……
「ったく、しょうがねぇな……テメェがタンカ切ったんだから、テメェでケジメつけろよ。オレはケツ持たねぇぞ」
 そう言うしかねぇだろ。
「各務──さっきの暴言は聞かなかったことにしてやるよ。お前らの勝負に口も手も出さねぇ。だけどな、萌黄はオレの妹弟子だ。オレはコイツを信じてる。必ずやお前に勝って、そのひん曲がった根性を叩き直してくれると信じてるよ」
 かつての弟弟子は、滑稽だと言わんばかりに押し殺した笑い声を漏らした。
「楽しみにしてますよ。せいぜい、自慢の妹弟子が死なないように祈ることですね」
 そう言って各務は車に乗り込み、エンジンをかけた。笑顔で手を振る萌黄に見送られて、車は駐車場を出て行く。
 やれやれ、とんでもないことになったな──
 ため息をつき、頭をかきながら振り返ると、頬に冷たい雫が当たった。空を覆う雲は暗く、時間はまだ日暮れ前だというのにすぐそこに夕闇が迫っている。
 とうとう雨が降り出したか……荒れそうだな。
 視線を空から下ろすと、車の向こうで缶ジュースを握り締めたまま、静かな怒りをたたえているカズが、そこにいた。





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