冬に咲く花、春を待つ空


    霜 月

 灰色の雲が空を覆いつくしている。この冷え込みでは、いつ雪が降り出してもおかしくない。
 クリスはコンサバトリーのガラス越しに空を眺めて嘆息した。雪は嫌いではないが、今日はあまり降って欲しくない。
 このコンサバトリーは宮殿から庭園に突き出す形で作られている。そもそもは温室として作られたもので、白を基調とした全面ガラス張りの建物だ。あまり広さはないが、天気の悪い日でも眼前に広がる庭園を楽しむことができるので、クリスはよくここでお茶を飲む。
 約束の三時まであと十分。だが無情にも、見上げた空から白いものが一つ二つ、ふわりふわりと落ちてきた。
 あっという間に、庭園の景色が綿雪の水玉模様に彩られる。まだ積もるほどではないが、それでも庭園の木々がうっすらと白く染められては融けて地面を濡らしていく。
 曇りガラスを指で拭いて外を眺めては、ため息を漏らす。今日はもう外を散歩することはできないだろう。
「クリス様、ご到着されましたよ」
 エレナの声で、クリスは我に帰った。気がつくと、後ろでエレナがニヤニヤしながら立っている。恰幅がよく気立てのいい母親みたいなエレナであるが、いつもと違いどこかそわそわしていたクリスの様子に何か感じるものがあるようだ。
「そ、そう……」
 好奇の視線を避けながら、クリスはエントランスへと向かった。
 ちょうどドアが開けられ、客人が入ってきたところだ。
「ようこそ。寒かったでしょう」
「お言葉に甘えてお招きにあずかりました。先日のドレス姿もよかったですが、今日のワインレッドのワンピースもよくお似合いですね」
 今日も眩いばかりの笑顔を振りまいて、ヴィート・エヴァンジェリスティ大尉は敬礼を捧げた。今日は濃紺色の常装──つまりは普通の制服姿で、手にコートを携えている。
 聞けば彼は二十八歳なのだそうだ。精悍な中にわずかな青さを残す顔つきはそれよりも若く見えるし、ランバルドの守り神と聞けばもっと年上かと思ってしまう。全くもって、不思議な雰囲気の男だ。
「殿下、これをどうぞ」
 ヴィートは後ろ手に持っていたものを差し出した。真っ赤なバラの花束だ。
「まあ……ありがとう」
「女性に会うのに手ぶらというわけには行きませんからね」
 彼の抜かりのなさというか、そつのなさには舌を巻くしかない。
 クリスはヴィートをコンサバトリーに案内した。
「ほう……これは素晴らしい……」
 入るなり、ヴィートは感嘆した。
 コンサバトリーの中でポインセチアやシクラメン、デンドロビウムやカトレアなどのランの花が色鮮やかに咲き乱れていたからだ。
「こんな素晴らしい部屋もあったんですね。まるで秘密の花園ですな」
「今日みたいな天気の日はここが一番よ。さ、掛けて」
 ヴィートに椅子を勧めて、クリスも腰掛けた。すぐさまアフタヌーンティーの支度が始められる。
「こちらからお誘いしておいてなんですけど、お仕事は大丈夫なの?」
「仕事といっても、日がな一日書類を睨みつけてるだけですからね。同僚にうらやましがられましたよ。もっとも、殿下のお招きにあずかったと言ったら『ついに殿下にまで手を出したのか』と怒られましたが」
「嫌だわ。私そんなつもりじゃないのに……」
「殿下は『ランバルドの宝石』、いわばこの国の宝です。いくら不死身の種馬といえども、恐れ多くてそんなことできませんよ」
 そう言って彼は笑ったが、目は至って真面目だ。テーブルの向こう側に座るヴィートを少し遠くに感じる。
 アフタヌーンティーの準備が終わり、エレナと侍女たちは下がっていった。
 コンサバトリーの中に二人、取り残されて静寂に包まれる。
「どうぞ、召し上がって」
 二人はそれぞれのカップを手に取り、紅茶を堪能した。
 外は綿雪から細雪に変わっている。カップから立ち上る湯気が、逆に外のきつい寒さを知らしめる。
 クリスはカップを置き、身を乗り出した。
「……ね、『不死身の悪魔』の話を聞かせてくれない?」
 ヴィートはカップに口をつけたまま、動きを止めた。
 目を伏せ、一呼吸おいて紅茶を口に含む。口角を上げてはいるが、どこか思案顔である。
「……あまり話したくないって顔ね。ごめんなさい」
 思わぬ反応に、クリスは場を取り繕うように言った。
「いえ……戦争の話などつまらないものですから、殿下にお聞かせするにはいかがなものかと考えていたのですよ」
 ヴィートはそう言うが、カップを持つ彼の手が微かに震えているのをクリスは見逃さなかった。ソーサーに置いたカップの中で、紅茶の水面に細かい波紋が広がっている。
「無理には聞かないわ。ただ……興味本位というわけじゃないのよ。五年前ですもの、私だって記憶はあるわ。でもその当時まだ幼かった私は、一人他国に疎開させられていたの。父や母は王宮に残って、最後までヴォルガ軍と戦うつもりだったのに、私は一人安寧の地でランバルドの勝利を祈ることしかできなかった……」
 疎開という判断は、王室の存亡を考えれば当然のものだったと理解はできる。
 だがたった一人、異国の縁者を頼っての疎開生活は、まだ十三歳だったクリスには寂しくもあり辛くもあり、何よりも一人除け者にされたという想いが強かった。
 クリスとてランバルドの民。国民を総動員しての戦いの中、王位継承権第一位の自分が異国で安穏と過ごし、戦争を傍観する立場にいたことを歯痒く思っていたのだ。
「私はこの目で戦争を見ていない──遠い将来、私はこの国の女王になるわ。この国の象徴となる人間が、冬戦争を何も理解してないなんて、そんなことにはなりたくないの。資料で見るのではなく、前線で戦ったあなたの言葉で、冬戦争のことを知りたい。あの戦争が過去の遺物になる前に、思い出の彼方へ行ってしまう前に……」
 とつとつと語るクリスの、その真意を探るようにヴィートの瞳がじっと見つめていた。
 光を帯びた藍色の瞳は宵月のように澄んで、クリスの姿を明瞭に映し出す。だがその奥底に見え隠れする暗然とした何かが、視線ごとクリスを引きずり込もうと蠢いている。
 怖い──でも知りたい。それが何なのか──
 先に視線を外したのはヴィートだった。
「本当に──つまらない、面白くも何ともない話ですよ。人は私を英雄と呼びますが、私には英雄と呼ばれる資格などないのです。私は文字通りの『悪魔』なんですから」
 横を向いたヴィートは、そこにいる誰かに話しかけているようだった。自嘲気味に頬を歪めた顔は、自らを英雄と褒め称える人々をあざ笑うかにも見える。
 だが、心配そうに見つめるクリスにいつもの優しい微笑を投げかけると、彼は背筋を伸ばし姿勢を正した。
「そんな私の話でもよろしければ、聞かせて差し上げましょう。大恩ある殿下のお役に少しでも立てるのなら」
「……感謝しますわ」
 ヴィートは大きくうなずくと、切れ長の瞳を閉じた。
 深く深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。それはまるで何かの儀式のよう──
 真っ暗な闇の中で、ヴィートの意識は雪に覆われたランバルドの国境付近上空を飛んでいた。

   ◇ ◇ ◇ ◇

 機銃が唸り声を上げて咆哮する。
 急旋回で圧し掛かる重力に、身体のあちこちが捻じ切られそうだ。
 高速で飛び去る敵機の中に人影が見えたが、機銃の発射レバーを握る手は躊躇を知らない。毎分五百発の速さで撃ち出される十三ミリの弾丸が、敵機を貫き、鋼鉄の機体を切り裂いた。機体から伝わる振動が心までも震わせ、湧き上がる何かを消し去っていく。
 赤と黄色の国籍マークをつけたヴォルガ軍機が、黒煙を上げて堕ちていった。それを見届けて、ヴィートはようやく全身の力を抜いた。
 他の敵機は早々に退散したようだ。
 残されたのは、幾筋もの螺旋を描いて走る飛行機雲と、その向こう側に広がる青い空だけ。
 今日もまた生き残った──ドッグファイトが終わり、空に静けさが戻ってきたこの瞬間。今この時に、生きていることを一番実感する。
 ただ穏やかに回り続けるエンジンとプロペラの音が心地よい。緊張を強いられていた心と身体が少しずつほぐれていく気がする。
 どこまでも美しいこの大空を、このままずっと飛んでいたい──狭いコクピットで目を閉じ、想いを空に溶かそうとした瞬間。
『おい、ヴィート! 大丈夫か!』
 無線機がけたたましくがなり声を上げた。
 僚機のニーノだ。自慢のダミ声がノイズだらけの無線機のせいで余計に汚く聴こえる。あまりの煩さにヴィートは目を開けた。
「大丈夫だって。ちょっとかすっただけだよ」
『何がちょっとだよ。尾翼ふっとんでるじゃねえか』
「そうか? でも今飛んでるからきっと大丈夫だろ」
 ヴォルガ軍機に撃ち込まれた機銃で、目の前の風防ガラスにはいくつも穴が開きひびが入っている。ドッグファイトに夢中になるあまり、凍てつくような冷たい風が顔に吹き付けていたことにも気づいていなかった。身体に傷がついていないのが不思議なくらいだ。
『まったく、呑気な奴だな。これでエースだって言うんだから信じられんよ。今日は何機喰ったんだ?』
「えーと……三機か? 地上のはよく覚えてない」
『今日もお前の一人勝ちかよ!』
 ニーノの機体が左前方に見えてきた。コクピットに座る彼の姿もよく見える。ごつい顔が飛行帽とゴーグルで覆われて、ますます大きく見える。
 彼の機体もヴィートに負けず劣らず穴だらけになっていた。
「そういやジャンは?」
『奴なら……堕ちたよ。脱出もできなかったみたいだ』
「そうか……」
 今朝、言葉を交わしたはずの仲間が、今はもういない。だが涙は出なかった。戦争が始まって一ヶ月、仲間が次々と死んでいくことにも慣れてしまった。
 開戦以来、この国境付近の制空権を巡り、毎日のように空戦を繰り広げている。ヴォルガの電撃的な侵攻で当初は押され気味だったが、ここ最近は何とか制空権を確保していた。
「ここ、いつまで持つかな」
『さあな。けど時間の問題だろうな』
 周辺国はこの戦争に手も口も出さないというスタンスらしい。援軍が来ないと知って、物量で勝るヴォルガは徐々に気勢を揚げつつある。ニーノの言う通り、制空権が再び奪われる日も遠くないかもしれない。
 生き残った機が集結し、次々と基地に戻っていく。ヴィートとニーノの機もそれに続いた。
 白雪を頂いてそびえ立つ山々を横目に、その谷間を縫うように飛行する。程なく、正面に灰色の直線が見えてきた。ヴィートたちのホームベース、ブレッシャ基地の滑走路だ。
 地上管制に従って、続々と着陸する。ヴィートはニーノの後だ。彼が無事着陸したのを確認してから、自らも着陸態勢に入る。
 車輪を下ろし、操縦桿を細かく動かして滑走路に機体を下ろしていく。あと少し……
 機体が──ガクンと沈んだ。
 重力が一瞬なくなり、それから機体ごと身体が地面に叩きつけられたような感覚。衝撃で車輪が折れたのがわかる。
 胴体着陸──まずい。まだ燃料が残っている。
 轟音と激しい振動の中、ヴィートは無意識のうちにシートベルトを外していた。あれこれもがいている暇はない……このままでは爆発する。
 火花を散らして地面を滑る機体から飛び出そうと、ヴィートはキャノピーを開け立ち上がった。コクピットの縁に足をかけ、主翼の上に飛び降りようとした次の瞬間──
 爆音と共に火柱が立ち上った。
「爆発したぞ!」
 爆風もろともヴィートの身体は宙に投げ出され、そして硬い滑走路に叩きつけられる。
 雪原地帯に似せかけた白のカモフラージュ塗装に、機首に描かれたユニコーンのマーク。自分専用の機体が炎に包まれていく様を、ヴィートは朦朧とした意識の中で眺めていた。
「消火部隊急げ! 奴は無事か?」
 仲間たちがぐったりしているヴィートを引きずって担架に乗せる。入れ替わるようにホースを抱えた男たちが消火に向かっていった。

「まったくよお……お前の身体は一体どうなってんのかね」
 ベッドの上で身体を起こすヴィートの横で、ニーノは呆れ顔だった。
「大きなケガはなかったものの、身体中やけどに擦り傷、打撲だらけ……なのに」
 ヴィートは何も言わず、涼しい顔で微笑んでいる。ニーノは厳つい顔を引きつらせて、彼の胸倉を掴んだ。
「なんで……その胸糞悪い顔には傷一つつかねえんだよ!」
 あれだけの事故に巻き込まれながら、ヴィートの顔面はなぜか無傷だった。しかも今回だけの話ではない。今まで幾度となく被弾や墜落を起こしながら、首から下は満身創痍となってもその顔だけは絶対に傷つかないのだ。
「神の思し召しって奴だな。この顔に傷をつけるのは忍びないと、神様が守ってくれてるんだよ」
「けっ」
 そっぽを向いたニーノの反対側では、数人の女性たちがベッドに寄り添っている。看護婦や女性下士官が甲斐甲斐しくヴィートの世話を焼いているのだ。
「いいご身分だなぁ、おい」
「うらやましいか?」
「別に。うらやましくなんかねぇよ」
「この間紹介してやった娘とはうまくいってるのか?」
「ふふん……聞いて驚くな。次のデートでプロポーズだ」
 武骨者で女性にはからきし弱いと思っていたニーノだが、意外に押しが強い部分もあったらしい。もうプロポーズとは、紹介してやった甲斐があるというものだ。
 彼とは開戦前から、部隊配属以来の同僚だが、よく凸凹コンビと揶揄されている。
 ヴィートは毛布をはがしてベッドを降りた。
「起きていいのか?」
「大したケガじゃないさ。寝てるのにも飽きたしな」
 女性達に礼を言い、二人は医務室を出て基地の屋上に向かった。
 外はすっかり日も暮れ、空には冬の星座が輝いている。今夜も冷え込みが厳しい。ニーノは寒さに震えてジャケットのボアの襟を立て、煙草に火をつけながら言った。
「お前、いよいよ中尉に昇進だってな」
 紫煙が白い息と共に吐き出される。
 ヴィートは夜空に燦然と輝く北極星を見上げていた。
「そうらしいな」
「そうらしいって……うれしくないのか?」
「オレは空を飛べれば何だっていいよ」
 ニーノが笑った。
「お前ってつくづく変な奴だよな。とぼけたツラしやがって、とても『悪魔』なんかにゃ見えねーよ」
「悪魔? なんだそれ」
「ヴォルガの奴らが、お前のことそう呼んでるらしいぜ。『白い悪魔』だとよ」
「そりゃいいあだ名だ」
「向こうにとっちゃ悪魔でも、こっちでは英雄さ。通算二十機越えたんだろ? 国王陛下から勲章もらえる日も近いな」
「ああ……」
 ヴィートは気のない返事をした。
 昇進も勲章も、別にどうでも良かった。自分にとっては空を飛べることが一番の喜びなのだから。
「なあヴィート……お前、なんで戦ってるんだ?」
 落ち着いたニーノの声に視線を向けると、彼は心配そうな目でこちらを見ていた。
「時々──お前が怖くなるよ。無茶苦茶に突っ込んでいっては、並居る相手を次々と木っ端微塵にして、そして自分も傷だらけになって帰ってくる……そのくせ『自分は絶対に死なない』みたいな呑気な顔してよ。なんかさ……顔が傷つかない代わりに、お前の中で何かが壊れてるんじゃないかって」
「お前こそ、そんな大層なこと言えるツラじゃないだろ」
 鼻で笑ったが、ニーノの憂い顔は変わらない。
「お前……なんで戦ってるんだ?」
 真顔で同じ質問を繰り返す。
「さあ……な。オレもよくわからんよ」
 そう言ってヴィートはまた夜空を見上げた。ニーノの手元でくゆる紫煙が、墨色の空にゆっくりと溶けていく。
 今は、親友の真摯な瞳から逃げ出したかった。

 戦う理由──この戦争の中にあって、確固たる理由を持つ人間が一体どれだけいるのだろうか。
 確かに、空軍パイロットになった頃にはあったかもしれない。人並みにこの国を守るんだという使命感を抱いていた。
 だが戦争が始まり、実弾の飛び交う戦場に否応なしに放り込まれて、生き残ることに必死になるうちに、そんなものはどこかに置き忘れてしまった気がする。
 初めて敵機を撃墜したのは、開戦から二度目の出撃だった。
 無我夢中のうちに機銃を撃ち出し、気がつけば敵機が火を噴いていた。燃え盛る炎に包まれながら、崩れ堕ちていく敵機の姿を今でも鮮明に思い出せる。
 戦争が始まって早一ヵ月。初戦果に心震わせたあの日が遠い昔のようだ。
 あっという間に五機を超えて「エース」と呼ばれるようになり、気がつけば撃墜数は二十機を超えていた。ランバルド空軍の中では断然トップで、日々ハイスコアを塗り替えているらしい。実感がわかないのは、自分で撃墜数をカウントすることをやめているからだろう。
 特別空戦の才能があるとは思わない。
 ただ、人より恐怖に対する感覚が鈍いとは思う。だからこそ誰よりも深く突っ込めるし、敵機の機銃掃射を受けても怯まない。
 死ぬことが怖いわけではなく、自分が死ぬとは思えないのだ。
 実際、撃墜されたり戦闘機の故障で墜落したりで、死に直面することも何度かあった。それでも自分は今生きている。
 死ぬこととは、どういうことなのだろうか。
 生きて帰るたびに、それを強く思う。それを考えること、考えられることが生きていることなら──死とは?
 皮肉なものだ、といつも自嘲する。名も知らぬ誰かを殺しておきながら、自分はこうしてのうのうと思索にふけっている。
 自分は人殺しをしているのだ。ヴォルガのパイロットに死を与えているのだ。
 戦闘機のコクピットに座り、機銃レバーを握りこむ──ただそれだけで、簡単に死を与えられてしまう。
 無残な死体を目にすることもなく、断末魔の悲鳴を聞くこともない。空の澄明な青に包まれながら、堕ちていく敵機を見下ろすだけだ。
 人殺しの自覚がないまま、今日も空へと上がり、誰かを落とす。
 自覚なんてしたくなかった。すれば、もう二度と空を飛ぶことができなくなりそうで怖かった。
 戦う理由がもし残っていたとすれば──それは積み重なる罪悪感を忘れるためだったのかもしれない。

 戦争も中盤に差し掛かる頃には、ヴォルガ軍はさらに攻勢を強め、前線はランバルドの奥へ奥へと後退し始めていた。地上部隊には焦りの色が見え始め、ヴィートたち空軍部隊にも毎日のように近接航空支援の要請が入っていた。
 異例とも言える速さで中尉に昇進したヴィートだったが、その日々に大きな変化はない。いつもどおり出撃して敵機を撃墜し、敵車両を撃破して、そして基地に帰ってくるという毎日。変わったことといえば基地が移動したことと、少しずつ入れ替わっていく仲間たちぐらいだ。
 相変わらずニーノとのコンビは続いていて、息のあったところを見せている。
 この間は機銃を食らって敵陣後方の農地に不時着したニーノを助けるため、ヴィートも着陸したのだが、ニーノを回収していざ離陸という時にエンジンが故障し、前線の味方基地までの三十キロを踏破するハメになってしまった。
 それでも追っ手を撒き、冷たい川を泳いで、自慢の顔で農村にいた若い娘に近づいて食糧を分けてもらい、二人は何とか基地まで到達した。基地は帰ってこない二人が死んだと思いこみ意気消沈していたが、ボロボロになりながらも帰還した二人の姿に驚き、狂喜乱舞したのだった。
 婚約者に泣いてすがられ、なだめすかすのに必死なニーノ。はにかみながらも生きて戻れたことの喜びを噛み締める彼がヴィートにはまぶしくもあり、うらやましくもあった。
 戦争が終わったら彼女と結婚式を挙げるのだと、ニーノは少し恥ずかしげに、しかしながら誇らしげに語った。
 だからとっととヴォルガ軍を殲滅して、さっさと戦争を終わらせるんだ──そう言って、傷だらけになってますます厳つくなった顔を引き締める。彼女のためにもと地上勤務を勧めたが、ニーノは頑として戦闘機パイロットにこだわった。
 もしかしたら、ニーノも自分と同じような想いを抱えていたのかもしれない。
 これだけの人殺しをしてきて、今更一人地上へ逃げ込むことなどできるのか、と。
 戦い続けて、戦争を終わらせる以外の逃げ道など、自分たちにはなかったのだ。

 その日も、前進するヴォルガ軍を迎え撃つ地上軍を支援するため、ヴィートはニーノと共に雪雲が立ち込める空へと上がっていた。
 ヴォルガ地上部隊は難攻不落といわれた森林地帯をついに突破し、一路首都ランバルディアへと軍を進めている。この農村地帯で何とか食い止めたいところだ。
『オラオラ、「白い悪魔」様のお出ましだぞ。今のうちに逃げ帰ったほうがいいんじゃねえか』
「そういうお前だって、『紅薔薇の騎士』とかクサイあだ名つけられてるんじゃないのか? もっとも、その顔じゃ薔薇も散りそうだけどな」
 並んで飛行するニーノの機首には紅い薔薇のマークがついている。彼女に捧げる薔薇、という意味だそうだ。まったく、顔に似合わないロマンチストである。
 ヴィートが長を務める編隊は離散し、上昇を開始した。風防があるとはいえ、外は氷点下、上空はもっと寒い。防寒着に身を包んでいても、凍てつく寒さが手足に沁みてくる。
 ある程度まで上ったところで今度は急降下に転じる。操縦桿を押し込んでギリギリまで降下し、翼の下にぶら下げた爆弾を戦車めがけて投下した。
 雪原に爆煙が立ち上る。高射砲の反撃を受けながらも、弾丸の隙間をかいくぐって次々と爆弾の雨を降らせた。蜘蛛の子を散らしたように敵兵が逃げ惑う姿がよく見える。
『おっと、新しいお客さんみたいだ』
 空の彼方に目を凝らすと、編隊を組んだ戦闘機の機影がいくつも見えた。ヴォルガ空軍が支援にやってきたのだ。
『ヴィート、オレたち二人で相手しよう。下にもまだまだ残ってるんだ。あちらさんをおもてなしするのに、二人で充分だろ?』
「……そうだな」
 ニーノの意見に賛同し、ヴィートは他の機に爆撃任務の続行を指示した。そして自らは旋回して機首を敵機の方向に向ける。相手はざっと十五機、一個中隊はいるだろうか。
 だが、数々の死線を潜り抜けてきた自分たちならきっと勝てる。
 ヴィートは左手でスロットルレバーを押し出し、低空で機体を大きく旋回させて敵機の後ろに回りこむ作戦に出た。
 白い機体を大地を覆う雪でカモフラージュさせて、相手に気づかれぬよう超低空を進む。風防ガラス越しに上空を見上げると、徐々に近づく敵機の姿がよく見えてきた。
 敵機をやり過ごしたところで、上昇し反転する。気がつけば敵機が真正面でケツを見せていた。戦闘機では見えない後ろへの警戒がどうしても薄くなる。先に敵を見つけ、先制攻撃を仕掛けることが勝利への第一歩なのだ。
 照準器の中央に、最後尾の敵機を重ねる。まっすぐに飛んでいた敵機が急旋回を始めた。こちらに気づいたようだ。
「遅い」
 その時すでに、ヴィートの手は機銃レバーを握りこんでいた。
 機体が細かく振動し、火薬の匂いがコクピットに立ち込める。目の前の敵機が火を噴き、黒煙を上げながら高度を落としていった。
『悪魔様はさすがに早いな』
 そういうニーノだって、向こう側で一機撃墜している。
 気づかれた後はもう大乱戦だ。縦横無尽に飛び回り、片っ端から撃墜していくヴィートとニーノにかき回され、ヴォルガの編隊はわけがわからなくなったように取り乱している。むやみに機銃を乱射して、同士討ちまで引き起こしている有様だ。
 かといって、こちらも無傷というわけにはいかない。
「おっと」
 すれ違いざまに敵機の銃口がこちらに向いたと思った次の瞬間、風防ガラスに穴が開いていた。銃弾が少しずれていれば当たって死ぬかもしれないというのに、我ながら落ち着いたものである。
『大丈夫か』
「いつものことさ。お前こそ弾もらうなよ。その顔がそれ以上汚くなったら、白のスーツが着られなくなるぞ」
『結婚式までには治るさ』
 敵機は五、六機にまで減っていた。ニーノと折半とはいえ、今日一日だけでエースと認められるような戦果だ。
 だが、ヴィートの本能はまだ警戒を解いてはいなかった。
 敵の中に一機──デキる奴がいる。
 敵の編隊長だろう。機首にはラッパを持った天使のノーズアート。垂直尾翼に描かれたヴォルガの国章の下に、斧で表したキルマークが大小いくつかついている。彼は確実にエースだ。
 爆撃任務を終えて同僚たちが援護に入ってきている今、数の上ではこちらの方が上だ。だが『天使』は単機奮闘し、同僚機を一機、また一機と落としていく。
 ヴォルガにもあんなエースがいたことを今まで知らなかった。無駄のない、洗練された機動。大空を優雅に舞うその翼は、天使の名にふさわしい……
 見とれている場合ではなかった。ヴィートの隊の新兵が、天使に後ろを取られて右へ左へ逃げ惑っている。すぐさま助けに入った。
 新兵を追い掛け回す天使を軽く威嚇射撃。相手がこちらに気をそらした隙に、新兵は低空へ逃げていった。
「お前の相手はオレがするよ。天使と悪魔の一騎打ちだ」
 手袋の代わりに投げつけた弾丸を、天使もまた撃ち返してきた。決闘の始まりだ。
 互いに追い、追われて、後ろを取ろうと急旋回を続ける。照準器の中に機影を捉えようと必死になるが、エース同士、そう簡単にはいかない。いかせない。
 裏返る天地、踊り回る世界──急激な重力の変化に、骨が軋み、血液が逆流する。遠のきそうな意識を手繰り寄せるように、スロットルと操縦桿を引き絞った。
 一進一退の攻防だ。機銃の弾が翼をかすめていく。二、三発はもらったかもしれない。だがこちらもそれくらいは当てている。
 二機で螺旋を描いて踊る空のワルツ。
 いつ終わるとも知れない、けれど一瞬のうちに決着がつくであろうこの戦い。ヴィートは次第にのめりこんで行く自分に気づいていた──
 どれくらい経っただろうか。
 気がつけば雪が降り始めていた。風防ガラスに開いた穴から吹き込む凍てつく冷気が、永遠とも思えるこの時間から目覚めさせてくれる。
 降りしきる雪は徐々にその強さを増している。風防に霜までついて、視界は悪くなる一方だ。天使の機影も雪に紛れて見失っていた。
 仕切り直しだ。一旦気を落ち着けて、ゆっくりと息を吐く。それから首を動かして、上下左右前後、索敵を開始した。視界が悪いのは向こうも同じはずだ。
「ニーノ?」
 無線で呼びかけてみたが、雪のせいか電波の調子が悪い。応答はなかった。
 ここまで天気が悪くなると、空戦はおろか離発着も困難だ。たとえこの戦いに勝利したところで、着陸に失敗すれば元も子もない。それ以上にバーティゴ(空間識失調)を起こして平衡感覚を失うのが怖い。
 だが、あの天使を相手にして今更引けるかという気持ちが、今のヴィートを突き動かしていた。今ここでヤツを仕留めなければ、ランバルドの勝利が遠のいてしまう。
 外はもはや吹雪となっていた。視界は空の鉛色と雪の白で埋め尽くされている。計器を注意深くチェックしながら、何か見つからないか目を皿にして探した。
 必死で機影を探す目が、前方の遥か彼方にキラリと光る物体を捉えた。
 天使だ。見つけた……いや、見つかっていた?
 発射レバーを握る手に自然と力が入る。
 このままで行くとヘッドオン──二機が差し向かっての勝負、下手すれば相撃ちだ。
 来るなら来い。出たとこ勝負だ──
 急速に近づく機影を照準器に重ねる。息詰まる瞬間だ。機銃を撃つタイミングを逃すまいと、慎重に距離を測る。
 だが同時にヴィートは何かしらの違和感を覚えていた。徐々に大きくなる機影、プロペラの形状ですらハッキリと……
 違う。あれは……あの見慣れた鼻っ面は……
『ヴィート! 後ろだ!』
 ノイズだらけの無線機が怒鳴り声を上げたのと同時だった。
 二、三発、弾が機体にめり込む鈍い音──窓の外を機銃の弾がかすめていく。反射的に翼を傾けた。
 眼前に迫っていた機体とすれ違いざま、鼻先に描かれた深紅の薔薇がハッキリと見て取れた。肌が、違う恐怖に粟立つ。
「やめろおおおおおおお!」
 首を捻じ曲げ、すれ違ったニーノの機体をその目に捉えた時には──彼はその大きな翼で、天使の放つ機銃掃射を一身に浴びていた。
 まるで、盾となるかのように。
「ニーノ!」
 深紅の薔薇を抱いて、戦闘機がまた一機堕ちてゆく。もはや呼びかけにも応えない。その機体は瞬く間に炎に包まれ、吹雪に紛れながら白銀の大地に消えていった。
 ヴィートは全身の血が沸騰するのを感じていた。
 冷え切った指先すら燃えるように熱い。細かく震えているのは怒りなのか、はたまた恐怖なのか。
 燃え滾る闘志とは裏腹に、頭は冷静に動いていた。全身の神経がこれ以上ないくらいに研ぎ澄まされているのがわかる。今はこの機体が飛び続けてくれていることに感謝した。
 急旋回し、天使の後ろを取る。驚くほど自然で簡単な動作だった。
 襲い掛かる白魔の中でも、ヴィートには天使の姿がよく見えていた。いや、それすらも幻覚で、実際には見えていなかったのかもしれない。視界は五メートルあるかないかという状況まで悪化している。
 時が緩やかに流れているようだ。天使の機動も、彼がこちらを見失って焦っていることさえも手に取るようにわかる。
 指が自然と動いていた。機体から伝わる振動で、初めて機銃レバーを握りこんでいたことに気づく。誰もいないように見える空間に、機銃の弾が吸い込まれていった。
 ふと、吹雪が弱まった──わずかに開けた視界の中で、天使が無残に引きちぎられた翼を晒していた。
「やった……」
 吹き上げる黒煙を吹雪に溶かしながら、天使は降りしきる雪の中を急速に降下していく。
 キャノピーが吹き飛び、中のパイロットが脱出するのが見えた。制御不能、もはやこれまでと、潔く機体を捨てる判断は正しい。
 とどめを刺そうとヴィートは操縦桿を倒したが、動きが鈍かった。
 計器パネル上で、火災を知らせる赤ランプがついていた。弾丸をもらい過ぎたようだ。
 見る見るうちにコクピットが煙に包まれる。
「クソッ、相撃ちか」
 ヴィートもキャノピーを投棄し、馴れた手つきでベルトと肩のハーネスを外した。
 途端に凍るような寒さが全身を襲った。それほどの高度はないとはいえ、地上とは比べ物にならない。だが、蒸し焼きになるよりはまだましだ。
 飛び出す直前、くるぶしの上に装着された護身用の拳銃に触れた。それが何を意味するのか、ヴィートは痛いほどわかっているつもりだった。

 着地した際に左足首を捻ってしまった。思った以上に地面が硬かったのだ。それでも命があるだけありがたい。
 痛む足を引きずりながら、ヴィートは雪原を彷徨っていた。白い息を荒く吐きながら、深い雪の中を漕ぐように歩みを進める。ただ、黙々と。
 どうしてもニーノを見つけたかった。生きてても……たとえ死んでいても、基地につれて帰らねばならない。そしてもう一つ──
 革手袋をした手に握り締めた拳銃が、重たく感じる。
 杉林の中で、それは見つかった。
 高い木の枝に引っかかったままのパラシュート。赤と黄色のマークはヴォルガの国章に間違いない。
 その木の根元で、幹に寄りかかるようにして男が雪の上に腰を下ろしていた。思っていたより年のいった、中年に差し掛かろうという風貌だ。ヴィートを見上げると、無精ひげを生やした青白い頬を歪めて、力ない笑みを浮かべた。
「……早く殺してくれよ。とどめを刺しに来たんだろ?」
 その男──天使の声はかすれるように小さかったが、どこか有無を言わさない強い力があった。
 辺りの雪が、血で真っ赤に染まっている。
 彼の腹部が、見るも無残に裂けていた。パラシュートが風に流されて、折れた木の枝に引っ掛けてしまったのかもしれない。手で押さえてはいるが、出血が治まる気配はない。
「お前が……あの『白い悪魔』だろ?」
 おびただしい量の出血に驚いて呆然と立ち尽くしていたヴィートは、その声で我に返った。
 突き動かされるように、震える手で拳銃を構える。
 オレはこの男を──天使を殺しにここまで来たんだ。
 この男がニーノを、数多くの同僚たちを撃ち落としてきたのだ。敵を討つなら今しかない。だが……
「どうした……怖気づいたか?」
 嘲笑を浮かべて、天使はヴィートを見上げる。
 挑発されているとわかっていても──狙いの定まらない銃口を向けたまま、動けない。
 白く荒い息遣いだけが、静かな杉林に響いていた。
 その間にも、彼の腹部から流れ出る血液は止まることを知らなかった。大動脈をやられているのだろう。顔からどんどん血の気が引き、血圧が下がっていくのがよくわかる。このままでは……
 どのくらいの間、そうしていただろうか。
 引き金にかけられた指が、冷え切って凍ったかのように思える。
 静まり返った林の中で、たわんだ木の枝から雪の塊が落ちる音がした。
 おもむろにヴィートは拳銃をホルスターにしまうと、自らのファーストエイドキットを取り出し、その中から奇妙な形のチューブを取り出した。キャップの部分に細長い針がついている。
「……何を……するつもりだ」
 ヴィートはしゃがみこみ、針のカバーを外すと、虫の息となりつつある彼の大腿部めがけてその針を突き刺した。
「何って、基地に連れて帰る」
 それは携帯用のモルヒネだった。普通のキットには入っていないが、墜落で怪我することの多いヴィートは医務室から一本くすねておいたのだ。
「正気……か」
「敵軍兵士を捕まえて捕虜にするのは当然の行為だろ」
「やめ……ろ……オレはもう……ダメ……だ」
 彼がもはや助からないことは、この出血の量を見れば一目瞭然だ。遅かれ早かれ、ショックを起こし絶命するだろう。
 それなのに──オレはなぜ。
 ヴィートはなおも止血剤と包帯を取り出した。
「──やめるんだ!」
 今にも死にそうだった天使の、思いがけない大声に驚いてヴィートは包帯を落としてしまった。
 彼は歯を食いしばり、その顔は苦渋に満ちてヴィートを睨みつけていた。
「今更しおらしいことしたってな、お前は……いや、オレもだな……人殺しには変わりないんだよ。オレを助けようとしたって、それでお前の罪が軽くなるわけじゃない。オレもお前も、一生この罪を背負い続けなきゃならないんだよ」
「違う……オレは……」
「何が違うんだよ。認めたくないだけだろ? オレたちパイロットは機銃のレバーを握りこむだけで、相手のパイロットに直接銃口を突きつけてるわけじゃない。この目で相手がもがき苦しみながら死んでいく様をはっきりと見ているわけじゃないんだ。人殺しの自覚が薄い分、そこらの殺人犯よりたちが悪いのさ」
 目をそらすヴィートに、天使は優しく微笑みかけた。モルヒネが効いてきたのかもしれない。
「なあ……お前は何で戦ってるんだ?」
 かつてニーノが問いかけてきて、答えられなかったあの質問。
 天使の思いがけない言葉に、ヴィートは目を見張った。
「この国を守るためか? 名声が欲しいのか? それとも……単に敵機を撃ち落とすのが好きなだけか?」
「…………わからない」
 その答えはいまだ見つかっていなかった。
「今はただ、警報が鳴れば反射的に飛び立って、目の前に敵が現れたら機銃を撃つだけだ。理由なんて……」
「……だろうな。オレたちの戦う理由なんてあってないに等しいものだろうさ。いや、理由なんて必要とされてないのかもしれない」
 天使はその精悍な顔を歪めて、皮肉っぽく笑った。
「オレたち軍人はただの駒──権力者の道具なんだ。ヤツらはオレたちの苦しみも悲しみも知るまいよ。この手で同じ人間を殺すことの意味を、ヤツらは深く考えることなんてないんだろうな……」
「あんた……」
 もしかしたら──天使もまた、自分と同じ想いを、苦しみを抱えていたのかもしれない。
 国は違えど同じ人間、同じパイロット。彼もこの理不尽とも思える戦争に嫌気が差していたのかもしれない。
 天使が突然咳き込んだ。大量の血を吐き、雪の上に新たな血だまりを作る。
「おい……」
 手を差し出そうとしたヴィートを制して、彼は血で汚れた口元を手で拭った。
「これから先、もしお前が戦う理由を見つけられたのなら……それは幸せなことだと思え。願わば、この罪の重さに押しつぶされる前にそれを見つけることだ……オレのようになる前にな」
 彼もまた、戦う理由を見失っていたのだ。
 権力者たちに命令されるままに戦い、理解されない苦しみを抱え続けてきた天使──その苦しみから逃れる術は、彼にはもはや死しかなかったのかもしれない。
 彼はヴィートの目をまっすぐに見つめ、懇願した。
「同じエースのよしみで頼むよ。楽に逝かせてくれ……」
 彼の視線がホルスターの拳銃を捉える。
 その願いは、断れそうになかった。
 ヴィートはふらふらと立ち上がり、そして拳銃を取り出した。どこか夢見心地のようにゆったりと、一歩下がって両手で銃を構える。
「それでいい」
 天使は満足そうにうなずいた。
 今ここで天使を殺すことが、彼の唯一の救いになるのだ。
 それだけを信じて、今は引き金を引こう。
「お前、名前は?」
「……ヴィート・エヴァンジェリスティ。中尉だ」
「いい名だ。さあ……撃ってくれ」
 天使が目を閉じた。穏やかに微笑んで、まどろむかのようだ。
 銃口をまっすぐ、天使の心臓に向ける。
 今からこの手で──人を殺すのだ。この目で、彼の死をしっかりと見届けるのだ。
 震える指をしっかりと引き金にかける。じりじりと、指に力を込めていった。
 天使はもう微動だにしない。こちらを見ようともしなかった。
「……う……うう……うああああああああああああ」
 思い切り引いた引き金。
 慈悲の銃弾が、螺旋を描いて銃口から飛び出す。
 銃声は、くぐもった響きで雪の林の中に木霊した。

   ◇ ◇ ◇ ◇

 もう何度目の訪問になるのだろうか。
 話を一旦止めて、ヴィートは過ぎ去った時間を想った。過去と現在、時間の流れが前後したようで、今日が三度目の訪問であることがなかなか思い出せなかった。一度では時間が足りずに、乞われるまま今日で三度目となっている。
 コンサバトリーの外はすっかり冬だ。寒さは一層厳しくなりつつある。
 テーブルの斜向かいに座ったクリスは、その大きな瞳にあふれんばかりの涙を湛えてヴィートをじっと見つめていた。
 あの時──天使を撃ち殺した瞬間。
 本当は泣きたかったのだ──
 クリスの瞳から、透明な涙が一筋零れ落ちる。それを眺めながら、ヴィートは思い出していた。
 天使がその胸に抱えていた孤独、苦悩、誇り……その全てをこの手で終わらせてしまった。一つ重ねたその罪は、自分にとってはあまりにも大きすぎるものだったのだ。
 事切れた天使から逃げ出すようにその場を離れ、雪原を無我夢中のうちに歩き回り、ニーノの亡骸を見つけた時にはヴィートは凍死寸前だった。
 涙を流している余裕などなかった。いや、何も考えたくなかったのだ。
 クリスの涙は、あの時の自分が流せなかった涙なのかもしれない。
 抱きしめたい──
 王女を相手に恐れ多くもそんな衝動が湧き上がってきて、ヴィートは膝の上で拳を強く握り締めた。

「凍死寸前で救出され、病院で目を覚ました私は全治一ヶ月の大ケガでしたよ。でもじっと寝ていることなどできなかった……地上にいることに耐えられなかったんです。身体に圧し掛かる重力が、罪の重さと同じような気がして、一刻も早く空に逃げ帰りたかった。次の日には病院を抜け出して戦闘機に乗っていましたよ」
 ベッドに横たわる自らの身体が、重くて仕方がなかった。
 見えない何かが、この身体をベッドに抑えつけているような気がした。
 目を閉じれば、天使を殺したあの瞬間が鮮烈に蘇ってくる。手が指が、握り締めた拳銃の重さを、引き金の重さを鮮明に覚えている。
 じっとしていたくなかった。ただそれだけで、ヴィートは傷だらけの身体を引きずってまで戦闘機に乗り込んだのだった。
「それからの私の戦績はご存知の通りですよ。『不死身の悪魔』などと称され、何度堕とされても、どんな大ケガをしてもすぐに空へと舞い戻る……取り憑かれたような出撃回数に、軍医や仲間たちからは『狂ってる』と言われましたがね。確かにあの時の私は狂っていました。そうすることでしか精神が保てなかった。そうやって空へ逃げ込んではまた人を殺しているんですから、可笑しな話ですよね……」
 そう言ってヴィートは笑って見せたが、クリスの表情が晴れることはなかった。
 次々と零れ落ちる涙を拭おうともせず、ヴィートから視線を外そうとしない。
「戦争が終わり、戦う意義がなくなってホッとしたのも束の間でした。英雄と称えられ、陛下に勲章を賜った私は昇進し、地上勤務を命じられました。だがそれは地獄の日々の始まりだった──空を飛べないということは、逃げ込める場所がなくなったということなんです。終戦から五年……自分でもよく耐えたと思いますよ」
 地上勤務を命じられたあの時ほど、英雄であることを呪ったことはない。
 栄誉も名声も、勲章だって本当は欲しくなどなかったのだ。積み重ねてきた死体の上で輝く勲章を身につけるなど、ヴィートにとっては十字架を背負うのと同じことなのだから。
 平静を装いながら、その裏で強い罪悪感に苛まれ続けてきた日々。ギリギリのところで綱渡りをしてきた精神は、もはや限界に達していた。
「冬宮殿に降り立ったあの日の朝、夢を見たんです──土の中から這い出してくる無数の手……戦争で殺してきた何百人という人たちが、その上に立つ私の足首を掴んで地中に引きずり込もうとする──うなされて目が覚めて、私は格納庫へと駆け込みました。そしてたまたま空いてた飛行機に乗り込み、発作的に飛び立ったんです。夢の中の亡者から逃げるように、それはもう無我夢中で……それが整備途中の機体だったことにも気づかないくらいにね」
 高揚感が得られたのは一瞬だけだった。
 空へ逃げこんできた自分を責めるように停止するエンジン──一時はこのまま飛行機と一緒に堕ちようかとさえ思った。
 だが習慣というものは怖いものだ。墜落するとわかった瞬間、身体は脱出に向けて動いていた。ブランクがあっても、訓練や実戦で徹底的に身に染み付いた動きは忘れていなかったのだ。
 死ぬこともできず、流れ流されて着いた先が冬宮殿だった。そこが王女殿下の居城で、敵と間違われて銃殺される危険があるとわかっていても、ヴィートは今更逃げようなどとは思わなかった。捕まって処罰されようが脱走兵として処刑されようが、もうどうでもよかった。
 それが何の因果か、今こうやって王女を相手に昔語りをしている。
 ヴィートは窓の外に目をやった。微かに雪を被った垣根の中で、椿が真っ赤な花をいくつも咲かせている。その根元に散る赤い花びらが雪を染める血を思わせて、ヴィートは自らの罪をまた思い出した。
「私はただの『悪魔』ですよ。『英雄』なんかじゃない……数え切れないほどの人間を殺してきた、ただの『人殺し』。私はそれを自覚したのです。どんな大義名分があろうとも、罪は罪。この手で人を殺したその事実は一生私の脳裏から離れない──この罪を、一生背負って生きていくのです」
 話し終えて、ヴィートは紅茶のカップを掴んだ。飲むことも忘れて語っているうちにすっかり冷めてしまったようだ。口に含み喉を潤すと、深く深く息をついた。
 彼女の漆黒の瞳に見つめられると、抗えない──
 ヴィートの昔話を聞きたがる女は今までにも数多くいた。
 だがその誰もが華やかな戦績にばかり目が行き、口々に褒めそやし称賛の言葉で囃し立てるだけだった。
「悪魔」が「悪魔」になりえたその理由を誰も聞こうとはしない。ヴィート自身も意図的に話そうとしなかった。自分の最も弱い部分に触れられたくない、自ら触れたくなかったのだ。
 しかしクリスの──この王女の澄んだ瞳に見つめられると、その傷口でさえ自らさらけ出さずにはいられなかった。胸の内にずっとたまっていた澱を吐き出さずにはいられないほど、彼女の瞳には不思議な力があったのだ。
 どんなに陰惨な話でも、クリスは耳を塞ぐことなく、まるでこの宮殿内をゆったりと流れる時間の音を聞くかのようにじっと耳を傾けてくれた。ヴィートの淡々とした語りを、彼女もまた大仰に驚くでもなく淡々と聞いてくれた。
 そんな風に自分の話を聞いてくれる女性は、クリスが初めてだった。
「……ごめんなさい」
 クリスの呟く声に驚いて、ヴィートは伏せていた顔を上げた。
 彼女は唇を噛み締め、遠くを見つめていた。その目に涙はなかったが、吊り上げたまなじりが自己嫌悪に陥り、自分に憤りを覚える心中を表しているかのようだ。
「何を謝るんです? 昔話に付き合っていただいて、むしろ私は感謝していますよ」
「違うの」
 彼女の瞳がこちらを向いた。その瞳は微かに潤んで、深い悲しみを湛えているようにも見える。
「あなたを『人殺し』にしたのは私だわ」
「それは違うでしょう?」
 突拍子もない言葉に反射的に言い返したが、それでもクリスは首を横に振った。
「正確には私たち王族よ。ランバルド三軍の長は国王。たとえ侵略されて反撃するのであっても、あなた方兵士に人殺しの命令を出すのは王の仕事よ。そして私はそう遠くない将来、その王になる……」
 ようやく意図が飲み込めて、ヴィートは息をも呑んだ。
「あなたが罪を背負う必要なんてどこにもない。それは私たちの仕事よ。たとえそれが逃避であっても、あなたは命令を忠実に守り、この国を命がけで守った。あなたは悪魔でも罪人でもないわ。だからもう、そうやって自分を卑下するのはやめて……」
「殿下……」
 クリスの瞳から、新たな涙が零れ落ちる。
 綺麗だ──宝石のような涙だとヴィートは思った。ありきたりだが、そんな言葉しか思いつかなかった。無粋な慰めの言葉しか思いつかない自分を思い切り罵りたかった。
「……ならば殿下、これだけは覚えておいてください。私たちは王の命令一つで動く駒ではありますが、その駒にも意思が、感情があるのです。様々な想いや苦悩を抱えながら戦うのです。もし、王や殿下とその苦しみを少しでも分かち合うことができたのなら──それはこの国のために戦う兵士の救いとなることでしょう」
 クリスは静かにうなずいた。
 涙が光る大きな瞳には、もう憂いも悲しみも見えなかった。
 彼女は手にしたハンカチで涙を拭うと、晴れ渡った青空に輝く太陽のような眩しい笑顔を見せた。
「お話してくれてありがとう……あなたのおかげで、次期女王としての真の覚悟ができたような気がします」
 ヴィートをまっすぐに見据えて、凛と姿勢を正したその佇まいには後光すら差して見えるかのようだ。
 十八歳の少女としての可憐な顔と、次期女王としての威厳ある顔。
 華奢で細いこのクリスがこれから背負うもの──それはあまりにも大きく、過酷なものである。それを思うと、ヴィートもまた自然と背筋を伸ばし、彼女の決意の視線を真正面から受け止めた。
「あなたが命をかけて守ってくれたこのランバルドを、この大地を臣民を、これから先守っていくのは国王そして私たち王族の務め。あなたも兵士であると同時に一臣民です。これからは私が、命を懸けてあなたをお守りします」
 なんと強く神々しい──
 ヴィートは肌が粟立つのを感じた。もし立っていたのなら、間違いなく膝をついてひれ伏していただろう。
 穏やかに微笑みながら、揺るがない決意と覚悟を見せたクリス。
 その威厳に圧倒され、ヴィートは膝の上で握った拳が震えるのを抑えられなかった。
 クリスはおもむろに、テーブルの上に置かれていたベルを鳴らした。すぐさま飛んできた侍女に新しい紅茶を用意させる。
 カップに注がれる紅茶から、白い湯気が立ち上った。
「冷えてきましたね」
 クリスの言葉に外を見ると、また雪が降り出していた。もうすぐ冬本番、この庭園も直に雪景色に包まれるのだろう。
 熱い紅茶をすすると、身も心も温まりほぐれて行くような気がした。
「……ここは地上の楽園ですね。美しい庭園で美しい女性と語らう、ただそれだけで心が洗われるようです」
 ヴィートがそういうと、クリスは口元でカップを傾けていた手を止めて、おかしそうに笑った。
「本当にお上手ね」
「私はこう見えてもお世辞の下手な男でしてね。本当のことしか言えないんですよ。こんなにも穏やかで心安らぐ時間を過ごせたのは、パイロットになって初めてかもしれません」
 クリスに乞われる形で始まった昔語りだが、ヴィート自身、一つ一つ自分の記憶を整理して語るうち、不思議と気持ちまで整理できたような気がしていた。
「殿下をお相手に述懐することで、自分の中で戦争を過去のものにすることができたのだと思います。後ろをついてくる影にいつまでも怯えているのではなく、前を向き、地にしっかり足をつけて生きていくことが大事なのだと、ようやく気づきました。今の私にとって……空は逃げ帰る場所ではなく、自分が最も自分らしくあれる場所になったんだと思います」
 記憶と共に折り重なり、捩れ、複雑に絡まってしまった感情の糸──三度に渡りここに通い、時間をかけてゆっくりとそれを言葉に出すことで、その糸を一本ずつ丁寧にほどくことができた。だからこそきっと、今まで口に出すことをはばかってきた天使との邂逅を語る気になれたのだ。
 ヴィートの口元には自然と笑みが浮かんでいた。
「……あなたは本当にすごい人だ。王の資質というものがあるのなら、あなたは間違いなくそれを持っています。人々の心を開かせ、癒し、敬服させる力を……」
 ちょっとワガママで風変わりなお姫様──始めのうちはそう侮っていた部分もあった。話を聞いたぐらいで自分の何がわかる──と、憤りも感じていた。
 だが今は、彼女の力にただただ感服するばかりだ。
 クリスはこうなることを見越して、自分に昔語りをさせたのではないか──ヴィートはそんな気がしてならない。
 何か言いたげな彼女に気づかないふりをして、ヴィートは目に付いた鉢植えの花に歩み寄った。一輪の小ぶりな白いつぼみが真下を向いて、花開くその時を今か今かと待ち望んでいる。
「スノードロップ……もうすぐ咲きそうですね」
「え、ええ……春を告げる花だけど、ここに置いておくとさすがに開花が早いわね」
「殿下はご存知ですか? この花にまつわる伝説を」
 クリスが首を横に振るのを見て、ヴィートは続けた。
「かつてアダムとイヴがエデンの園を追われた際、雪が降りしきっていたそうです。永遠に続くような冬に、イヴは絶望し涙をこぼした……そんな彼女を慰めるために、天使が一片の雪に息を吹きかけ、この花を作り出したのだと言われています」
 まさに雪の雫がしたたるような、純白のつぼみ。もう少しすれば、美しく可憐な花を開かせるのだろう。
「花言葉は『希望』。私は思うのですよ──殿下こそがこの国の希望なのではないかと。今のランバルドはまさに永遠に続くかのような冬の時代。国全体が閉塞感に包まれる中で救いの光を見い出すならば、それはきっと殿下なのだと思います」
「──おだてないでくださる? 私はただの小娘よ」
 振り返ると、クリスは半分怒って半分照れたように、こちらを軽く睨みつけていた。
「殿下がただの小娘だと言うのなら、世の中の全ての女性は……それこそ人形ですよ」
「そんな調子のいいこと言ってたら、ご婦人たちに嫌われてしまうわよ」
 クリスは怒ったように目を吊り上げたが、その視線から逃れるようにヴィートはまた庭園に目をやった。
 今はその漆黒の瞳が、怖い。
 胸の内に生まれつつある、言葉にできない何かを見透かされそうな、そんな恐怖。
 いや、言葉にするのはもっと恐ろしい。その正体を確かめるのさえ怖くて、目をそらしたくなる。それなのに、それは少しずつ、少しずつ大きくなり──
 庭園を白く彩る雪はじき根雪となり、この宮殿を、ランバルドの大地を覆いつくすだろう。
 冬はこの国が最も美しくなる季節だと、ヴィートはつくづく思う。
 山々を覆う常緑樹の濃い緑と雪の白。遠く濃紺の海が見えた空からの景色は、ランバルドの国旗そのものだった。
 今、この国を守ろうと強く決意する王女を前にして思う。
 空から見たあの美しい情景を、いつか彼女にも見せてあげたい。そのためなら、この大地を守るためなら……
 冬戦争のさなかでなくし、見つけられなかった己の戦う理由。
 彼女が放つ希望の光の中に、それはきっとある。




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